2007/11/8 15:23
掬水月在手 弄花香満衣 禅語
みずをきくすれば つきてにあり はなをろうすれば かおりころもにみつ
掌の中の人掬(すく)いの水、その中に月が写ります。
美しい花を手折ると、その香りが着物に移ります。
この語は、当寺の山門にある石柱にも彫ってあります。
当寺の前住職、雄岳和尚の代に立てられたもので、同石柱には 昭和4年 とありますので、
80年近く前のものになります。
秋の美しい月が掌の我が物となり、花の香りも我が衣にその香りを満たすとき、それを例えて人境一如、自他不二といいます。
さて、その境地は修行しなければ到底たどり着けないかと言うとそうではありません。
人境一如になっているそのときが、人は一番無心であり、安らかで健康であるといえるのです。
乗馬でも、人馬一体とならなければ中々進みませんし、普段肩こり腰痛など無い人は、肩や腰を意識していません。健康な人は生まれながらにして人境一如なのです。
赤ちゃんに会えば赤ちゃんの気持ちになり、お年寄りに会えばお年寄りの気持ちになる。
こちらの心を『無』にして初めて、他に対する慈悲も生まれるのでしょう。
無き前住職は慈悲深い方でしたが、戦時中大変苦労されたと聞いています。
先達の苦労を偲びつつ、又新たな時代にも暖かな心で赤ちゃんやお年寄りに接していきたいものですね。
掌の中の人掬(すく)いの水、その中に月が写ります。
美しい花を手折ると、その香りが着物に移ります。
この語は、当寺の山門にある石柱にも彫ってあります。
当寺の前住職、雄岳和尚の代に立てられたもので、同石柱には 昭和4年 とありますので、
80年近く前のものになります。
秋の美しい月が掌の我が物となり、花の香りも我が衣にその香りを満たすとき、それを例えて人境一如、自他不二といいます。
さて、その境地は修行しなければ到底たどり着けないかと言うとそうではありません。
人境一如になっているそのときが、人は一番無心であり、安らかで健康であるといえるのです。
乗馬でも、人馬一体とならなければ中々進みませんし、普段肩こり腰痛など無い人は、肩や腰を意識していません。健康な人は生まれながらにして人境一如なのです。
赤ちゃんに会えば赤ちゃんの気持ちになり、お年寄りに会えばお年寄りの気持ちになる。
こちらの心を『無』にして初めて、他に対する慈悲も生まれるのでしょう。
無き前住職は慈悲深い方でしたが、戦時中大変苦労されたと聞いています。
先達の苦労を偲びつつ、又新たな時代にも暖かな心で赤ちゃんやお年寄りに接していきたいものですね。
2007/11/10 22:25
投稿者:ukihaji-12
http://ukihaji-12.asablo.jp/blog/
http://ukihaji-12.asablo.jp/blog/
↑コメントの追加を致します。朝田山西光禅寺の火災以前のお御堂は、堂々たるものでしたし、床下は高く子供達は歩いて通れる高さでした。かくれんぼ、の格好の場所でした。裸足でお御堂の中の如来様の後ろに隠れ、雄岳和尚様からお目玉を食った事も想い出されます。和尚様は子供達には、寛大で優しい温容が今でも想い出されます。
2007/11/10 10:25
投稿者:西光禅寺
ukihaji-12様、コメントありがとうございます。
仰る通りです。
今は十三仏の上や鐘撞き堂の上で遊ぶ子供は見かけなくなりましたね。
柿の木に上って実を採ったり、又それを愛情持って叱る大人のいないことに、少々寂しさを感じます。
そういった大人との関わりが希薄になった昨今の子供たちがどんな風に社会に巣立っていくのか、なにやら心配な気もいたします。
仰る通りです。
今は十三仏の上や鐘撞き堂の上で遊ぶ子供は見かけなくなりましたね。
柿の木に上って実を採ったり、又それを愛情持って叱る大人のいないことに、少々寂しさを感じます。
そういった大人との関わりが希薄になった昨今の子供たちがどんな風に社会に巣立っていくのか、なにやら心配な気もいたします。
2007/11/9 22:35
投稿者:ukihaji-12
掬水月在手 弄花香満衣 西光禅寺の門柱「漢詩の語句」私達は幼い時から当寺を遊び場にして育ちました。門柱はもとより塀伝いに(十三仏様)鐘撞堂の上までも、子猿の様に走りまわり、前住職雄岳和尚様から叱られたのも、懐かしい想い出です。語句の意味を解したのは中年に為ってからです。 中唐の詩人干良史「春山夜月」の二句の様で、ありがたい自然界の教えだと思います。 合掌
