北野武と柄谷行人  映画・批評

  

北野武と柄谷行人  映画・批評
 北野武と柄谷行人  
  KARATANIによって解明されたKITANO 7   オイラは「裁かるるジャンヌ」かっての      

 ところで、北野と柄谷の両者に当たってみたことがある者ならば、柄谷行人による近代国家(資本=ネーション=ステート)の分析(『世界共和国へ』岩波新書)が、『BROTHER』にそのままあてはまることに気付かないということはまずありえない。『BROTHER』にあるのはまさに3つの交換様式の接合にほかならないのだ。ひとつには利子の表明として現れるところの「資本」、さらにそれは「略取=再分配」による「振る舞い」であるという意味で「国家」(=警察)を指示する。最後に、このふたつのものの動因ともいえる任侠世界における「兄弟」関係、すなわち「武」がある。かくして、そこで「利子」は「友愛」の「しるし」(贈与)としてもたらされる。「武」は、結果として集権的な「ネーション=ステート」をもたらすが、同時にそれに抗う「詐欺」あるいは「嘘」としての「アソシエーション」(=交感)を孕んでいる。そして、この「詐欺」あるいは「嘘」こそが、出口なしの三位一体における唯一の可能性なのである。それはそこで「くじ引き」という「技術」となって結実する。さらに『Dolls』において、「それ」は「球」の発行(float)である。
 かくして、そこでイタリアマフィアを「ローマ」、メキシカンマフィアとチャイニーズマフィアを「封建勢力」と考えた場合、それらへの対抗が「ネーション=ステート」をもたらすものであることはいよいよ明らかである。すると、山本の「自発」(volunteer)とはすなわち「志士」の「それ」であるということにもなろう。むろん、「山本」というその命名からも明らかなように、北野によってそれは「真珠」(Pearl Harbor)としても想定されているのだ。さらに『BROTHER』が、第57回ヴェネチア国際映画祭でプレミア上映されたのが、ちょうど第2次「インティファーダ」(パレスチナ抵抗運動)という「ヴォランティア volunteer」の運動が始まろうとするころ(2000年9月)であったという事実にも注意が向けられてしかるべきである。それから、ほぼ1年後には、アメリカで「9/11」が引き起こされるというそんな情勢において、『BROTHER』は「世界」に向けてリリースされたのだ。しかるに、そこで下々による「勤皇」とまともに直面させられた浅田彰は、まさに「それ」ゆえに「それ」を「土人の国の出来事」だとして冷笑することしかできなかったのである。いうまでもなく、そこで軽侮とは奴の内なる「畏怖」の変装したものであるにすぎない。ひとはそこに示される「指詰め」や「ハラキリ」を「絵空事」であるとして嘲笑ったが、その後、アフガニスタンやイラクさらにパレスチナから伝えられたのは、まさに「自爆」(suicide bombing)だとか「路傍の爆破」(roadside bombing)、「斬首」(beheading)、さらには「麻薬取引」(drug trafficking)や「誘拐」(kidnapping)などといった現実だったのである。かくして、『BROTHER』は「9/11」の前と後を予見していたといっても過言ではない。なんといっても、そこでは「資本=ネーション=ステート」の三位一体が考察されているのである。そもそも、蓮實がいうような「北野武は映画に愛されている」(『映画狂人万事快調』 河出書房新社)といったようなくだらん理由で、そんなことが可能であるはずがないのだ。「それ」は「武」から来るのである。
 そして「武」は「くじ引き」に帰着する。柄谷によれば、「それ」は権力の集中する場所に導入される「偶然性」の謂いである。すると、それはわれわれに、『ソナチネ』(1993)に現れる女の名を連想させずにはおかない。砂浜にその「幸」(国舞亜矢)がやって来て、村川(ビートたけし)の横に並ぶ。その時、幸がそこに導入するのは「組み換え」であり、「位置転換」である。そこで「紙(神?)の人形」を模倣して、相撲を始めると、力士のふたりが「凝固」に見舞われる。それを運び、置きなおしてから、輪の外であとの三人が地面を叩くのと同時にクレーンが、宙に吊られる恰好で上昇する。それを目撃する者は、そこで言葉を失ったうえ極度の受動性に晒される、と同時にまた、主体のそうした「無能力」こそが、この出来事についての「悟り」(epiphany)をもたらす。こうしてひとは、「幸」の闖入がそこへ不意にもたらしたものが、束の間の「自治」(autonomy)であったことを悟る。いいかえれば、われわれは、そこに「映画狂人」によって忌避されるところの「戦争」(「陣地戦」 war of position あるいは「働くな」)を視るのだ。この遊戯は、心底恐るべき出来事すなわち「アソシエーション」なのである。「それ」は「自由」(disengagement 暇、解放、婚約解消、軍の撤退)」の現前なのだ。しかも米軍の駐屯地であり、朝鮮戦争で、そしてヴェトナム戦争で、さらに、今次のイラク戦争において、米軍が部隊をそこに集結させ、そこから後方支援を行ったところの「沖縄」の砂浜で、「それ」は現前するのだ。「それ」は「究極の」現前であり、まさに「崇高」なのである。 
 さらに、その真昼の砂浜での「凝固」は、真夜中に放射される「光」に関連づけられる。それは「宙吊り」を媒介にしている。まず、それは「送電中止」となって現れ、クレーンが「それ」(=宙吊り)を実演する。そして光が降ってきて、車の屋根に跳ねる。『BROTHER』で、それが服毒死した黒人少年の顔に降ったようにである。その襲撃の前には、フロントガラス越しにこわばる村川の顔面が提示され、続いてひとり、建物の方へと遠ざかるその背中が、キャメラによって捕捉される。北野映画では被写体がキャメラに向けて「背を向ける」ことは、「否認」をこそあらわすのであり、さらにそれは「宙吊り」へと向かうことなのである。ならば、やがて突発するマシンガンの速射音の鮮烈さは一体どこから来るのか? それは反射する光であり、反響する音である。要するに、それらは「リタ-ン」にほかならない。そして、ここに村川の「決済」があることはいうまでもなかろう。
 さらに「武」において特徴的なこと、それはその肉体の廃棄に際し、徹頭徹尾、躊躇が存在しないということであろう。そして、「容赦ない」肉体の廃棄をやり遂げると、続くのは「自己懲罰」である。それはどこまでも「自己」の問題である。であるがゆえに、そこでそれらの行為は、一般に「何なのよ、酷いだけじゃない」、「優しさがない」、「どうして?わかんない」などとして簡単に斥けられてしまうのである。さらにたけしが自身の経験として語るところによれば、「人殺し!」、「この悪党めが!」などと本気で罵ってくる者すらなかにはあるというのである。そういうひとらは要するに自分で「括弧入れ」をなすことができないのであるから、「この作品はすべてフィクションです。作中に登場する人物・団体等はすべて架空のものです」といった類の注意書きを本気で必要としているのだ。しかもその一方で、そういうひとらは案外、自分の国が軍隊まで派遣している「戦争」という現実を「括弧に入れて」、その内側で飲み食いやら性愛やら「お洋服」やらにうつつをぬかしておったりする。しかもその際、適当な良識さえ保持しておれば何か義務をはたした気になれるのだから安楽である。とはいえ、かくいう「拙者」も、そうした「括弧入れ」が、そもそも罷り成らんと主張するほどの分からず屋ではないつもりである。いうまでもなく、「拙者」にしたところで常日頃おおいに「括弧入れ」を活用しておる。ただそれは時に外さなければならないものだし、不意に外されてしまったりするものなのだ。すると途端にみなさんは血相変えて怒り出したりするから剣呑である(これじゃ、みなさんが異端審問官、オイラが「裁かるるジャンヌ」って図だぜ。しゃれになんないっての。まったくいやな御時世だよな)。つまり、「括弧入れ」ということで、「拙者」がいいたいのは、『BROTHER』というのはまさに、その「括弧外し」をなすところの「うつつ」なのだということなのです。しかも、その「うつつ」というのは「資本制経済」という「世界戦争」というわけだから、まさに「致命的」(Capital)なわけです。「それ」と比較した場合、「ラブ&ポップ」だとか「憂国呆談」だとかいったものは、せいぜいが良識と相互補完的であるというにすぎないものであって、むしろそうしたものこそが、いわゆる「世間」を形成するのであってみれば、それらが御時世に対しまったく抵抗力を持たないものであることは自明である。そうしたものに対し「当為」とは、いわば「快感原則の彼岸」(フロイト)にある、といってよい。かくして、「それ」は「否認」から「宙吊り」へ向かうという次第である。
 たとえば『3-4]10月』(1990)でのその数々の逸脱と引き延ばしは、物語ることからすれば非効率的な迂回であるように見えるし、そこには特に主題らしきものもないように見える。しかるに、『BROTHER』を経た後では、それはまるで違ったものになるのだ。それは差異化されて、まさに「差異」の発生そのものを扱った映画になる。端的にいえば、そこでタンクローリーの「運転」(drive)は資本の「欲動」(drive)になる。要するに、そこで北野は、雅樹こと柳「ユーレイ」を簡易便所、すなわち「ブラック・ボックス」に入れて、そこで「夢」を成立させている「無意識的な諸条件」を問うことによって、「夢」をその動因にまで遡行しているのだ。かくして、そこでわれわれが目の当たりに視るのは、「夢」を、反復・往復・追い越し(すぐそばを通る)という「簡単な形式・構造に還元しようとする」(定本柄谷行人集2 隠喩としての建築 岩波書店)ことが、「自己増殖の欲動」の発生からその帰結までを見極めるということに「変換」されてしまわざるをえないという、「武」につきまとって離れないその畏るべき「因果」なのである。だから、そこで画面の構成主義、あるいは「夢オチ」などを指摘して、それを不自然であるだとか作為的であるだとかと非難するのは当たっていない。というのも、もともと、その「欲動」は「売る-買う」という「価値形式」にこそ淵源するのだから、「形式」を問わずしてその解明が果たしえぬのは当然のことだからである。しかも、「武」はそうすることを「強いられて」いるのだから、やはり「出所」が違うのである。要するに、「それ」(資本の欲動)をとらえているのは市場の動向を予測するとか称する経済アナリストたちなんかではなく、むしろ「武」なのだ。

  

続「コマネチ!」とは何か  映画・批評
  続「コマネチ!」とは何か
    KARATANIによって解明されたKITANO 20B

イロニーとは所詮、はじめに「決断」を置くことで、そうして「終わり」を先取りすることによって、現実を「美化する、ロマンチックに扱う glamorize」ことでしかないのだ。三島の「自決」とは、他者の反論のすべてをバカげたものに見せることを企図してなされたところの「ツッコミ無用」の実践である。その都度にでも、徐々にでもなく、一気に永続的な「綜合」を達成しようとする、あるいはその不可能性をあてつけに誇示してみせることで、おのれが囚われていたところの「罪」の意識を、あとから来る者にも植え付け、それによって束縛しようとするとは、なるほど、「ブルジョワさん」の了見(ロマン=嫌味・「緋文字」)とはこれに違いない。「ブルジョワさん」は、そこで「経験的自己」に対する絶対的優位を求める。それは主人であることを要求する。それはだから、「位置」の問題なのだ。しかるに、資本主義における「位置転換」は、主人と奴隷の関係においてなされるのではない。「それ」はあくまでも「売れない恐怖」にかかわる問題である。したがって、奴の美学によって可能なのは、せいぜいが「当為」の深淵に「糞掻き棒」(=空疎書き暴)であるところの自身を架け渡すことくらいである。端的にいえば、それはモラルの審美化である。実際言って、まったく、お気の毒な限りではあるが、その綜合の「糞掻き棒」は「闘争のエチカ」をバカげたものに見せるための空疎な美学でしかない。そして、まさにそのような場所において、奴とその追随者らはまるで示し合わせたかのように揃いも揃って「糞掻き棒」に変態するのである。それは資本主義の美学的超克である。それは実際には超克なぞ望んでいないのであり、「国家」こそが現実的であると嘯いて、「理念」を嘲笑することをその真なる意図とするところの、怨恨それ自体である。実際、美学であるにすぎないことを承知で事をなして見せたところで、「位置転換」の現実は決して綜合されないのであり、であれば、それはたんに「機能していない」というだけである。すなわち、それは「認識」を放棄したということを意味するだけである。しかるに、そこには美学の恣意によっては埋めることのできない深淵、つまり、「当為」があるのである。
もはや三島のようにはやれない「イロニー」は、それは蓮實重彦において典型的であるが、この「当為」の忌避を、良識(「情報処理」あるいはPC)によって補填するのである。しかるに、それがたんなる良識でなく、「当為」であるというためには、「球」を開始することが必要不可欠なのである。そうでなければ「表象批判」などというものは、とどのつまり、くどいだけで退屈極まる「虚無思想」の紋切型に帰着するほかはないであろう。ほうれ、視よ! 奴等の「憂国呆談」は、「ボヴァリー夫人」(Emma)に帰着する(「なにいってんだよ、ボヴァリー夫人はオレじゃないか、ふざけんじゃないよ」。いうまでもなく、ここで三島は、黄泉の国から蓮實の僭称を告発しているのだ)。それはモラルをバカらしくみせるためにイロニーがその必死の努力においてなすところの綿密さへの立てこもりである(ひとは『HANA-BI』と同年に『失楽園』という大ヒット作があったことに注意すべきである。そこで三島的スノビズムに通じているのは明らかに後者なのだ。そこには現状に対し愚直に立ち向かうなどという「野暮」な志向はない。それはまぎれもなく「あられもないロマンティシズム」なのだ。であれば、本来「映画狂人」が快適に寛げるのは後者においてのはずである。しかるに、「映画狂人」は『HANA-BI』に「自分の顔」を見出し、「それ」(=収奪)に釘付けにされて、あるいは「魅せられて」しまったがゆえに、「それ」を指摘する危険をあえて冒したのである。そこで「映画狂人」の意図とは、いうまでなく「それ」を内面化することによって抑圧することである)。
「拙者」の記憶するところでは、はじめに三島と「武」の類縁性を指摘したのは、ほかならぬ蓮實である。さらにいえば、その蓮實を三島の後継者と名指したのは浅田なのである(浅田の分析が、ほかでもない「イロニー」を解説するときに、その対象に満遍なくゆきわたり、冴え渡るということに注意せよ。奴はそこに「仲間」=「ロマンティク」を見出す。そのうえでそれに自己批判的な批判を加えながら、それを擁護することで、とどのつまり、「自己防衛」を図るのだ。浅田が「終焉」を語るのを好むのは、それが一つの安定したパースペクティヴを可能にしてくれるからである。奴は、あらかじめ「出来事」を括弧に入れたうえで、それが到来しないのを嘆いてみたり、それを「宿命」として受け入れてみたりするというみずからのその諦念の身構えが嬉しくて仕方ないのだ。しかるに、「武」とは、そのとき、「括弧外し」の謂いであり、それこそ「致命的」に浅田のような本性に背反するのである。「それ」(=「闘争」)はロマンティクには耐え難いのだ)。あからさまにいえば、こうした成り行きは、結局、「糞」の擦り付け合いにすぎないのであり、「ブルジョワさん」、すなわちエリートクラブの内輪揉めをあらわしているだけである。「凡庸さについてお話させていただきます」とかいうその駄本において、それはなされたのだったと思うが、そこからの事態の推移を考えた場合、それはまったく蓮實にふさわしく、アイロニカル(「わしだぁ〜わしだぁ〜ボヴァリー夫人はやっぱりわしだぁ〜」)である。それは、かの「フライデー」襲撃事件を三島のパロディーと見なした浅田についても同様に言えることだが、「武」が、その後、みずからに「]」をつきまとわせて、三島とはまるで異質な者であることの「しるし」の数々を、この世界にもたらしたのに対し、蓮實および浅田にあるのは、情報処理か「音楽」に浸る(映画はその考古学的な恍惚によって見る者を「ボケ」させる)ことでしかないからである。
しかるに、「ランク」の全然違うお笑い芸人であるどころか、さらにそこから遥か下方で貧にあえぐしかない、その教養においても覚悟においても比較にもならず、さらにいえば、土性骨も世渡りの才覚もない、そんなわけで、どこまでも現実的に「悲惨それ自体」であるほかはない「拙者」ごときが、ここで無謀にも忖度させていただくならば、そういった類のことに退屈しきったからこそ、三島は「自決」を選んだのではないのか? 実際言って、三島が今、生きていたとして、情報処理能力やその聡明さにおいて、蓮實や浅田に劣るだろうか? むろんこういう想定は意味をなさないが、それでも「拙者」には現在、蓮實や浅田が、いったい何をもって三島に対抗するのであるかがよくわからないのだ。連中が三島に反撥するのは、とどのつまり、「仲間」意識からではないのか? かくして、この三島、蓮實、浅田の三位一体は、モラル(=歴史)への「抵抗」という点で固く結ばれているのである。しかるに、その「糞掻き棒」のトリニティーは、「コマネチ!」によって揚棄されるという事態を自らの宿命とするほかは何の手立てをももたない。おエライ先生たちは、あまり関心を持たれた事がないようなので、ここでお知らせしておきますが、「コマネチ!」というのは「世界の起源」(クールベ)のことなのですよ。それは「デルタ」なのである。さらにあからさまにいってしまえば、「コマネチ!」は「価値」である。
「武」における「もう一度」とは、『Dolls』において明らかなように、ほかでもない「視差」において、他者に直面することなのだ。そして、そのことは、ほかならぬ二つ折りとしての「宙吊り」の理念によって統整されているからこそ可能となるのである。それだけが、たとえば、『HANA-BI』で西のおこなう「略取=再分配」というような現実を、「たえず批判する根拠」たりうるのだ。

  

北野武あるいは「明治の精神」  映画
「明治の精神」
  KARATANIによって解明されたKITANO 21

さらに、ひとはここで、たとえば、次のように問うてみればよい。三島由紀夫や村上春樹について饒舌な「サブカルチャー」が、ほかならぬ「ビートたけし」については、なにゆえ「無口」になるのであるのかと。それは論ずるに値しないのであるか? それは無教養で低俗に過ぎるとでも言うのであるか? よろしい! それなら教えてやるが、「武」とは「明治の精神」である。ここで誤解をさけるために付け加えるが、それは「武」が、明治大学工学部の中途退学者であるということを指すのではない(ただしドロップアウトであるという事実が、その後の「武」の傾向を一方ならず規定するものであることはいうまでもない。ところがその後、それは2004年のことであるが、「武」は大学当局から「特別卒業認定証」および「特別功労賞」なるものを授与される。そこで明らかになったことは、「武」が第二外国語としてドイツ語を選んでいたこと、さらにほかならぬ経済学において、「優」の成績を収めていたことなどである。しかしまあドイツ語と経済学が「優」ってのも、何かの因縁だぜ。オイラ受講した覚えなんてないんだけどさ。かくして、オイラはいつだって「投資」の対象である。オイラは「独特な種類の商品」なのだ。なんたってオイラには「世界のキタノ」および芸能界の「ドン」キホーテとしての「信用」があるからだ。なめんなよ。「コマネチ!」)。 
ここで、「明治の精神」とは、たとえば北村透谷である。それはタレント、ビートたけしを注意深く見ている者で、「武」同様、「内面」(=精神性)を持たざるを得ない「悲惨」に生まれついた者ならば、すぐに「それ」と察することのできるものであるが、「それ」は、やはり、北野映画においてこそ明瞭に現れるものである。たとえば、『みんな〜やってるか!』に主題化されているのは、一般に考えられがちなように「欲望」への隷属ではなくて、「世俗内禁欲」なのである。ことわっておくが、「それ」は耐え難きを耐えることではなくて、容赦なく、「認識」(=変態)することなのだ。
一方、国家の奴僕等は、自分たちは専門家であり、したがって、真に国家の行く末を案じうるのは自分等のみであるという態度でもって、われわれ民衆の知恵を、いまや、あからさまに蔑むまでに至っている。しかるに、ステイツマンこそ「誤認」(misleading)するのだ(「コリン・パウエル。なんといっても、彼はスターなんですよ」by映画狂人。イラクに大量破壊兵器がないなんて。ああ、「こんなはずでは!!」)。
「蕩尽」であるとか「放蕩」であるとかを「いき」であるとみなすようなマンネリズムは、すでにそうしたものが機能しなくなって久しいのであるにもかかわらず、決してそういう現状を認識せずに、とどのつまりは、「国家」へと身を寄せることになるのである。それは頑迷であるというより、いまだ「文学」とやらに執着する(「ボヴァリー夫人はどうしたってわしだぁ〜」)者たちのたんなる自己保身の現れであるにすぎない。しかるに、「文学は終わった」。それは「コマネチ!」によって揚棄されたのである。いうまでもなく、それは文学をただたんに廃棄することではない。ここで、ひとつその「揚棄」の実例をあげるとすれば、夏目漱石の『こころ』(1914)におけるKがまさに「それ」にあたるであろう。ほかでもない柄谷行人が喝破したんであるから(定本柄谷行人集5 近代日本の言説空間 歴史と反復 岩波書店)、「それ」が「キタムラ」であり、「キタロウ」であることに疑いをさしはさむ余地などまったくない。とはいえ、今日に至るまでにその指摘に異論を持ち出した者がないというわけではない。たとえば、「他人の視点」からすると、どうみても蓮實の「催眠術」によって操縦されているとしか思われない「イエスマン」こと渡辺直己の『不敬文学論序説』(ちくま学芸文庫)がある。そこで渡辺は「それ」(K)に、おのが「不敬」という目的に奉仕させるため、「幸徳秋水」を当てはめているのだが、われわれにとって、それは「文学」(先生、おれもやっぱり、ボヴァリー夫人ということでいいですか?)を温存させるための「虚無思想」であるとしか受け取られない。というのも、それはかつて師と共に、漱石の「野暮」を嘲笑った白樺/大正もどきの自分を過剰に償おうとする「帳簿の改竄」あるいは「損失補填」にすぎないからである。いうまでもなく、「ロマンティク」は極端から極端へと振れる(=「転向する」)のだ。端的いえば、透谷では退屈だというわけなのであろう。しかるに、それは「恥」を回避して、「それ」を「シンボル」に置き換えたということを意味する。したがって、われわれは、この「抵抗」に注意を向ける必要がある。渡辺は透谷のようなやはり「極端」ではあるけれども、生真面目で地味な存在を幸徳秋水のような「象徴」的な存在に取り換えた。しかるに、それは「率直」(=道徳感情)を欠いているがゆえに「思弁的」である、といわねばならない。というのも、そうした適用は、やはり、「明治の精神」である幸徳を「他者」として扱うことを不可能にするからである。
一方、柄谷がKに透谷をみるとき、それが「想像力」(=道徳感情)からであるのはいうまでもない。その「想像力」はKに「ありふれた相対的な他者」を視るのだ。それに対し、この「他者」に対する「想像力」を欠いた者がどうするかといえば、おれの「表象批判」は「歴史」を逸しているという「正しい」自覚から、必然、それに無理矢理、「歴史」を導入しようとする。ところが、「それ」は、そのシンボル的思考によって消去されてしまわざるをえない。かくして、それこそまさに三島の前例(=「空疎」)が実証していることである。かくして、道徳感情という「想像力」を欠いているがゆえに、「シンボル」(=「みやび」あるいは「1968年」)に訴えざるをえない「フランス系優美」は、こぞって三島の自意識に同時代の「仲間」を見出すことになるのだ。しかも、そこでは、「作家」の「作品」を救うことが、そのまま「野暮」(=モラル)を回避する自分を「容赦」(pardon)することになっているのだから、連中はまさに「無責任」を体現している、といわねばならない。かくして、そこで「不敬」は社会的に無力化した文学者がとる美的態度すぎない、さらに率直にいえば、連中の「みやび」への執着は、とどのつまり、自己保身であるにすぎない。一見すると、直接的にして過激とも受け取られようが、その「不敬」という象徴的で「いき」な解釈は、結局、「率直」(=他者)を欠いているのだ。「ハラキリ」という儀式と「不敬」のために日本近代文学を「総動員」するということ。おのが「嫌味」(=「みやび」)を永続させるために「シンボル」を利用すること(このおれなんかは所詮、ニセモノであるにすぎませんが、わが「みやび」の文学は永遠に不滅です!)。「不敬」の「描写」を探し集めて「文学」を保存しようとする者は、すなわちそこで「みやび」を保存しようとしているのだ。いいかえれば、それは「冷戦期」においてのみ機能するというにすぎない「虚無思想」である。だとすれば、そうした試みによって「歴史」(=他者)を捉えようとすることは端からその「不履行」を約束されている、といわねばならない。実際、渡辺は皇太子の撮影した「映像」を、さも一大事であるかのように受けとめ、それを御丁寧に「描写」しているが、率直にいって、それは今現在、本当に「関心」足りうるものであろうか? むしろ、柄谷がそうしたように、たんにその制度の廃止(=「終り」)をいうこと、まさに「それ」こそが「率直」というものではないのか?
あるいはさらに「それ」(「K」)が夏目金之助であるとするならば、当然、「それ」は恐慌(=ヒステリー)の問題であるはずである。かくしてひとは、座頭市の「金」髪に思い至らざるをえない。ありていにいえば、渡辺はそこで、おのが「不敬」というパースペクティヴに奉仕させるため、幸徳秋水という「スター」(=偶像)を必要としているというわけなのだから、どこまでも「主」に忠実な「奴」なのだ。そもそも、なにが「不敬」といって映画狂人こと蓮實「先生」のお生まれになられた日が、かつての「天長節」にあたっているという事実ほど「不敬」なものもまたとあるまい。渡辺が「それ」を不問に付すことは、そこで「自己言及」のないことに等しく、であるがゆえに、それは「義」の回避に帰着するほかはなく、そんなわけで、それはどうあっても思弁であるほかはないのである。このように「K」の論理は容赦なく貫徹される。「それ」(K)は、「自己律法」の問題であり、「それ」のはらむ理念への「殉死」である。透谷とは「恐慌」(=ヒステリー)に直面して、みずからを「宙に吊った」者なのだ。そして、「それ」こそが、《明治十年代の自己幽閉者のidentity》(定本柄谷行人集5 第二部・第2章 大江健三郎のアレゴリー 歴史と反復 岩波書店)にほかならない。しかるに、そうしたものは理の当然によって、「いき」(=シック)によって嘲笑されるところのものである。そして、そのように嘲笑されるところの「野暮」こそが、現在、「武」によって批判的に継がれているところのものなのだ。したがって、「ロマンティク」らの症例としての、「武」への抵抗とは畢竟「文化」(Kultur)への不満にほかなるまい。
いうまでもなく、キタムラ、キタロウ、キタノの三人に共通するのは、「キ印」(島崎藤村)あるいは「左巻き」(反時計回り)である。これはタレント、ビートたけしについて一般に流布する偏見からすると、寝耳に水というか、何やら荒唐無稽な指摘に思われもするであろうが、「武」を「運動」として「虚」心に捉えるならば、「それ」は疑い得ないのである。すでにいったと思うが、「武」の根底にあるのは「純粋」(purity)への希求である。そのことを安易な偏見によって見失わないかぎり、このような「精神」を理解することはことさら難しいものではない。あらためていうと、「武」の政治思想とは「遊戯」であり、「構成力」であり、「手仕事」であり、「発明」である。
『あの夏、いちばん静かな海』や『Dolls』における「恋愛」を、「今時」でない野暮なものとして嘲笑することは容易である。ところが、それらの恋愛を「道徳法則」にしたがったものである「かのように」見なすとき、それらはまったく別の相貌(「物自体」)を見せるのだ。北野映画におけるトンネルとは、ほかでもない「動く空気」が吹き通る「管」なのであって、それは変態を重ねて、ついに『Dolls』における玩具に、その精髄を現わすのである。そして、いうまでもなく、その先端に現れるのがピンクの「球」である。かくして、「それ」は、ついに「球」を開始したのである。そんなわけで、北野武は「世界史的」であるほかはないのだ。いうまでもなく、ここで「世界史的」であるとは、すなわち、「地球規模において」その悲惨な現状を揚棄するという志向と切り離せない。しかもこれが最も大事なことだが、それは「認識」することを通してのみ、「それ」と知られうるのである。その運動において、労ばかり多くして報われることが少ないなどと嘆く暇をわれわれは持ち合わせてはおらない。たとえ未来の他者がわれわれの労苦に対し無関心であるとしても、われわれは「それ」であるべきである。そう遠くはない未来において、われわれの「ぼやき」も、ついには聞き入れられることになろう。「もはや認識ではない、実践だ」などというひとらは、「コマネチ!」の運動を嘲笑し、けっして顧みないであろうが、そのときひとは、まんまと「コマネチ!」によって出し抜かれているのである。「コマネチ!」とはまた、未来の別名にほかならないからだ。かくして、「オレの使命はマヌケな死に方をすること」、「いかに情けなくくたばるかって事を常に真剣に考えてる」が、「武」の「当為」となるのである。「それ」は死の「劇化」を嫌う。北野映画は「死の劇化」に似て非なるものである。かの「バイク事故」は、あくまでも、「アクシデント」なのである。 

  

北野武を柄谷行人によって解明する  映画
北野武を柄谷行人によって解明する  
KARATANIによって解明されたKITANO 7   オイラは「裁かるるジャンヌ」かっての      

ところで、北野と柄谷の両者に当たってみたことがある者ならば、柄谷行人による近代国家(資本=ネーション=ステート)の分析(『世界共和国へ』岩波新書)が、『BROTHER』にそのままあてはまることに気付かないということはまずありえない。『BROTHER』にあるのはまさに3つの交換様式の接合にほかならないのだ。ひとつには利子の表明として現れるところの「資本」、さらにそれは「略取=再分配」による「振る舞い」であるという意味で「国家」(=警察)を指示する。最後に、このふたつのものの動因ともいえる任侠世界における「兄弟」関係、すなわち「武」がある。かくして、そこで「利子」は「友愛」の「しるし」(贈与)としてもたらされる。「武」は、結果として集権的な「国家」をもたらすが、同時にそれに抗う「詐欺」あるいは「嘘」としての「アソシエーション」(=交感)を孕んでいる。そして、この「詐欺」あるいは「嘘」こそが、出口なしの三位一体における唯一の可能性なのである。それはそこで「くじ引き」という「技術」となって結実する。さらに『Dolls』において、「それ」は「球」の発行(float)である。
 かくして、そこでイタリアマフィアを「ローマ」、メキシカンマフィアとチャイニーズマフィアを「封建勢力」と考えた場合、それらへの対抗が「ネーション=ステート」をめざすものであることはいよいよ明らかである。すると、山本の「自発」(volunteer)とはすなわち「志士」の「それ」であるということにもなろう。むろん、「山本」というその命名からも明らかなように、北野によってそれは「真珠」(Pearl Harbor)としても想定されているのだ。さらに『BROTHER』が、第57回ヴェネチア国際映画祭でプレミア上映されたのが、ちょうど第2次「インティファーダ」(パレスチナ抵抗運動)という「ヴォランティア volunteer」の運動が始まろうとするころ(2000年9月)であったという事実にも注意が向けられてしかるべきである。それから、ほぼ1年後には、アメリカで「9/11」が引き起こされるというそんな情勢において、『BROTHER』は「世界」に向けてリリースされたのだ。しかるに、そこで下々による「勤皇」とまともに直面させられた浅田彰は、まさに「それ」ゆえに「それ」を「土人の国の出来事」だとして冷笑することしかできなかったのである。いうまでもなく、そこで軽侮とは奴の内なる「畏怖」の変装したものであるにすぎない。ひとはそこに示される「指詰め」や「ハラキリ」を「絵空事」であるとして嘲笑ったが、その後、アフガニスタンやイラクさらにパレスチナから伝えられたのは、まさに「自爆」(suicide bombing)だとか「路傍の爆破」(roadside bombing)、「斬首」(beheading)、さらには「麻薬取引」(drug trafficking)や「誘拐」(kidnapping)などといった現実だったのである。したがって、『BROTHER』は「9/11」の前と後を予見していたといっても過言ではない。なんといっても、そこでは「資本=ネーション=ステート」の三位一体が考察されているのである。そもそも、蓮實がいうような「北野武は映画に愛されている」(『映画狂人万事快調』 河出書房新社)といったようなくだらん理由で、そんなことが可能であるはずがないのだ。「それ」は「武」から来るのである。
いかにもさよう、「武」は「くじ引き」に帰着する。柄谷によれば、「それ」は権力の集中する場所に導入される「偶然性」の謂いである。すると、「それ」はわれわれに、『ソナチネ』(1993)に現れる女の名を連想させずにはおかない。砂浜にその「幸」(国舞亜矢)がやって来て、村川(ビートたけし)の横に並ぶ。その時、幸がそこに導入するのは「組み換え」であり、「位置転換」である。そこで「紙(神?)の人形」を模倣して、相撲を始めると、力士のふたりが「凝固」に見舞われる。それを運び、置きなおしてから、輪の外であとの三人が地面を叩くのと同時にクレーンが、宙に吊られる恰好で上昇する。それを目撃する者は、そこで言葉を失ったうえ極度の受動性に晒される、と同時にまた、主体のそうした「無能力」こそが、この出来事についての「悟り」(epiphany)をもたらす。こうしてひとは、「幸」の闖入がそこへ不意にもたらしたものが、束の間の「自治」(autonomy)であったことを悟る。いいかえれば、われわれは、そこに「映画狂人」によって忌避されるところの「戦争」(「陣地戦」 war of position あるいは「働くな」)を視るのだ。この遊戯は、心底恐るべき出来事すなわち「アソシエーション」なのである。「それ」は「自由」(disengagement 暇、解放、婚約解消、軍の撤退)」の現前なのだ。しかも米軍の駐屯地であり、朝鮮戦争で、そしてヴェトナム戦争で、さらに、今次のイラク戦争において、米軍が部隊をそこに集結させ、そこから後方支援を行ったところの「沖縄」の砂浜で、「それ」は現前するのだ。「それ」は「究極の」現前であり、まさに「崇高」なのである。 
さらに、その真昼の砂浜での「凝固」は、真夜中に放射される「光」に関連づけられる。それは「宙吊り」を媒介にしている。まず、それは「送電中止」となって現れ、クレーンが「それ」(=宙吊り)を実演する。そして光が降ってきて、車の屋根に跳ねる。『BROTHER』で、それが服毒死した黒人少年の顔に降ったようにである。その襲撃の前には、フロントガラス越しにこわばる村川の顔面が提示され、続いてひとり、建物の方へと遠ざかるその背中が、キャメラによって捕捉される。北野映画では被写体がキャメラに向けて「背を向ける」ことは、「否認」をこそあらわすのであり、さらにそれは「宙吊り」へと向かうことなのである。ならば、やがて突発するマシンガンの速射音の鮮烈さは一体どこから来るのか? それは反射する光であり、反響する音である。それらは「リタ-ン」にほかならない。そして、ここに村川の「決済」があることはいうまでもなかろう。
さらに「武」において特徴的なこと、それはその肉体の廃棄に際し、徹頭徹尾、躊躇が存在しないということであろう。そして、「容赦ない」肉体の廃棄をやり遂げると、続くのは「自己懲罰」である。それはどこまでも「自己」の問題である。であるがゆえに、そこでそれらの行為は、一般に「何なのよ、酷いだけじゃない」、「優しさがない」、「どうして?わかんない」などとして簡単に斥けられてしまうのである。さらにたけしが自身の経験として語るところによれば、「人殺し!」、「この悪党めが!」などと本気で罵ってくる者すらなかにはあるというのである。そういうひとらは要するに自分で「括弧入れ」をなすことができないのであるから、「この作品はすべてフィクションです。作中に登場する人物・団体等はすべて架空のものです」といった類の注意書きを本気で必要としているのだ。しかもその一方で、そういうひとらは案外、自分の国が軍隊まで派遣している「戦争」という現実を「括弧に入れて」、その内側で飲み食いやら性愛やら「お洋服」やらにうつつをぬかしておったりする。しかもその際、適当な良識さえ保持しておれば何か義務をはたした気になれるのだから安楽である。とはいえ、かくいう「拙者」も、そうした「括弧入れ」が、そもそも罷り成らんと主張するほどの分からず屋ではないつもりである。いうまでもなく、「拙者」にしたところで常日頃おおいに「括弧入れ」を活用しておる。ただそれは時に外さなければならないものだし、不意に外されてしまったりするものなのだ。すると途端にみなさんは血相変えて怒り出したりするから剣呑である(これじゃ、みなさんが異端審問官、オイラが「裁かるるジャンヌ」って図だぜ。しゃれになんないっての。まったくいやな御時世だよな)。つまり、「括弧入れ」ということで、「拙者」がいいたいのは、『BROTHER』というのはまさに、その「括弧外し」をなすところの「うつつ」なのだということなのです。しかも、その「うつつ」というのは「資本制経済」という「世界戦争」というわけだから、まさに「致命的」(Capital)なわけです。「それ」と比較した場合、「ラブ&ポップ」だとか「憂国呆談」だとかいったものは、せいぜいが良識と相互補完的であるというにすぎないものであって、むしろそうしたものこそが、いわゆる「世間」を形成するのであってみれば、それらが御時世に対しまったく抵抗力を持たないものであることは自明である。そうしたものに対し「当為」とは、いわば「快感原則の彼岸」(フロイト)にある、といってよい。かくして、「それ」は「否認」から「宙吊り」へ向かうという次第である。
たとえば『3-4]10月』(1990)でのその数々の逸脱と引き延ばしは、物語ることからすれば非効率的な迂回であるように見えるし、そこには特に主題らしきものもないように見える。しかるに、『BROTHER』を経た後では、それはまるで違ったものになるのだ。それは差異化されて、まさに「差異」の発生そのものを扱った映画になる。端的にいえば、そこでタンクローリーの「運転」(drive)は資本の「欲動」(drive)になる。そこで北野は、雅樹こと柳「ユーレイ」を簡易便所、すなわち「ブラック・ボックス」に入れて、そこで「夢」を成立させている「無意識的な諸条件」を問うことによって、「夢」をその動因にまで遡行しているのだ。かくして、そこでわれわれが目の当たりに視るのは、「夢」を、反復・往復・追い越し(すぐそばを通る)という「簡単な形式・構造に還元しようとする」(定本柄谷行人集2 隠喩としての建築 岩波書店)ことが、「自己増殖の欲動」の発生からその帰結までを見極めるということに「変換」されてしまわざるをえないという、「武」につきまとって離れないその畏るべき「因果」なのである。だから、そこで画面の構成主義、あるいは「夢オチ」などを指摘して、それを不自然であるだとか作為的であるだとかと非難するのは当たっていない。というのも、もともと、その「欲動」は「売る-買う」という「価値形式」にこそ淵源するのだから、「形式」を問わずしてその解明が果たしえぬのは当然のことだからである。しかも、「武」はそうすることを「強いられて」いるのだから、やはり「出所」が違うのである。要するに、「それ」(資本の欲動)をとらえているのは市場の動向を予測するとか称する経済アナリストたちなんかではなく、むしろ「武」なのだ。

2008/8/7  7:37

ドストエフスキーの伝統  世界史
  ドストエフスキーの伝統
  KARATANIによって解明されたKITANO 49

北野武がこれまで自作を出品したこともないというのに、この度、突如として、第30回モスクワ国際映画祭において特別功労賞を授与されたという事実は、ロシアでの空前の「日本ブーム」に部分的に因っているということらしいので、当然のごとく、それをかの地における「オリエンタリズム」に帰して適当にわかった気になる、あるいはことさらに無関心を装うことで、そうした事実を蔑んでみせるというのが、この国のジャーナリズムの「武」に対する今やお決まりとなった態度なのであるが、われわれは、そうした世の風潮も何のその、容赦なく認識するだけのことである。
ロシアが一方で、「略取=再分配」をその「交換様式」とする「専制的な国家体制」(オリエンタル・デスポティズム)であるのは明らかであるが、北野武の「当為」からすれば、『HANA-BI』という映画タイトルが端的に示しているように、もう一方には「互酬原理」によって組織された「戦士共同体」としての「武」があるべきなのである。そして、そうした可能性はかの地で、ほかならぬ『Dolls』(2002)が二年以上にわたってロングラン上映されたという事実から窺い知ることが出来る。というのも、さわこの「ヒステリー」とはそこで、まさに「抵抗」にほかならないからである。
したがって、かの地での受賞式に際して、北野がロシアにおける「ドストエフスキー」の伝統に言及したのは至当である。あからさまにいってしまえば、さわこは『Dolls』で、「イエス」として現れるのだからである。そこで、さわこの「顔」は「他の言語」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)の存在を松本に、さらにはそれを目撃するわれわれに伝える。柄谷行人は、かつて、「ドストエフスキーの幾何学」(『言葉と悲劇』所収 講談社学術文庫)という講演のなかで、《ある意味では、ドストエフスキーの世界というのは、神を人間の中に連れこんできたような、そういう世界のように思われるのです》と述べているが、そこで、さわこは『BROTHER』における山本と同じように「強い視差」を伴ってわれわれの前に出現する、そしてそのことによって、「神」を一瞬閃かせるのだといってよい。『BROTHER』における友愛、そして『Dolls』における恋愛は、「強い視差」を「しるし」として、「契約」を交わすことによってはじめて成り立つところの「交換=交感」にほかならない。
というわけで、さわこの「ヒステリー」に震撼される者だけが「封建制」の何たるかを理解しているとわれわれは確信している。「神」とは「複数体系」にほかならない。「それ」(世界)が「視差」において一瞬閃くのである。ついでにいっておくと、蓮實重彦は、かつてロシアを「わしのふるさと」と呼んだことがあるが、奴こそは「帝国=みやび」(オリエンタリズム)の側の人間である。

2008/8/6  7:50

「武」の戯れ  政治思想
    『BROTHER』における「精神現象学」  ―「位置」の戯れ―  

かれらの間の容赦なき位置転換の運動においてのみ、かれらを規定するところのもの、すなわち「力」は独立的に現れ、存在を持つ。たとえば、誘発する力が普遍的な媒体として設立される一方で、誘発されたものは抑圧された力として現れる。しかし「武」はまさに「デニー」が抑圧されたものであるという事実によってはじめて普遍的な媒体なのである。すなわち、「デニー」は実際に「武」を誘発し、そのことによって「武」をそれが主張するところの媒体たらしめる。
 かれらはそれぞれいちおう独立した存在であるが、現実には、かれらの存在はそれぞれ相手に向う運動においてのみあり、ひたすら相手の存在を通してのみ、みずからの位置を獲得する。したがって、かれらの存在、あるいは「力」とは畢竟「一瞬の現れ」の謂いにほかならぬ。
かれらは唯、この媒介の運動においてのみ、そして相互契約においてのみあるところのものである。
 かれらの自然的本性は、ひとえに、それぞれが、ただ相手を通してのみ存在するということにある。
 その時、視差はおのれを現実性そのものとして主張する。そして、視差が全き唯一者の現実性として現出するなら、同時に、それはそれ自身を抹消する過程以外の何ものでもない。

2008/8/5  7:18

政治思想としての「武」  政治思想
「世界共和国へ」

かくして、「武」は「抑圧されたもの」が、いかにして社会に登場してくるかをあからさまに示している。しかるに、なだれを打つような「下剋上」(過剰流動性)の世界がそういつまでも続くものではないから、当然、そこで、「治国平天下」のために、しかるべき制度=システムの介入が要請される。とはいえ、そうした制度=システムもいつしか官僚化し、腐敗してくる。するとそこで、それにかわる新たなる制度はあらかじめそうした官僚化を防止するような技術を具えていなければならないということになり、価値増殖がそこにかかっている、まさに致命的な地点に「くじ引き」が導入される。いうまでもなく、それが『BROTHER』における「政治思想」である。同様に、『HANA-BI』における「政治思想」は「手で作られたものの」(マニュファクチュア)のアソシエーションがそこに編み出され、それを「家族的国家観」という支配的制度、すなわち「ネーション-ステート」に対抗させることにあるといえるし、『Dolls』では「ピンクの球」がその不可視の働きによって、カップルを暁の「宙吊り」にまで導き、「永遠平和」を喚起するというところに「武」が存している。

2008/8/4  7:37

カミさんについて  倫理学
カミさんについて

なにが「みやび」だ! ゴダールは、志賀直哉や長嶋茂雄にも似て、たしかに「高貴noble」には違いないだろうが、「闘争」を欠いている。こんなことを言えば、どうせその音響と画面の高度な組み合わせそのものが、まさに「それ」なのだという反論が帰ってくるだろうが、やんごとなき「麿」こと浅田彰をみても明らかなように、「作品の完成度」とかいったものを尺度として至極尤もらしい分類に感けながら、肝心の分析を蔑ろにする「中毒者」の自己満足は畢竟、現状に対しなんの効果も及ぼすことがない。というのもそうした中毒者らが、「空無」に仕えて「バリケード」に立て籠もる者、いいかえれば、現実を内面登録するに感けて、「終りなき当為」としての容赦ない認識あるいは現状の揚棄を促す「理念」の働きを斥ける者でしかないからである。
とどのつまり、ゴダールとは「文学」の外においては書くことも話すこともできない「カミさん」である。それは大阪出身で、もと漫才師である「武」のカミさんとは大違いである。カミさんの名である幹子とは、『HANA-BI』の砂浜に置かれた倒木であり、そこで横軸をなすものである。それは「武」の実部(相棒)なのだ。それは「武」の「幹」(stock)であり、「武」がそこから「枝」(branch)を広げようと意図していることは明白である。したがって、そこには「信用」(stock)の問題がある。実際、かのバイク事故によって余儀なくされたその病床で、「武」はカミさんに問いかけている。《そうだ、黄金色の家ってのはいつできるんだい?》(『顔面麻痺』太田出版)。ここには「恐慌」の問題がある。
一方、その本性からして野暮な「道徳性」だけはどうしても回避しないではいられぬゆえ、「闘争」を欠き、まさにそれゆえに、どこまでも迂遠であるほかはない、かくして、「音楽愛好家」たちの愛玩物であるほかはない「カミさん=ゴダール」を、その「退行」から救い出してやるためには、「それ」を現状への「対抗」に変換すべく、その内部に「統整的理念」の働きを探り当ててやるほかに手はないのである。ところが、「フランス系みやび」の連中はそんなものには関わりを持たないばかりでなく、「それ」を嘲笑する。かくして、「人が想像出来る芸術の最も偉大な仕事」に対し「音楽」に自足するような態度しか示すことができないのだ。だいたい「毛沢東語録ならぬ赤それ自体」(『中国女』)などという解釈によって、いったい何が解明されるというのか? 「犬が走る capitalist running dog」(『新ドイツ零年』)だとかさ。ホントにアホじゃねえのか? そんなんでいったいなにがわかんだよ? 「ここにはジョン・フォードの「騎兵隊」、「捜索者」、さらには「駅馬車」の記憶があるはずだ」(『フォーエヴァー・モーツァルト』)だとさ。くだらねえ、それが「批評」かよ。「モンタージュはあるが、理念がない。ストライキはあるが、ボイコットがない」(『東風』の試写会場におけるガンジーとグラムシによる共同声明)。「それ」が現状にいかなる働きかけをなしているのであるか、あるいは「未来の他者」にいかに応答しているのであるかが解明されるべきなのであって、とどのつまり、「上質の音楽は最高に気持ちいい」ということに要約されてしまうほかはないような感想などは「ブルジョワさん」の自己満足にすぎない。
ゴダールは天才である。そのことは「拙者」のような紛う方ない貧乏人にとってさえ、まったく疑い得ないことのように思われる。たとえば、ウェーベルンの「作品」が、あるいはジョイスの「作品」が、どうあっても後世に残るだろうように、彼の「作品」も廃れるというようなことには決してならないだろう。しかるに、そんな完全無欠の「音楽作品」ばかり食らわされた日には、音楽に恍惚とするのが本性の「ブルジョワさん」は結構だろうが、オイラのような「野暮天」はやりきれない。オイラの特質は「宙に浮く」ことにあるので、そんな充実を誇るだけの「作品」の内部に収まって、ヌクヌクというわけにはいかないのだ。ことわっておくが、オイラは、その種の「場所」を必要としない。浅田彰などは、そもそもが「理念」の働きを認知できないからこそ、他に言うことを持たず、音楽の質などというものをまずもって言い立てるほか仕方ないだけのことである。しかもそれは大抵の場合、衒学趣味となって現れる。この清らかな人は、音楽会で泣いていらっしゃる。それは「ブルジョワさん」特有の「お涙頂戴」ではないのか? 音楽は「麿」の「縄張り」で「おじゃる」というのが、その主張であるらしい。「ブルジョワさん」は、自らの「エリート意識」に涙していらっしゃるわけである。それは「分類」を事とする本能である。そりゃ「武」とは性が合わん。「山の手のピアニスト」(淀川長治)、まさにあんたのことじゃねえの?

2008/8/2  19:29

カミさん宛書簡  倫理学
オイラは皮かむりのスクルージであり、父菊次郎であり、芸能界の「ドン」キホーテであり、結局オイラは歴史上のすべての名前なのです。我がいとしの王女、さわこへ。オイラは子供のころ「アメリカさん」でした。明治時代にはKでした。フランス座では阿Q、さらにいえば、ブヴァールとペキュシェでした。秀吉と毛沢東は、さらに付け加えておけば、二宮尊徳は私の化身です。最後にはカントとマルクスでもありました。ひょっとしたらカラタニであったのかもしれません。オイラは性病にかかったことがあります(カミさん宛書簡 匿名希望)。 

ここで、これが告白であるのか、あるいは虚構であるのかと問うことは意味をなさない。さらに「拙者」が、このような書簡をいかにして入手したのであるかも問うべきではない。ただ、これがやはり「仮装」に関わる問題であることは注目に値する。そもそも仮面(ペルソナ)の下の素顔、つまり「オイラ」にしてからが、仮構されたものでしかないのだ。しかるに、ここで、「オイラ」とは任意の記号によって置き換えられうる一般性なのでは決してない。そこに代入されるそれぞれの固有名は、安定した構造を獲得するかにみえる仮構の瞬間が、まさに「危機」の瞬間でもあるというその都度の跳躍を指示せずにはいないだろう。いいかえれば、「それ」は「他でありえたかもしれないが現実にはこうである」という歴史性をはらんでいる。したがって、こうした名前たちが「彗星」となって回帰すること、そうした出来事こそが、「コマネチ!」と呼ばれるべきである。
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