2008/8/6  7:50

「武」の戯れ  政治思想
    『BROTHER』における「精神現象学」  ―「位置」の戯れ―  

かれらの間の容赦なき位置転換の運動においてのみ、かれらを規定するところのもの、すなわち「力」は独立的に現れ、存在を持つ。たとえば、誘発する力が普遍的な媒体として設立される一方で、誘発されたものは抑圧された力として現れる。しかし「武」はまさに「デニー」が抑圧されたものであるという事実によってはじめて普遍的な媒体なのである。すなわち、「デニー」は実際に「武」を誘発し、そのことによって「武」をそれが主張するところの媒体たらしめる。
 かれらはそれぞれいちおう独立した存在であるが、現実には、かれらの存在はそれぞれ相手に向う運動においてのみあり、ひたすら相手の存在を通してのみ、みずからの位置を獲得する。したがって、かれらの存在、あるいは「力」とは畢竟「一瞬の現れ」の謂いにほかならぬ。
かれらは唯、この媒介の運動においてのみ、そして相互契約においてのみあるところのものである。
 かれらの自然的本性は、ひとえに、それぞれが、ただ相手を通してのみ存在するということにある。
 その時、視差はおのれを現実性そのものとして主張する。そして、視差が全き唯一者の現実性として現出するなら、同時に、それはそれ自身を抹消する過程以外の何ものでもない。

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