2008/10/7  7:36

律法の板  自然史
    律法の板
     
『あの夏、いちばん静かな海』(1991)において、茂がサーフィンを始めるとは、いわば「社会」に関係することにほかならない。しかもそれは、ゴミ回収業という自らの勤務とは違って、「自発的な」ものである。したがって、それは「ユートピア」への志向であると理解しうる。さらに、それは職務の牢獄からの、「仮出所parole」をもあらわしている。それは行為として見れば、まず砂浜にやって来てシャツとズボンを脱ぐことであり、それから「紐」によって、板と足首をつないだうえで、海面に板を浮かべること、さらにその上に乗って滑走を試みることである。その行為は砂浜の五人組によってはじめ嘲笑される。それは「投機家」(speculator)によって相手にされないのである。そして、それはまたいわば「上場審査」というべき過程でもある。茂がその「手仕事」によって板に施した修繕もむなしく、その板の先端部分は折れてしまって、そのことがウェットスーツなしで裸のまま、繰り返しその「海」(=市場)に挑む茂に感心しかけていた五人を再び嘲笑へと引き戻す(Uターン)。

バカだよ、あいつ。おわってるでしょ、あの人は、マジで。ダメだね。 

ここで、このようにその「初心者 startup」を嘲笑する「杉本君」は、やがてこの「あとから来る人」によって「追い越される」のである。その板の折れる瞬間に、貴子はその砂浜で座ったまま「居眠り nod」している。それはこの砂浜が「眠りの国」(the land of Nod)であることの「しるし」である。それは、ここでの夢の主体が、ほかでもない貴子であることを告げているのだ。
新たに購入された板は途中、砂浜からゴミ回収の仕事(それはゴミ袋を車のなかに「シュート=放り込む」ことである)に連れ戻された茂に代わって、貴子によって運搬される。それはアイスキャンディーを持った茂が、ひとり水平線と平行に歩くのを捕捉したのと同じキャメラの横移動によって示される。さらに、それは茂の「消滅」する直前の歩行に関連付けられる。その日は雨模様であって、茂が板を携えて、防波堤沿いに砂浜に向かって歩いてきて画面から消えるのに続いて、青い傘を差した貴子が同様にして歩いてくるのが示される。その後で、貴子はその砂浜に取り残されることになるのだが、そこで問題なのは、この「歩行」の連なりである。貴子のそれは先行者の茂のそれを「消去」(=否認)する形で現れている。かくして、そこで、夢の主体が、ついに決定的(=致命的)に置換されるのである。それは冒頭で示される茂の「内側」が、貴子の現れ出る瞬間(それはキャメラに対し、「後ろ」を向けた現れである)によって、その自足を揺るがされ始めていたのだということを遡行的に「照明する」。さらに、ここで、絆としての板が、「律法」の板に変態を遂げる。そして茂の消えたその砂浜で、青い傘を差した貴子が直面するのは「岸に押し寄せて砕ける波」(soup)である。それは「写真の現像液」(soup)でもあり、これがまた遡行的に千葉の砂浜での写真撮影の意味を開示するのである。それはふたりの最終的な「分離」の、先触れであったといえるだろう。 
そこで貴子が直面する茂の消滅とは、不快な「視差 parallax」そのものである。その砂浜に取り残されるのは貴子の単独的な「視線」であり、そこで貴子が直面するのは人間が決して見通しえないところの「自然法則」、すなわち砂浜に「押し寄せる波 soup」なのである。かくして、貴子にとって茂は「弟」であったのかもしれないのだ。その場合、貴子がなしたのは「弟」殺しである。
さらに、大会の開かれる千葉へとふたりを運ぶ交通機関であるところのフェリーがある。一度目にそれに乗ったふたりは、その手すりに凭れてこちらに「背を向けて」いる。それは緩やかに運行する。それはやはり、「ユートピア」を連想させずにはおかない。それは「宙吊り」の時空である。そこでフェリーは、システムの「複数性」を表明するためにこそ、その「間」を漂流する。二度目にそれに運ばれるとき茂と貴子は、あの五人組そして店長および店員と一緒に「ベンチ」の上に横一列に並んで座っている。そこで、この9人は「アソシエーション」を形成する。そして、それを媒介するものこそ、フェリーの「運動」にほかならない。上下に緩やかに揺れ動くフェリーは、ちょうど茂が放り上げる靴のように、そこで「島」(=場所)を無くされて、内に籠った者を外へと誘うというような開放的性格を帯びるのである。早い話が、それは《交通空間あるいは差異としての場所》(『トランスクリティーク』 批評空間)をあらわしている。そして、そこにこそ「恋愛の理想」が置かれているのだ。そのことは、復路のフェリーで、ベンチに並んで座ったふたりを見れば明らかである。貴子は茂の獲得したトロフィーを手にしてそれを眺める。茂は満ち足りてその船舶の揺れに身を任せる。

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