2008/10/8 7:48
消去する主体 自然史
内に向けられた攻撃欲動
『あの夏、いちばん静かな海』(1991)は、夢の主体を独特な「光」に包むことから始まる。その後、茂は、乗り気でないながらもゴミ回収の仕事に従事する者として示され、さらにその「ごみ捨て場」で、廃棄されたサーフボードという遊戯の道具に魅入られる。もう一方の貴子は、貨幣を握って値段の交渉をする。女の店員にその意図するところを「8万のボードを6万にしてくれって言ってるみたい」と解釈させることに成功するが、店主によって「そんな負かんないよう」と素気無く断られる。そこで、ガラス戸に隔てられることによって「光」の交通の只中に置かれた貴子とは、茂の「内側から見た生」をあらわしていると同時に、その内側に回収されえぬ「他者」の現れでもある。そこでガラス戸の「交通」は、ふたりを排斥的な関係に置く。そして、そうした視点からすれば、やはり、ここでの具体的な紙幣の存在が重要となる。それは両者を「分離」する過程なのだ。四方田犬彦の指摘にしたがえば(『日本映画のラディカルな意志』 岩波書店)、「いないいない、ばあ」遊びをしているのは貴子のほうであり、そこで彼女は「母の不在」(=茂の消滅)という不快を克服するために、再び千葉の砂浜にやって来ると、茂によって取り残されたサーフボードを、記念の「写真」をその表面に貼り付けたうえで海に「浮べる」(float)。それは感傷的な行為なのではなくて、「社会的な」行為である。それはみずから「消去」したものを再び出現させることであると同時に、「発行・起業」(floatation)をも意味している。したがって、そこには買う立場から「売る立場」への位置転換があるといってよい。それは「自律的な」行為なのだ。と同時に、やはり、市場は「センチメント」によって動かされる場所でもあるということを、それは「視る者」(speculator)に教えもするだろう。
『あの夏、いちばん静かな海』(1991)は、夢の主体を独特な「光」に包むことから始まる。その後、茂は、乗り気でないながらもゴミ回収の仕事に従事する者として示され、さらにその「ごみ捨て場」で、廃棄されたサーフボードという遊戯の道具に魅入られる。もう一方の貴子は、貨幣を握って値段の交渉をする。女の店員にその意図するところを「8万のボードを6万にしてくれって言ってるみたい」と解釈させることに成功するが、店主によって「そんな負かんないよう」と素気無く断られる。そこで、ガラス戸に隔てられることによって「光」の交通の只中に置かれた貴子とは、茂の「内側から見た生」をあらわしていると同時に、その内側に回収されえぬ「他者」の現れでもある。そこでガラス戸の「交通」は、ふたりを排斥的な関係に置く。そして、そうした視点からすれば、やはり、ここでの具体的な紙幣の存在が重要となる。それは両者を「分離」する過程なのだ。四方田犬彦の指摘にしたがえば(『日本映画のラディカルな意志』 岩波書店)、「いないいない、ばあ」遊びをしているのは貴子のほうであり、そこで彼女は「母の不在」(=茂の消滅)という不快を克服するために、再び千葉の砂浜にやって来ると、茂によって取り残されたサーフボードを、記念の「写真」をその表面に貼り付けたうえで海に「浮べる」(float)。それは感傷的な行為なのではなくて、「社会的な」行為である。それはみずから「消去」したものを再び出現させることであると同時に、「発行・起業」(floatation)をも意味している。したがって、そこには買う立場から「売る立場」への位置転換があるといってよい。それは「自律的な」行為なのだ。と同時に、やはり、市場は「センチメント」によって動かされる場所でもあるということを、それは「視る者」(speculator)に教えもするだろう。
