続「コマネチ!」とは何か 映画・批評
続「コマネチ!」とは何か
KARATANIによって解明されたKITANO 20B
イロニーとは所詮、はじめに「決断」を置くことで、そうして「終わり」を先取りすることによって、現実を「美化する、ロマンチックに扱う glamorize」ことでしかないのだ。三島の「自決」とは、他者の反論のすべてをバカげたものに見せることを企図してなされたところの「ツッコミ無用」の実践である。その都度にでも、徐々にでもなく、一気に永続的な「綜合」を達成しようとする、あるいはその不可能性をあてつけに誇示してみせることで、おのれが囚われていたところの「罪」の意識を、あとから来る者にも植え付け、それによって束縛しようとするとは、なるほど、「ブルジョワさん」の了見(ロマン=嫌味・「緋文字」)とはこれに違いない。「ブルジョワさん」は、そこで「経験的自己」に対する絶対的優位を求める。それは主人であることを要求する。それはだから、「位置」の問題なのだ。しかるに、資本主義における「位置転換」は、主人と奴隷の関係においてなされるのではない。「それ」はあくまでも「売れない恐怖」にかかわる問題である。したがって、奴の美学によって可能なのは、せいぜいが「当為」の深淵に「糞掻き棒」(=空疎書き暴)であるところの自身を架け渡すことくらいである。端的にいえば、それはモラルの審美化である。実際言って、まったく、お気の毒な限りではあるが、その綜合の「糞掻き棒」は「闘争のエチカ」をバカげたものに見せるための空疎な美学でしかない。そして、まさにそのような場所において、奴とその追随者らはまるで示し合わせたかのように揃いも揃って「糞掻き棒」に変態するのである。それは資本主義の美学的超克である。それは実際には超克なぞ望んでいないのであり、「国家」こそが現実的であると嘯いて、「理念」を嘲笑することをその真なる意図とするところの、怨恨それ自体である。実際、美学であるにすぎないことを承知で事をなして見せたところで、「位置転換」の現実は決して綜合されないのであり、であれば、それはたんに「機能していない」というだけである。すなわち、それは「認識」を放棄したということを意味するだけである。しかるに、そこには美学の恣意によっては埋めることのできない深淵、つまり、「当為」があるのである。
もはや三島のようにはやれない「イロニー」は、それは蓮實重彦において典型的であるが、この「当為」の忌避を、良識(「情報処理」あるいはPC)によって補填するのである。しかるに、それがたんなる良識でなく、「当為」であるというためには、「球」を開始することが必要不可欠なのである。そうでなければ「表象批判」などというものは、とどのつまり、くどいだけで退屈極まる「虚無思想」の紋切型に帰着するほかはないであろう。ほうれ、視よ! 奴等の「憂国呆談」は、「ボヴァリー夫人」(Emma)に帰着する(「なにいってんだよ、ボヴァリー夫人はオレじゃないか、ふざけんじゃないよ」。いうまでもなく、ここで三島は、黄泉の国から蓮實の僭称を告発しているのだ)。それはモラルをバカらしくみせるためにイロニーがその必死の努力においてなすところの綿密さへの立てこもりである(ひとは『HANA-BI』と同年に『失楽園』という大ヒット作があったことに注意すべきである。そこで三島的スノビズムに通じているのは明らかに後者なのだ。そこには現状に対し愚直に立ち向かうなどという「野暮」な志向はない。それはまぎれもなく「あられもないロマンティシズム」なのだ。であれば、本来「映画狂人」が快適に寛げるのは後者においてのはずである。しかるに、「映画狂人」は『HANA-BI』に「自分の顔」を見出し、「それ」(=収奪)に釘付けにされて、あるいは「魅せられて」しまったがゆえに、「それ」を指摘する危険をあえて冒したのである。そこで「映画狂人」の意図とは、いうまでなく「それ」を内面化することによって抑圧することである)。
「拙者」の記憶するところでは、はじめに三島と「武」の類縁性を指摘したのは、ほかならぬ蓮實である。さらにいえば、その蓮實を三島の後継者と名指したのは浅田なのである(浅田の分析が、ほかでもない「イロニー」を解説するときに、その対象に満遍なくゆきわたり、冴え渡るということに注意せよ。奴はそこに「仲間」=「ロマンティク」を見出す。そのうえでそれに自己批判的な批判を加えながら、それを擁護することで、とどのつまり、「自己防衛」を図るのだ。浅田が「終焉」を語るのを好むのは、それが一つの安定したパースペクティヴを可能にしてくれるからである。奴は、あらかじめ「出来事」を括弧に入れたうえで、それが到来しないのを嘆いてみたり、それを「宿命」として受け入れてみたりするというみずからのその諦念の身構えが嬉しくて仕方ないのだ。しかるに、「武」とは、そのとき、「括弧外し」の謂いであり、それこそ「致命的」に浅田のような本性に背反するのである。「それ」(=「闘争」)はロマンティクには耐え難いのだ)。あからさまにいえば、こうした成り行きは、結局、「糞」の擦り付け合いにすぎないのであり、「ブルジョワさん」、すなわちエリートクラブの内輪揉めをあらわしているだけである。「凡庸さについてお話させていただきます」とかいうその駄本において、それはなされたのだったと思うが、そこからの事態の推移を考えた場合、それはまったく蓮實にふさわしく、アイロニカル(「わしだぁ〜わしだぁ〜ボヴァリー夫人はやっぱりわしだぁ〜」)である。それは、かの「フライデー」襲撃事件を三島のパロディーと見なした浅田についても同様に言えることだが、「武」が、その後、みずからに「]」をつきまとわせて、三島とはまるで異質な者であることの「しるし」の数々を、この世界にもたらしたのに対し、蓮實および浅田にあるのは、情報処理か「音楽」に浸る(映画はその考古学的な恍惚によって見る者を「ボケ」させる)ことでしかないからである。
しかるに、「ランク」の全然違うお笑い芸人であるどころか、さらにそこから遥か下方で貧にあえぐしかない、その教養においても覚悟においても比較にもならず、さらにいえば、土性骨も世渡りの才覚もない、そんなわけで、どこまでも現実的に「悲惨それ自体」であるほかはない「拙者」ごときが、ここで無謀にも忖度させていただくならば、そういった類のことに退屈しきったからこそ、三島は「自決」を選んだのではないのか? 実際言って、三島が今、生きていたとして、情報処理能力やその聡明さにおいて、蓮實や浅田に劣るだろうか? むろんこういう想定は意味をなさないが、それでも「拙者」には現在、蓮實や浅田が、いったい何をもって三島に対抗するのであるかがよくわからないのだ。連中が三島に反撥するのは、とどのつまり、「仲間」意識からではないのか? かくして、この三島、蓮實、浅田の三位一体は、モラル(=歴史)への「抵抗」という点で固く結ばれているのである。しかるに、その「糞掻き棒」のトリニティーは、「コマネチ!」によって揚棄されるという事態を自らの宿命とするほかは何の手立てをももたない。おエライ先生たちは、あまり関心を持たれた事がないようなので、ここでお知らせしておきますが、「コマネチ!」というのは「世界の起源」(クールベ)のことなのですよ。それは「デルタ」なのである。さらにあからさまにいってしまえば、「コマネチ!」は「価値」である。
「武」における「もう一度」とは、『Dolls』において明らかなように、ほかでもない「視差」において、他者に直面することなのだ。そして、そのことは、ほかならぬ二つ折りとしての「宙吊り」の理念によって統整されているからこそ可能となるのである。それだけが、たとえば、『HANA-BI』で西のおこなう「略取=再分配」というような現実を、「たえず批判する根拠」たりうるのだ。
KARATANIによって解明されたKITANO 20B
イロニーとは所詮、はじめに「決断」を置くことで、そうして「終わり」を先取りすることによって、現実を「美化する、ロマンチックに扱う glamorize」ことでしかないのだ。三島の「自決」とは、他者の反論のすべてをバカげたものに見せることを企図してなされたところの「ツッコミ無用」の実践である。その都度にでも、徐々にでもなく、一気に永続的な「綜合」を達成しようとする、あるいはその不可能性をあてつけに誇示してみせることで、おのれが囚われていたところの「罪」の意識を、あとから来る者にも植え付け、それによって束縛しようとするとは、なるほど、「ブルジョワさん」の了見(ロマン=嫌味・「緋文字」)とはこれに違いない。「ブルジョワさん」は、そこで「経験的自己」に対する絶対的優位を求める。それは主人であることを要求する。それはだから、「位置」の問題なのだ。しかるに、資本主義における「位置転換」は、主人と奴隷の関係においてなされるのではない。「それ」はあくまでも「売れない恐怖」にかかわる問題である。したがって、奴の美学によって可能なのは、せいぜいが「当為」の深淵に「糞掻き棒」(=空疎書き暴)であるところの自身を架け渡すことくらいである。端的にいえば、それはモラルの審美化である。実際言って、まったく、お気の毒な限りではあるが、その綜合の「糞掻き棒」は「闘争のエチカ」をバカげたものに見せるための空疎な美学でしかない。そして、まさにそのような場所において、奴とその追随者らはまるで示し合わせたかのように揃いも揃って「糞掻き棒」に変態するのである。それは資本主義の美学的超克である。それは実際には超克なぞ望んでいないのであり、「国家」こそが現実的であると嘯いて、「理念」を嘲笑することをその真なる意図とするところの、怨恨それ自体である。実際、美学であるにすぎないことを承知で事をなして見せたところで、「位置転換」の現実は決して綜合されないのであり、であれば、それはたんに「機能していない」というだけである。すなわち、それは「認識」を放棄したということを意味するだけである。しかるに、そこには美学の恣意によっては埋めることのできない深淵、つまり、「当為」があるのである。
もはや三島のようにはやれない「イロニー」は、それは蓮實重彦において典型的であるが、この「当為」の忌避を、良識(「情報処理」あるいはPC)によって補填するのである。しかるに、それがたんなる良識でなく、「当為」であるというためには、「球」を開始することが必要不可欠なのである。そうでなければ「表象批判」などというものは、とどのつまり、くどいだけで退屈極まる「虚無思想」の紋切型に帰着するほかはないであろう。ほうれ、視よ! 奴等の「憂国呆談」は、「ボヴァリー夫人」(Emma)に帰着する(「なにいってんだよ、ボヴァリー夫人はオレじゃないか、ふざけんじゃないよ」。いうまでもなく、ここで三島は、黄泉の国から蓮實の僭称を告発しているのだ)。それはモラルをバカらしくみせるためにイロニーがその必死の努力においてなすところの綿密さへの立てこもりである(ひとは『HANA-BI』と同年に『失楽園』という大ヒット作があったことに注意すべきである。そこで三島的スノビズムに通じているのは明らかに後者なのだ。そこには現状に対し愚直に立ち向かうなどという「野暮」な志向はない。それはまぎれもなく「あられもないロマンティシズム」なのだ。であれば、本来「映画狂人」が快適に寛げるのは後者においてのはずである。しかるに、「映画狂人」は『HANA-BI』に「自分の顔」を見出し、「それ」(=収奪)に釘付けにされて、あるいは「魅せられて」しまったがゆえに、「それ」を指摘する危険をあえて冒したのである。そこで「映画狂人」の意図とは、いうまでなく「それ」を内面化することによって抑圧することである)。
「拙者」の記憶するところでは、はじめに三島と「武」の類縁性を指摘したのは、ほかならぬ蓮實である。さらにいえば、その蓮實を三島の後継者と名指したのは浅田なのである(浅田の分析が、ほかでもない「イロニー」を解説するときに、その対象に満遍なくゆきわたり、冴え渡るということに注意せよ。奴はそこに「仲間」=「ロマンティク」を見出す。そのうえでそれに自己批判的な批判を加えながら、それを擁護することで、とどのつまり、「自己防衛」を図るのだ。浅田が「終焉」を語るのを好むのは、それが一つの安定したパースペクティヴを可能にしてくれるからである。奴は、あらかじめ「出来事」を括弧に入れたうえで、それが到来しないのを嘆いてみたり、それを「宿命」として受け入れてみたりするというみずからのその諦念の身構えが嬉しくて仕方ないのだ。しかるに、「武」とは、そのとき、「括弧外し」の謂いであり、それこそ「致命的」に浅田のような本性に背反するのである。「それ」(=「闘争」)はロマンティクには耐え難いのだ)。あからさまにいえば、こうした成り行きは、結局、「糞」の擦り付け合いにすぎないのであり、「ブルジョワさん」、すなわちエリートクラブの内輪揉めをあらわしているだけである。「凡庸さについてお話させていただきます」とかいうその駄本において、それはなされたのだったと思うが、そこからの事態の推移を考えた場合、それはまったく蓮實にふさわしく、アイロニカル(「わしだぁ〜わしだぁ〜ボヴァリー夫人はやっぱりわしだぁ〜」)である。それは、かの「フライデー」襲撃事件を三島のパロディーと見なした浅田についても同様に言えることだが、「武」が、その後、みずからに「]」をつきまとわせて、三島とはまるで異質な者であることの「しるし」の数々を、この世界にもたらしたのに対し、蓮實および浅田にあるのは、情報処理か「音楽」に浸る(映画はその考古学的な恍惚によって見る者を「ボケ」させる)ことでしかないからである。
しかるに、「ランク」の全然違うお笑い芸人であるどころか、さらにそこから遥か下方で貧にあえぐしかない、その教養においても覚悟においても比較にもならず、さらにいえば、土性骨も世渡りの才覚もない、そんなわけで、どこまでも現実的に「悲惨それ自体」であるほかはない「拙者」ごときが、ここで無謀にも忖度させていただくならば、そういった類のことに退屈しきったからこそ、三島は「自決」を選んだのではないのか? 実際言って、三島が今、生きていたとして、情報処理能力やその聡明さにおいて、蓮實や浅田に劣るだろうか? むろんこういう想定は意味をなさないが、それでも「拙者」には現在、蓮實や浅田が、いったい何をもって三島に対抗するのであるかがよくわからないのだ。連中が三島に反撥するのは、とどのつまり、「仲間」意識からではないのか? かくして、この三島、蓮實、浅田の三位一体は、モラル(=歴史)への「抵抗」という点で固く結ばれているのである。しかるに、その「糞掻き棒」のトリニティーは、「コマネチ!」によって揚棄されるという事態を自らの宿命とするほかは何の手立てをももたない。おエライ先生たちは、あまり関心を持たれた事がないようなので、ここでお知らせしておきますが、「コマネチ!」というのは「世界の起源」(クールベ)のことなのですよ。それは「デルタ」なのである。さらにあからさまにいってしまえば、「コマネチ!」は「価値」である。
「武」における「もう一度」とは、『Dolls』において明らかなように、ほかでもない「視差」において、他者に直面することなのだ。そして、そのことは、ほかならぬ二つ折りとしての「宙吊り」の理念によって統整されているからこそ可能となるのである。それだけが、たとえば、『HANA-BI』で西のおこなう「略取=再分配」というような現実を、「たえず批判する根拠」たりうるのだ。
