2008/4/8 4:13
価値増殖の無窮動 政治理論
価値増殖の無窮動
KARATANIによって解明されたKITANO 31
くりかえすと、われわれが、『BROTHER』において直面させられるのは、「流通」を拡大するところの「信用」(友愛)の発生と、その帰結である「決済」(自己懲罰)にほかならない。つまり、そのサイコロ賭博においてなされているのは、「貸付を協定する、取り決める」(float)なのである。さらに、山本とデニーの「交換関係」が、畢竟「階級関係」にほかならないことが、利子の発生によって明白にされる。
資本は、その価値増殖によって資本として表明される。(『資本論』第三巻第五篇第二十一章、岩波文庫)
この過程の完全なる形態は、したがって、G−W−G´であって、このばあいG´=G+僭´すなわち、最初に前貸しされた貨幣額プラス増加分である。この増加分、すなわち最初の価値をこえる剰余を、私は―剰余価値(surplus value)と名づける。したがって、最初に前貸しされた価値は、流通において自己保存をするだけでなく、ここでその価値の大いさを変化させ、剰余価値を付加する。すなわち、価値増殖をなすのである。そしてこの運動が、この価値を資本に転化する。(『資本論』第一巻第二篇第四章第一節、同前)
資本は自己増殖するかぎりで資本である。それは人間的「担い手」が誰であろうと、彼らがどう考えようと、貫徹されなければならない。それは個々人の欲望や意志とは関係がない。(『トランスクリティーク』 批評空間)
デニーは、そこで「独特な種類の商品」であるところの貨幣を、山本に渡す。山本はその貨幣を「手でつかむ」(mancipatio)。いみじくも、北野映画では、「貨幣」を渡された者は「イノチガケ」の飛躍を敢行せねばならないことになっている。たとえば、『3-4]10月』では雅樹が和男から貨幣を渡される。ここでの山本とデニーの関係は前者の関係の反復であり、さらにここで、沖縄がロサンジェルスに置換されている。ここで、山本とデニーは、サイコロ賭博、すなわち「いないいない、ばあ」遊びにより、両者の間に「超自我=法」を関与させることによって、「契約」を交わす。しかるに、その「兄弟」契約は畢竟「非対称的な関係」であり、まさにそれゆえに山本は「イノチガケ」の飛躍の結果、デニーに「利子」をもたらすことになる。いいかえれば、その「精神的紐帯」は、つまるところ、貨幣を媒介にした「階級関係」なのであり、かくして、その「非対称」を克服する(賠償するcompensate)ための努力が、「友愛」(遊戯)である。
『BROTHER』における「友愛」が、「互酬」交換(=交感)に拠っていることは、一見して明らかだが、さらに、それは「自由」(市場メカニズムすなわち商品交換)と「平等」(分配的正義すなわち略取=再分配)とに接続されることで、その三位一体を完成する結節あるいは「想像力」というべきものである。それは友愛としての「ネーション」であるが、注意すべきなのは、ここで「ネーション」が、いまだ集権化以前の状態、すなわち「インターナショナル」であるという事実である。それはいずれ集権化されて、「国民」となるのが道理であるとしても、実際に、そこで「ネーション」を形成しているのはアフリカン-アメリカン、ラティーノ、およびアジア系からなるまぎれもない多国籍集団である。
柄谷行人は、カントがすでに超越論的仮象としての「ネーション」を見出していたことを指摘しているが(定本柄谷行人集4 ネーションと美学 死とナショナリズム 序説 岩波書店)、まさに、それこそが、『BROTHER』(2000)における暴力を、いわば「手に負えない子供」(terror)の強情として受けとめ、それを見下し、容易に斥けうるものとみなした「良識」が、まったく関知しないものにほかならない。たしかに、そこには「BIG BROTHER is watching you」(怖いアニさんがみてんのやで)という現実が文字通りに存在する。しかるに、それは「視差」に付き纏われているのだ。「それ」は「理性」から来るのである。
たしかに、「互酬交換」には両義性があるだろう。一方で、それはその負い目の絆によって拘束的であり、他の集団に対して排他的である。しかるにもう一方で、それは持続的で強固な社会的絆を組織することで、アトム化され、孤立した個人の無力によって覆われた「今時」にはない、連帯を恐れぬ悪党集団として、市場経済の浸透に対する「抵抗」でもあるのだ。いいかえれば、そこで、いわば「絶対知」ともいうべき、コップに穿たれた「穴」のもたらす見通しも、ほかでもない「武」に付き纏う「視差」によって不透明なものにならざるをえないというのが、ここでの現実なのである。その本性からして無窮動である「死の欲動」あるいは「資本の欲動」も、いわばその背後に「アソシエーション」としての「嘘」あるいは「くじ引き」の生成をみて、対抗運動に「反転の契機」を与えてしまうほかはないのだ。
それは、価値形態における非対称的関係(商品と貨幣)は資本を生み出すが、同時にそこにそれを終息させる反転の契機を見出しうるということである。(柄谷行人 『可能なるコミュニズム』 太田出版)
たしかに、ここでの「友愛」という超越論的仮象は、「みやび」なる啓蒙主義者にとって唾棄すべき「センチメント」(感情)でしかないのだろう。しかるに、その時、「みやび」は、まさに「感情教育」ともいうべき「批判」に足をすくわれているのだ。というのも、「みやび」はその「交換=交感」が生み出すものをまったく理解しえないからである。したがって、そこで、「資本」をもたらす「関係」に盲目な「憂国呆談」なぞが、「それ」に対抗するなどということが、まったくの空想に過ぎないことは明白である。つまるところ、その「みやび」の本性からであろうが、浅田彰のような「コスモポリタン的な知識人」は、つねに「ネーション」を「貧乏人」に宿命的な無知蒙昧あるいはその後進性のなせるわざとみなして嘲笑することしかできない。そもそも、「それ」が浅田の依拠する「快感=現実原則」の網にまったく引っ掛からないということ自体、その「インテリジェンス」とやらの限界を如実に示している。しかも、それが「戦前」のアメリカが陥っていた「無知」に対応するもののようにもみえてしまうところに、アメリカばかりではない、日本の「インテリ」の無思考が露呈されているのだ。
一方、「友愛」は、そうした「快感=現実原則」の網を逃れて、その「彼岸」すなわち「砂漠」に赴く。するとどうであろう、なんと、その友愛(遊戯)は、「くじ引き」による「報復」(payment)の「ボイコット運動」となって実を結ぶのだ。そんなわけで、「ネーション」を嘲笑する者たちは「足をすくわれる」ほかはないのである。
KARATANIによって解明されたKITANO 31
くりかえすと、われわれが、『BROTHER』において直面させられるのは、「流通」を拡大するところの「信用」(友愛)の発生と、その帰結である「決済」(自己懲罰)にほかならない。つまり、そのサイコロ賭博においてなされているのは、「貸付を協定する、取り決める」(float)なのである。さらに、山本とデニーの「交換関係」が、畢竟「階級関係」にほかならないことが、利子の発生によって明白にされる。
資本は、その価値増殖によって資本として表明される。(『資本論』第三巻第五篇第二十一章、岩波文庫)
この過程の完全なる形態は、したがって、G−W−G´であって、このばあいG´=G+僭´すなわち、最初に前貸しされた貨幣額プラス増加分である。この増加分、すなわち最初の価値をこえる剰余を、私は―剰余価値(surplus value)と名づける。したがって、最初に前貸しされた価値は、流通において自己保存をするだけでなく、ここでその価値の大いさを変化させ、剰余価値を付加する。すなわち、価値増殖をなすのである。そしてこの運動が、この価値を資本に転化する。(『資本論』第一巻第二篇第四章第一節、同前)
資本は自己増殖するかぎりで資本である。それは人間的「担い手」が誰であろうと、彼らがどう考えようと、貫徹されなければならない。それは個々人の欲望や意志とは関係がない。(『トランスクリティーク』 批評空間)
デニーは、そこで「独特な種類の商品」であるところの貨幣を、山本に渡す。山本はその貨幣を「手でつかむ」(mancipatio)。いみじくも、北野映画では、「貨幣」を渡された者は「イノチガケ」の飛躍を敢行せねばならないことになっている。たとえば、『3-4]10月』では雅樹が和男から貨幣を渡される。ここでの山本とデニーの関係は前者の関係の反復であり、さらにここで、沖縄がロサンジェルスに置換されている。ここで、山本とデニーは、サイコロ賭博、すなわち「いないいない、ばあ」遊びにより、両者の間に「超自我=法」を関与させることによって、「契約」を交わす。しかるに、その「兄弟」契約は畢竟「非対称的な関係」であり、まさにそれゆえに山本は「イノチガケ」の飛躍の結果、デニーに「利子」をもたらすことになる。いいかえれば、その「精神的紐帯」は、つまるところ、貨幣を媒介にした「階級関係」なのであり、かくして、その「非対称」を克服する(賠償するcompensate)ための努力が、「友愛」(遊戯)である。
『BROTHER』における「友愛」が、「互酬」交換(=交感)に拠っていることは、一見して明らかだが、さらに、それは「自由」(市場メカニズムすなわち商品交換)と「平等」(分配的正義すなわち略取=再分配)とに接続されることで、その三位一体を完成する結節あるいは「想像力」というべきものである。それは友愛としての「ネーション」であるが、注意すべきなのは、ここで「ネーション」が、いまだ集権化以前の状態、すなわち「インターナショナル」であるという事実である。それはいずれ集権化されて、「国民」となるのが道理であるとしても、実際に、そこで「ネーション」を形成しているのはアフリカン-アメリカン、ラティーノ、およびアジア系からなるまぎれもない多国籍集団である。
柄谷行人は、カントがすでに超越論的仮象としての「ネーション」を見出していたことを指摘しているが(定本柄谷行人集4 ネーションと美学 死とナショナリズム 序説 岩波書店)、まさに、それこそが、『BROTHER』(2000)における暴力を、いわば「手に負えない子供」(terror)の強情として受けとめ、それを見下し、容易に斥けうるものとみなした「良識」が、まったく関知しないものにほかならない。たしかに、そこには「BIG BROTHER is watching you」(怖いアニさんがみてんのやで)という現実が文字通りに存在する。しかるに、それは「視差」に付き纏われているのだ。「それ」は「理性」から来るのである。
たしかに、「互酬交換」には両義性があるだろう。一方で、それはその負い目の絆によって拘束的であり、他の集団に対して排他的である。しかるにもう一方で、それは持続的で強固な社会的絆を組織することで、アトム化され、孤立した個人の無力によって覆われた「今時」にはない、連帯を恐れぬ悪党集団として、市場経済の浸透に対する「抵抗」でもあるのだ。いいかえれば、そこで、いわば「絶対知」ともいうべき、コップに穿たれた「穴」のもたらす見通しも、ほかでもない「武」に付き纏う「視差」によって不透明なものにならざるをえないというのが、ここでの現実なのである。その本性からして無窮動である「死の欲動」あるいは「資本の欲動」も、いわばその背後に「アソシエーション」としての「嘘」あるいは「くじ引き」の生成をみて、対抗運動に「反転の契機」を与えてしまうほかはないのだ。
それは、価値形態における非対称的関係(商品と貨幣)は資本を生み出すが、同時にそこにそれを終息させる反転の契機を見出しうるということである。(柄谷行人 『可能なるコミュニズム』 太田出版)
たしかに、ここでの「友愛」という超越論的仮象は、「みやび」なる啓蒙主義者にとって唾棄すべき「センチメント」(感情)でしかないのだろう。しかるに、その時、「みやび」は、まさに「感情教育」ともいうべき「批判」に足をすくわれているのだ。というのも、「みやび」はその「交換=交感」が生み出すものをまったく理解しえないからである。したがって、そこで、「資本」をもたらす「関係」に盲目な「憂国呆談」なぞが、「それ」に対抗するなどということが、まったくの空想に過ぎないことは明白である。つまるところ、その「みやび」の本性からであろうが、浅田彰のような「コスモポリタン的な知識人」は、つねに「ネーション」を「貧乏人」に宿命的な無知蒙昧あるいはその後進性のなせるわざとみなして嘲笑することしかできない。そもそも、「それ」が浅田の依拠する「快感=現実原則」の網にまったく引っ掛からないということ自体、その「インテリジェンス」とやらの限界を如実に示している。しかも、それが「戦前」のアメリカが陥っていた「無知」に対応するもののようにもみえてしまうところに、アメリカばかりではない、日本の「インテリ」の無思考が露呈されているのだ。
一方、「友愛」は、そうした「快感=現実原則」の網を逃れて、その「彼岸」すなわち「砂漠」に赴く。するとどうであろう、なんと、その友愛(遊戯)は、「くじ引き」による「報復」(payment)の「ボイコット運動」となって実を結ぶのだ。そんなわけで、「ネーション」を嘲笑する者たちは「足をすくわれる」ほかはないのである。
