2008/4/10 14:12
「ボケ」老人としての映画狂人 つぶやき
「ボケ」老人としての映画狂人
いったいどうして、蓮實重彦の駆使する空疎な美学によって、ある特定の「映画作家」が別のそれよりも偉いなどということになるのか、そこには自明化され、もはや疑われることもなくなった「みやび」なる「ゲームの規則」の共有があるのである。そもそも、「監督 小津安二郎」などという映画純粋領域における形式めかした空疎な美学によるのでは、小津はたんなる虚無主義者だったということにしかならないだろう。
客観的にいって、その格付けを正当化するのに十分な根拠などまったくないのは明らかなのに、蓮實の創始した「映画狂人」が、日本の映画評論界において、あたかも「一系」として機能するかにみえてしまうのは、そこに他者が欠けているから、あるいは消されているからと考えられて当然である。では、そうした抹殺によって、蓮實は何を意図しているのか、あるいは、その意図ならざる意図とは一体何なのか。
端的にいえば、奴は「みやび」あるいは「空疎」に仕えているのである。それは「封建制」における主君への従属関係とは著しく異なっている。それは、あたかも「作品」に付き添うかに見せかけながら、それが肯定の身振りであるかのように装いながら、実際には、すべてを「みやび」あるいは「空疎」に投げ入れることを意図した否定性にほかならない。「作品」はそこで擁護されるかにみえるが、実際には、「空疎」の祭壇に生贄として捧げられるだけである。恣意としての、あるいは気まぐれとしての美学を温存するために「作品」が利用されるのだ。当然、その核心には無関心があるので、北野武の『BROTHER』におけるように、ありありと「関心」(interest)が発生するのをみせつけられたりすると、その「野暮」をどうにかして、空疎化しないではいられなくなる。あまつさえ、奴はおのれが、あたかも「普遍性」であるかのように装う。しかるに、複数体系を抑圧する「みやび」が普遍性であるなどということは、言葉の真の意味で、「無責任」以外のなにものでもなかろう。勢いのある者には媚び諂うという類の日和見主義が、その政略の主だったものにほかならない。
その「ゲームの規則」に従順な「僕ちゃん」たちが、いっせいに「走り出す」という事態を予感しながら、なおも「ボケ」続けるというその姿勢にスリルを見出す「倒錯者」(文芸誌の編集者)の存在もあるようだが、無益な救済策を施すよりも、とっとと「破綻」を申請させてあげるほうが、当人のためになろうというものである。この先、奴に「ボケ」を貫徹させるようだと、後世に「批評」の欠如した時代であったとみなされること請け合いである。
杉村春菊:また始まったよ。いつもの思い出話が。よくあれだけ繰り返して飽きないもんだよ。
まったく、ボケちまったら、おしまいさ。
飯田蝶々:いいじゃないか。当人は幸せなんだから。
杉村春菊:でも、あれを夜中にやられてごらんよ。まったくたまったもんじゃないよ。だらだらだらだら、牛の涎じゃあるまいし、無闇と長いもんだから、おちおち眠ってもいられやしない。
飯田蝶々:寝言かい?
杉村春菊:それも毎晩なんだからね。いっそ、首でも絞めてやったほうが、この人のためになるんじゃないかって、あたしゃ、よく本気で考えるんだよ。
飯田蝶々:およしよ。あんたその年で臭いおまんま頂く気かい?
杉村春菊:そりゃあ、あたしだって、いやだけどさ。まったくなんとかなんないもんかねえ。いやんなっちゃうなあ、もう。
いったいどうして、蓮實重彦の駆使する空疎な美学によって、ある特定の「映画作家」が別のそれよりも偉いなどということになるのか、そこには自明化され、もはや疑われることもなくなった「みやび」なる「ゲームの規則」の共有があるのである。そもそも、「監督 小津安二郎」などという映画純粋領域における形式めかした空疎な美学によるのでは、小津はたんなる虚無主義者だったということにしかならないだろう。
客観的にいって、その格付けを正当化するのに十分な根拠などまったくないのは明らかなのに、蓮實の創始した「映画狂人」が、日本の映画評論界において、あたかも「一系」として機能するかにみえてしまうのは、そこに他者が欠けているから、あるいは消されているからと考えられて当然である。では、そうした抹殺によって、蓮實は何を意図しているのか、あるいは、その意図ならざる意図とは一体何なのか。
端的にいえば、奴は「みやび」あるいは「空疎」に仕えているのである。それは「封建制」における主君への従属関係とは著しく異なっている。それは、あたかも「作品」に付き添うかに見せかけながら、それが肯定の身振りであるかのように装いながら、実際には、すべてを「みやび」あるいは「空疎」に投げ入れることを意図した否定性にほかならない。「作品」はそこで擁護されるかにみえるが、実際には、「空疎」の祭壇に生贄として捧げられるだけである。恣意としての、あるいは気まぐれとしての美学を温存するために「作品」が利用されるのだ。当然、その核心には無関心があるので、北野武の『BROTHER』におけるように、ありありと「関心」(interest)が発生するのをみせつけられたりすると、その「野暮」をどうにかして、空疎化しないではいられなくなる。あまつさえ、奴はおのれが、あたかも「普遍性」であるかのように装う。しかるに、複数体系を抑圧する「みやび」が普遍性であるなどということは、言葉の真の意味で、「無責任」以外のなにものでもなかろう。勢いのある者には媚び諂うという類の日和見主義が、その政略の主だったものにほかならない。
その「ゲームの規則」に従順な「僕ちゃん」たちが、いっせいに「走り出す」という事態を予感しながら、なおも「ボケ」続けるというその姿勢にスリルを見出す「倒錯者」(文芸誌の編集者)の存在もあるようだが、無益な救済策を施すよりも、とっとと「破綻」を申請させてあげるほうが、当人のためになろうというものである。この先、奴に「ボケ」を貫徹させるようだと、後世に「批評」の欠如した時代であったとみなされること請け合いである。
杉村春菊:また始まったよ。いつもの思い出話が。よくあれだけ繰り返して飽きないもんだよ。
まったく、ボケちまったら、おしまいさ。
飯田蝶々:いいじゃないか。当人は幸せなんだから。
杉村春菊:でも、あれを夜中にやられてごらんよ。まったくたまったもんじゃないよ。だらだらだらだら、牛の涎じゃあるまいし、無闇と長いもんだから、おちおち眠ってもいられやしない。
飯田蝶々:寝言かい?
杉村春菊:それも毎晩なんだからね。いっそ、首でも絞めてやったほうが、この人のためになるんじゃないかって、あたしゃ、よく本気で考えるんだよ。
飯田蝶々:およしよ。あんたその年で臭いおまんま頂く気かい?
杉村春菊:そりゃあ、あたしだって、いやだけどさ。まったくなんとかなんないもんかねえ。いやんなっちゃうなあ、もう。
