北野武と柄谷行人  世界史
 北野武と柄谷行人  
  KARATANIによって解明されたKITANO 7   オイラは「裁かるるジャンヌ」かっての      

 ところで、北野と柄谷の両者に当たってみたことがある者ならば、柄谷行人による近代国家(資本=ネーション=ステート)の分析(『世界共和国へ』岩波新書)が、『BROTHER』にそのままあてはまることに気付かないということはまずありえない。『BROTHER』にあるのはまさに3つの交換様式の接合にほかならないのだ。ひとつには利子の表明として現れるところの「資本」、さらにそれは「略取=再分配」による「振る舞い」であるという意味で「国家」(=警察)を指示する。最後に、このふたつのものの動因ともいえる任侠世界における「兄弟」関係、すなわち「武」がある。かくして、そこで「利子」は「友愛」の「しるし」(贈与)としてもたらされる。「武」は、結果として集権的な「ネーション=ステート」をもたらすが、同時にそれに抗う「詐欺」あるいは「嘘」としての「アソシエーション」(=交感)を孕んでいる。そして、この「詐欺」あるいは「嘘」こそが、出口なしの三位一体における唯一の可能性なのである。それはそこで「くじ引き」という「技術」となって結実する。さらに『Dolls』において、「それ」は「球」の発行(float)である。
 かくして、そこでイタリアマフィアを「ローマ」、メキシカンマフィアとチャイニーズマフィアを「封建勢力」と考えた場合、それらへの対抗が「ネーション=ステート」をもたらすものであることはいよいよ明らかである。すると、山本の「自発」(volunteer)とはすなわち「志士」の「それ」であるということにもなろう。むろん、「山本」というその命名からも明らかなように、北野によってそれは「真珠」(Pearl Harbor)としても想定されているのだ。さらに『BROTHER』が、第57回ヴェネチア国際映画祭でプレミア上映されたのが、ちょうど第2次「インティファーダ」(パレスチナ抵抗運動)という「ヴォランティア volunteer」の運動が始まろうとするころ(2000年9月)であったという事実にも注意が向けられてしかるべきである。それから、ほぼ1年後には、アメリカで「9/11」が引き起こされるというそんな情勢において、『BROTHER』は「世界」に向けてリリースされたのだ。しかるに、そこで下々による「勤皇」とまともに直面させられた浅田彰は、まさに「それ」ゆえに「それ」を「土人の国の出来事」だとして冷笑することしかできなかったのである。いうまでもなく、そこで軽侮とは奴の内なる「畏怖」の変装したものであるにすぎない。ひとはそこに示される「指詰め」や「ハラキリ」を「絵空事」であるとして嘲笑ったが、その後、アフガニスタンやイラクさらにパレスチナから伝えられたのは、まさに「自爆」(suicide bombing)だとか「路傍の爆破」(roadside bombing)、「斬首」(beheading)、さらには「麻薬取引」(drug trafficking)や「誘拐」(kidnapping)などといった現実だったのである。かくして、『BROTHER』は「9/11」の前と後を予見していたといっても過言ではない。なんといっても、そこでは「資本=ネーション=ステート」の三位一体が考察されているのである。そもそも、蓮實がいうような「北野武は映画に愛されている」(『映画狂人万事快調』 河出書房新社)といったようなくだらん理由で、そんなことが可能であるはずがないのだ。「それ」は「武」から来るのである。
 そして「武」は「くじ引き」に帰着する。柄谷によれば、「それ」は権力の集中する場所に導入される「偶然性」の謂いである。すると、それはわれわれに、『ソナチネ』(1993)に現れる女の名を連想させずにはおかない。砂浜にその「幸」(国舞亜矢)がやって来て、村川(ビートたけし)の横に並ぶ。その時、幸がそこに導入するのは「組み換え」であり、「位置転換」である。そこで「紙(神?)の人形」を模倣して、相撲を始めると、力士のふたりが「凝固」に見舞われる。それを運び、置きなおしてから、輪の外であとの三人が地面を叩くのと同時にクレーンが、宙に吊られる恰好で上昇する。それを目撃する者は、そこで言葉を失ったうえ極度の受動性に晒される、と同時にまた、主体のそうした「無能力」こそが、この出来事についての「悟り」(epiphany)をもたらす。こうしてひとは、「幸」の闖入がそこへ不意にもたらしたものが、束の間の「自治」(autonomy)であったことを悟る。いいかえれば、われわれは、そこに「映画狂人」によって忌避されるところの「戦争」(「陣地戦」 war of position あるいは「働くな」)を視るのだ。この遊戯は、心底恐るべき出来事すなわち「アソシエーション」なのである。「それ」は「自由」(disengagement 暇、解放、婚約解消、軍の撤退)」の現前なのだ。しかも米軍の駐屯地であり、朝鮮戦争で、そしてヴェトナム戦争で、さらに、今次のイラク戦争において、米軍が部隊をそこに集結させ、そこから後方支援を行ったところの「沖縄」の砂浜で、「それ」は現前するのだ。「それ」は「究極の」現前であり、まさに「崇高」なのである。 
 さらに、その真昼の砂浜での「凝固」は、真夜中に放射される「光」に関連づけられる。それは「宙吊り」を媒介にしている。まず、それは「送電中止」となって現れ、クレーンが「それ」(=宙吊り)を実演する。そして光が降ってきて、車の屋根に跳ねる。『BROTHER』で、それが服毒死した黒人少年の顔に降ったようにである。その襲撃の前には、フロントガラス越しにこわばる村川の顔面が提示され、続いてひとり、建物の方へと遠ざかるその背中が、キャメラによって捕捉される。北野映画では被写体がキャメラに向けて「背を向ける」ことは、「否認」をこそあらわすのであり、さらにそれは「宙吊り」へと向かうことなのである。ならば、やがて突発するマシンガンの速射音の鮮烈さは一体どこから来るのか? それは反射する光であり、反響する音である。要するに、それらは「リタ-ン」にほかならない。そして、ここに村川の「決済」があることはいうまでもなかろう。
 さらに「武」において特徴的なこと、それはその肉体の廃棄に際し、徹頭徹尾、躊躇が存在しないということであろう。そして、「容赦ない」肉体の廃棄をやり遂げると、続くのは「自己懲罰」である。それはどこまでも「自己」の問題である。であるがゆえに、そこでそれらの行為は、一般に「何なのよ、酷いだけじゃない」、「優しさがない」、「どうして?わかんない」などとして簡単に斥けられてしまうのである。さらにたけしが自身の経験として語るところによれば、「人殺し!」、「この悪党めが!」などと本気で罵ってくる者すらなかにはあるというのである。そういうひとらは要するに自分で「括弧入れ」をなすことができないのであるから、「この作品はすべてフィクションです。作中に登場する人物・団体等はすべて架空のものです」といった類の注意書きを本気で必要としているのだ。しかもその一方で、そういうひとらは案外、自分の国が軍隊まで派遣している「戦争」という現実を「括弧に入れて」、その内側で飲み食いやら性愛やら「お洋服」やらにうつつをぬかしておったりする。しかもその際、適当な良識さえ保持しておれば何か義務をはたした気になれるのだから安楽である。とはいえ、かくいう「拙者」も、そうした「括弧入れ」が、そもそも罷り成らんと主張するほどの分からず屋ではないつもりである。いうまでもなく、「拙者」にしたところで常日頃おおいに「括弧入れ」を活用しておる。ただそれは時に外さなければならないものだし、不意に外されてしまったりするものなのだ。すると途端にみなさんは血相変えて怒り出したりするから剣呑である(これじゃ、みなさんが異端審問官、オイラが「裁かるるジャンヌ」って図だぜ。しゃれになんないっての。まったくいやな御時世だよな)。つまり、「括弧入れ」ということで、「拙者」がいいたいのは、『BROTHER』というのはまさに、その「括弧外し」をなすところの「うつつ」なのだということなのです。しかも、その「うつつ」というのは「資本制経済」という「世界戦争」というわけだから、まさに「致命的」(Capital)なわけです。「それ」と比較した場合、「ラブ&ポップ」だとか「憂国呆談」だとかいったものは、せいぜいが良識と相互補完的であるというにすぎないものであって、むしろそうしたものこそが、いわゆる「世間」を形成するのであってみれば、それらが御時世に対しまったく抵抗力を持たないものであることは自明である。そうしたものに対し「当為」とは、いわば「快感原則の彼岸」(フロイト)にある、といってよい。かくして、「それ」は「否認」から「宙吊り」へ向かうという次第である。
 たとえば『3-4]10月』(1990)でのその数々の逸脱と引き延ばしは、物語ることからすれば非効率的な迂回であるように見えるし、そこには特に主題らしきものもないように見える。しかるに、『BROTHER』を経た後では、それはまるで違ったものになるのだ。それは差異化されて、まさに「差異」の発生そのものを扱った映画になる。端的にいえば、そこでタンクローリーの「運転」(drive)は資本の「欲動」(drive)になる。要するに、そこで北野は、雅樹こと柳「ユーレイ」を簡易便所、すなわち「ブラック・ボックス」に入れて、そこで「夢」を成立させている「無意識的な諸条件」を問うことによって、「夢」をその動因にまで遡行しているのだ。かくして、そこでわれわれが目の当たりに視るのは、「夢」を、反復・往復・追い越し(すぐそばを通る)という「簡単な形式・構造に還元しようとする」(定本柄谷行人集2 隠喩としての建築 岩波書店)ことが、「自己増殖の欲動」の発生からその帰結までを見極めるということに「変換」されてしまわざるをえないという、「武」につきまとって離れないその畏るべき「因果」なのである。だから、そこで画面の構成主義、あるいは「夢オチ」などを指摘して、それを不自然であるだとか作為的であるだとかと非難するのは当たっていない。というのも、もともと、その「欲動」は「売る-買う」という「価値形式」にこそ淵源するのだから、「形式」を問わずしてその解明が果たしえぬのは当然のことだからである。しかも、「武」はそうすることを「強いられて」いるのだから、やはり「出所」が違うのである。要するに、「それ」(資本の欲動)をとらえているのは市場の動向を予測するとか称する経済アナリストたちなんかではなく、むしろ「武」なのだ。

コメントを書く

名前
メールアドレス
URL
コメント本文(1000文字まで)


RSS1.0