2008/7/16 8:09
固有名としての「座頭市」 時代劇映画
固有名としての「座頭市」
KARATANIによって解明されたKITANO 45
またぞろ、性懲りもない映画評論家という「犯罪的」に安易で狭い頭たちは、『座頭市』(2003)を「エンターテイメント」として、あるいはその出来損ないとして、適当にやり過ごしえたつもりでいるが、そうした態度は、畢竟無知以外のなにものでもない。むしろ、通ぶった連中の悪評は、キタノが本質的に思考していることの「しるし」(=抵抗)なのである。ことわっておくが、「イチ」が導入されるのは、ほかでもない封建的支配と農業共同体に向けてなのだ。したがって、この『座頭市』を評価するに際して、過去の「座頭市」シリーズを持ち出さずにはおれない連中というのは、「イチ」の問題に対し、呪術あるいは「割腹」を持って立ち向かうというのも同然である。くりかえすが、そういうのはありふれた偶像崇拝あるいは「ロマン主義」にすぎないのであり、君たちはそんな空疎な試みをとっとと放棄して、マルクスとカラタニをせっせと読むべきなのである。
『座頭市』とは、北野武の『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』である。
したがって、この「座頭市」は勝新太郎のそれとは比べものにならず劣っている、そんなのは「おのずと」知れているとする評者(=映画愛好家)がそれなりに存在したことを考慮する必要がある。連中の「おのずと」というのが、つねに愚劣な迷信であるにすぎないことは今更いうまでもないが、それにしてもそういった反応から、ひとはやはり、「ルイ・ボナパルト」を連想せざるをえないのである。連中は言う、勝新太郎の「座頭市」は本物だった。あれは人情に厚い「本物の」英雄だった。「武」は、その名前と設定をかり、この由緒正しい「座頭市」という「キャラクター」によって世界をまたしても「詐欺」にかけようとしているのだ。はっきりいって、「それ」はその矮小化された再現でありファルスにすぎない等々。
しかるに、キタノ自身が「オイラはこんだ、エンタを実践してみた」というようなことを発言したにしてもだ、「それ」が「形而上学の夢」によって突き動かされている「怪物」にほかならないことぐらい、われわれ「コマネチ!」はすでにお見通しなのだ。かくして、蓮實がこの「座頭市」を「宇宙人」であるとみなすとき、すなわち、「それ」を、みずから掲げる「一系」という「ゲームの規則」に「根本的に反するもの」とみなしているのである。そして、「それ」(複数体系)こそが、蓮實にとっての「抵抗」であり、「規則違反」にほかならない。だからこそ奴は、「それ」(「強い視差」)を「機能していない」ものとして葬り去ろうとするのである(思うに、われわれ「コマネチ!」は、すでにその「運動」の開始当初から、この種の「抵抗」に悩まされ続けてきた。キタノが、「それ」を指摘すると、評論家たちは極まって「それ」を否定するのである。そうしたことが繰り返されるにつれ、われわれとしても、「それ」には何か「理由」があるのではないかと考えざるを得なくなった。そこで、「それ」を吟味するためには「抵抗」が必要である、むしろ、「抵抗」がなければ「それ」は無いとさえいってよいという結論に達したのである)。しかし、こうした「否認」によって明らかなのは、『座頭市』が「世界恐慌」の映画にほかならぬということである。それは「宇宙人」であるがゆえに「最強」(「オイラは強い」)といったような「エンタ」ではなくて、それが「世界貨幣」(=固有名)であるがゆえに、蓮實の空疎なる「表象批判」はまったく「機能していない」ということを告げ知らせる「啓蒙」なのである。
KARATANIによって解明されたKITANO 45
またぞろ、性懲りもない映画評論家という「犯罪的」に安易で狭い頭たちは、『座頭市』(2003)を「エンターテイメント」として、あるいはその出来損ないとして、適当にやり過ごしえたつもりでいるが、そうした態度は、畢竟無知以外のなにものでもない。むしろ、通ぶった連中の悪評は、キタノが本質的に思考していることの「しるし」(=抵抗)なのである。ことわっておくが、「イチ」が導入されるのは、ほかでもない封建的支配と農業共同体に向けてなのだ。したがって、この『座頭市』を評価するに際して、過去の「座頭市」シリーズを持ち出さずにはおれない連中というのは、「イチ」の問題に対し、呪術あるいは「割腹」を持って立ち向かうというのも同然である。くりかえすが、そういうのはありふれた偶像崇拝あるいは「ロマン主義」にすぎないのであり、君たちはそんな空疎な試みをとっとと放棄して、マルクスとカラタニをせっせと読むべきなのである。
『座頭市』とは、北野武の『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』である。
したがって、この「座頭市」は勝新太郎のそれとは比べものにならず劣っている、そんなのは「おのずと」知れているとする評者(=映画愛好家)がそれなりに存在したことを考慮する必要がある。連中の「おのずと」というのが、つねに愚劣な迷信であるにすぎないことは今更いうまでもないが、それにしてもそういった反応から、ひとはやはり、「ルイ・ボナパルト」を連想せざるをえないのである。連中は言う、勝新太郎の「座頭市」は本物だった。あれは人情に厚い「本物の」英雄だった。「武」は、その名前と設定をかり、この由緒正しい「座頭市」という「キャラクター」によって世界をまたしても「詐欺」にかけようとしているのだ。はっきりいって、「それ」はその矮小化された再現でありファルスにすぎない等々。
しかるに、キタノ自身が「オイラはこんだ、エンタを実践してみた」というようなことを発言したにしてもだ、「それ」が「形而上学の夢」によって突き動かされている「怪物」にほかならないことぐらい、われわれ「コマネチ!」はすでにお見通しなのだ。かくして、蓮實がこの「座頭市」を「宇宙人」であるとみなすとき、すなわち、「それ」を、みずから掲げる「一系」という「ゲームの規則」に「根本的に反するもの」とみなしているのである。そして、「それ」(複数体系)こそが、蓮實にとっての「抵抗」であり、「規則違反」にほかならない。だからこそ奴は、「それ」(「強い視差」)を「機能していない」ものとして葬り去ろうとするのである(思うに、われわれ「コマネチ!」は、すでにその「運動」の開始当初から、この種の「抵抗」に悩まされ続けてきた。キタノが、「それ」を指摘すると、評論家たちは極まって「それ」を否定するのである。そうしたことが繰り返されるにつれ、われわれとしても、「それ」には何か「理由」があるのではないかと考えざるを得なくなった。そこで、「それ」を吟味するためには「抵抗」が必要である、むしろ、「抵抗」がなければ「それ」は無いとさえいってよいという結論に達したのである)。しかし、こうした「否認」によって明らかなのは、『座頭市』が「世界恐慌」の映画にほかならぬということである。それは「宇宙人」であるがゆえに「最強」(「オイラは強い」)といったような「エンタ」ではなくて、それが「世界貨幣」(=固有名)であるがゆえに、蓮實の空疎なる「表象批判」はまったく「機能していない」ということを告げ知らせる「啓蒙」なのである。
