2008/7/22  7:40

ブラックボックスとしての「座頭市」  時代劇映画
ブラックボックスとしての「座頭市」
KARATANIによって解明されたKITANO 46

とはいえ、たしかに浪人との対決以後、座頭市からその「雰囲気 aura」が失われるのは事実である。だが、それは「スター」であるところの服部源之助(浅野忠信)を「仕掛け」なく斬り捨てたからではない。そのような解釈は「論外」(=審美化)である。そうではなく、座頭市が「盲目」であることをやめるからである。本来ブラック・ボックスであるところの「悪」を、その不透過を、眼を見開くことで特定してしまうからである。それは特定の資本家を「悪」として名指し、それを廃棄することに帰結する。そうではなく、搾取に対する対抗は、「ブラックボックス」(=盲目)においてなされねばならないのだ。  
 
資本による剰余価値の搾取はブラック・ボックスにあり、それを明示することができない。そうだとすれば、それに対する対抗もまた、ブラック・ボックスにおいてなされなければならないのである。(柄谷行人 『トランスクリティーク』 批評空間) 

北野映画にあっては、『3−4]10月』や『ソナチネ』においてそうであったように、「懲罰」は見通され得ないものとして提示されるのが、その「形式」に適ったことである。したがって、眼を見開くと「雰囲気 aura」が消えるのである。それはエンターテイメント時代劇であろうとすることからくる妥協であろう、ということがまずは考えられるが、当然、それだけではない。「盲目」であるとは、いわば「宙吊り」状態にあることであるが、当然、それはその当事者に極度の緊張を強いるのであり、したがって、「座頭市」がここで眼を見開くというのは、キタノが「エンタ」を口実にして、そうした不快な「緊張」から束の間、解放されることを願ったということを意味しているのだ。
われわれは『座頭市』(2003)の前に、あの真に畏るべき『Dolls』(2002)が存在することを努々忘れてはならない。「武」はあの「二つ折り」の宙吊り状態から、みずからを解き放ち、ここで、またしても「戦争」をやらかしているのである。とはいえ、それは「懲りない野郎だ」、などと非難して片付くような生易しい問題ではない。「盲目」もまた「宙吊り」にほかならぬからである。ここで、再び発現する「攻撃欲動」は、いわば「平和」の裏面なのだ。

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