2008/7/23  7:50

「武」の振り子理論  時代劇映画
「武はパンセ(思考)だ!」
KARATANIによって解明されたKITANO 47

『Dolls』で、ついに達成される「交換=交感」は、そこで、いわば「憲法九条」の存在を「二つ折り」として宙に吊るしたのであるが、『座頭市』で再び「戦争」が勃発すると、またぞろ、みなさんは「ひどいだけじゃない!」などといって悲鳴をあげたり、容赦ないその暴力描写に眉を顰めることで、やはり「武はバカだ!」とするみずからの意思表示にたちまち自足してしまい、《「交換」に存する根本的な危うさ》(議会制の問題 『<戦前>の思考』 柄谷行人 講談社学術文庫)を思考することをいとも容易に放棄してしまう。みなさんは、はたしてそんな態度で「憲法九条」が護持されうると本気で考えておられるのであるか?
一方、キタノいうところの「振り子理論」とは、ほかでもない《「交換」に存する根本的な危うさ》を思考するために必須の実践を指している。実際、それは根本的に思考しようとする者が辿るべき当然の理路であるにすぎない。したがって、むしろ、われわれは次のようにいうべきなのである。

「武はパンセ(思考)だ!」

「武」には、ひとつの宿場に止まらないようにするために、「外国」が、あるいは『Dolls』におけるようなひたすらな「横断性」が不可欠である。そうすることが、おそらく眼を開けること、つまり、「しょば」をもつことを妨げるのだ。「武」とは、畢竟「イノチガケの飛躍」(変態)に関わる問題であるがゆえに、最後に、「躓き」(「いくらメンタマひん剥いても、見えねえものは見えねえんだけどなあ」)を置くことによって、「宙吊り」状態(「ブラックボックス」)が再喚起されねばならない。
かくして、この宿場はマルクスにとってのイギリスのようなものであると解釈されるほかはないが、いいかえれば、この宿場には、「世界」が内面化されているのだが、そこでその内面化に背いて、複数体系としての「世界」を開示するものこそ、「すべてを代表する者」としての「金」との対決において、源之助が見舞われるところの「強い視差」にほかならない。

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