2008/7/24  7:27

政治を回復するために  批評と文学理論
「武」と拙者

われわれは、「武」と、浅田彰や松浦寿輝などの無自覚な「みやび」主義者がそもそも無縁であるのに対し、三島由紀夫や蓮實重彦には、「武」に対する断念が先立ってあるということをみなければならない。まさにそれゆえに、三島と蓮實はイロニーを余儀なくされるのだからである。では彼らにイロニーを余儀なくさせる「当のもの」とは、そもそも何か? 端的にいえば、それは「関心」(interest)にほかならない。そこで彼等は共同体と共同体の「間」に発生するところの「関心」を忌避するためにこそ、テクストを紡ぐ。それはまさに「文学」への立て籠もりにほかならない。いうまでもなく、そうした態度の起源にはフローベールの「ボヴァリー夫人」がある。奴がその時、編み出したのは「バリケード」なのであって、われわれが、小津安二郎であれ、ゴダールであれ、その高密度なモンタージュとやらに「虚無」を嗅ぎ取らざるをえないのもまさにそうした態度の継承ゆえである。それらは畢竟「政治」の忌避に帰着する。
一方、『BROTHER』をたんなる審美眼によって裁断する者らは、そこでの「利子」の表明が、ほかでもない「政治」を孕んでいることをまるで理解しない。「武」とは「複数体系」の謂いであり、畢竟「政治」の回復を意味しているのであるのにもかかわらず。むしろ、まさにそれゆえに、奴らは「武」を空疎化しないではいられないのである。

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