2008/7/27 23:23
コロー 光と追憶の変奏曲 分類なし
昨日は国立西洋美術館へ。
大学の頃、絵画をよく観に行ったけれど、とくに好きだったのは印象派。立原正秋の『四月の雨』にモネの「雪のアルジャントュイユ」という絵が出てきて、それから印象派に興味を持った。
印象派の4大巨匠はマネ・モネ・ドガ・ルノアールなどと高校生のときに歴史で学んだような気がするけれど、「モネと印象派」という企画展を観に行ったときにいいなあと思えたのはコローという画家の絵だった。記憶はすでに薄れているのだが、茶色い木立に囲まれた池の絵に吸い込まれそうになった。
しかし、以来コローの絵は観ていない。社会人になってからはめっきり美術館に足を運ぶこともなくなった。印象派と聞いても、大学の頃ほど心惹かれなくなったように思う。
それが最近になって、また絵画熱が再燃している。先日観に行った佐伯祐三展がとても充実していたのもあり、今度はコローを観に行くことに。十数年ぶりに眺めるコローの絵は、果たしてどんな表情をしているのだろう。
そしてもうひとつ楽しみなのは、国立西洋美術館には常設展のほうでモネの「雪のアルジャントュイユ」が飾られていること。雪の積もるアルジャントュイユの街。緩やかな曲線を描く轍。その上を歩く、緑色の外套を着た人間。
入場時にわかった。今回のコロー展では、常設展も併せて見学できるということ。ということは、「雪のアルジャントュイユ」も一緒に拝めるということになる。
立原に心酔していた昔、立原から離れた今。アルジャントュイユの雪景色はどんなふうに映るんだろう?
まずは常設展のほうから。他の展示を足早に過ぎ、アルジャントュイユの雪景色へ。
やっぱり絵葉書で観るのとは質感が違う。家々の屋根に積もった白い雪の光沢。轍の質感。ポケットに手を突っ込んでいると思われる緑色の人間。
空は明るい色彩の印象派の傾向とは異なり、決して明るくはない。それでも、この絵からは寂しさだけが感じられるのではない。
轍はこの街に生きている人たちの息遣いを思わせるし、白銀の雪は、むしろ光をもたらしている。
この絵に描かれた風景は、なぜか日本では函館の風景に重なるような気がしてしまう。いや、何が函館に近いのか、別段根拠など、何もないのだけれど。『四月の雨』の舞台が、海岸に近い港町だからなのか。
決して大きくはないこの絵のキャンバスの前に、しばし佇む。やっぱり、心が落ち着く。優しい静寂が、自分を包んでくれる。
続いて今回の企画展「コロー 光と追憶の変奏曲」へ。
夏休みの土曜日ということもあってか、入場者はかなり多い。初期の作品はキャンバスが小さいこともあり、なかなかゆっくり眺めることができないのが難点。
初期のコローの作品を見て思う。コローという画家は、とても理知的である。しかし、理知的であるがゆえに、緻密すぎてつまらない絵が多い。コロッセウムの描写などは、光と影の構図がカッチリと意識されているけれど、これは絵ではなく写真でもよいような気がする。画家としての特徴は何かといえば、脆弱であるような気がする。
そういう意味では、コローが森と池の描写に作風の展開を求めたのは正解だったと思う。中心に木の幹を置く構図はコロー独特のものだし、木々の葉の曖昧な灰色の表現は、森の神秘性を高める効果を作り出している。やはり、建造物よりも自然描写に妙のある画家だなあ、と。
ただし、自然の描写が中心になってからの建造物の描写は、ひと味違う。「パリ近郊の農家の中庭、あるいはパリ近郊のパン屋の中庭」は、正面から建造物をどっしりと捉えた重厚感のある絵だし、「ドゥエの鐘楼」では、鐘楼の輪郭の描写に木々と同じボカシ方がされていて、幻想的な世界を作り出されているように思った。
緻密さだけではない、コローの味が、この2枚には表現されていたような気がして、大変気に入った。
その他、「傾いだ木」「ヴィル=ダヴレー、傾いだ木のある池」は、中心となる木の幹をはっきりとした輪郭で表し、その背景の枝葉を幻想的な灰色の色彩で描いていて、観ていて飽きない、純粋にホッとする絵画だった。
全体的に、コローの絵は「のめりこむ」という性質の絵ではないかもしれない。すうっと観て、心が洗われるような爽やかさ、上品さを持つ作品群という気がする。
先日観に行った佐伯祐三とは対照的だ。佐伯祐三の絵には、立ち止まらせる重厚感がある。力のこもった筆遣いに、意図を読み取りたくなる。
これは、二人の画家の境遇の違いが影響しているのかもしれない。ブルジョワの家に生まれ、親に反対されながらも絵を始めてからはそれほど不自由がなく、恵まれた環境の下でサロンの話題となったコロー。一方で、日本からパリに渡り、辛辣な批評を浴びながら命を削って絵に向かい合った佐伯。そこに表される作品の色使いは、明らかに異なっている。
どちらが好きか。それは見る人間の「そのとき何を求めるのか」によっても異なってくるのだろうと思う。
何にせよ、十数年ぶりに訪れた絵画のマイブーム。次はフェルメールを観に行こうかなと思っている。
大学の頃、絵画をよく観に行ったけれど、とくに好きだったのは印象派。立原正秋の『四月の雨』にモネの「雪のアルジャントュイユ」という絵が出てきて、それから印象派に興味を持った。
印象派の4大巨匠はマネ・モネ・ドガ・ルノアールなどと高校生のときに歴史で学んだような気がするけれど、「モネと印象派」という企画展を観に行ったときにいいなあと思えたのはコローという画家の絵だった。記憶はすでに薄れているのだが、茶色い木立に囲まれた池の絵に吸い込まれそうになった。
しかし、以来コローの絵は観ていない。社会人になってからはめっきり美術館に足を運ぶこともなくなった。印象派と聞いても、大学の頃ほど心惹かれなくなったように思う。
それが最近になって、また絵画熱が再燃している。先日観に行った佐伯祐三展がとても充実していたのもあり、今度はコローを観に行くことに。十数年ぶりに眺めるコローの絵は、果たしてどんな表情をしているのだろう。
そしてもうひとつ楽しみなのは、国立西洋美術館には常設展のほうでモネの「雪のアルジャントュイユ」が飾られていること。雪の積もるアルジャントュイユの街。緩やかな曲線を描く轍。その上を歩く、緑色の外套を着た人間。
入場時にわかった。今回のコロー展では、常設展も併せて見学できるということ。ということは、「雪のアルジャントュイユ」も一緒に拝めるということになる。
立原に心酔していた昔、立原から離れた今。アルジャントュイユの雪景色はどんなふうに映るんだろう?
まずは常設展のほうから。他の展示を足早に過ぎ、アルジャントュイユの雪景色へ。
やっぱり絵葉書で観るのとは質感が違う。家々の屋根に積もった白い雪の光沢。轍の質感。ポケットに手を突っ込んでいると思われる緑色の人間。
空は明るい色彩の印象派の傾向とは異なり、決して明るくはない。それでも、この絵からは寂しさだけが感じられるのではない。
轍はこの街に生きている人たちの息遣いを思わせるし、白銀の雪は、むしろ光をもたらしている。
この絵に描かれた風景は、なぜか日本では函館の風景に重なるような気がしてしまう。いや、何が函館に近いのか、別段根拠など、何もないのだけれど。『四月の雨』の舞台が、海岸に近い港町だからなのか。
決して大きくはないこの絵のキャンバスの前に、しばし佇む。やっぱり、心が落ち着く。優しい静寂が、自分を包んでくれる。
続いて今回の企画展「コロー 光と追憶の変奏曲」へ。
夏休みの土曜日ということもあってか、入場者はかなり多い。初期の作品はキャンバスが小さいこともあり、なかなかゆっくり眺めることができないのが難点。
初期のコローの作品を見て思う。コローという画家は、とても理知的である。しかし、理知的であるがゆえに、緻密すぎてつまらない絵が多い。コロッセウムの描写などは、光と影の構図がカッチリと意識されているけれど、これは絵ではなく写真でもよいような気がする。画家としての特徴は何かといえば、脆弱であるような気がする。
そういう意味では、コローが森と池の描写に作風の展開を求めたのは正解だったと思う。中心に木の幹を置く構図はコロー独特のものだし、木々の葉の曖昧な灰色の表現は、森の神秘性を高める効果を作り出している。やはり、建造物よりも自然描写に妙のある画家だなあ、と。
ただし、自然の描写が中心になってからの建造物の描写は、ひと味違う。「パリ近郊の農家の中庭、あるいはパリ近郊のパン屋の中庭」は、正面から建造物をどっしりと捉えた重厚感のある絵だし、「ドゥエの鐘楼」では、鐘楼の輪郭の描写に木々と同じボカシ方がされていて、幻想的な世界を作り出されているように思った。
緻密さだけではない、コローの味が、この2枚には表現されていたような気がして、大変気に入った。
その他、「傾いだ木」「ヴィル=ダヴレー、傾いだ木のある池」は、中心となる木の幹をはっきりとした輪郭で表し、その背景の枝葉を幻想的な灰色の色彩で描いていて、観ていて飽きない、純粋にホッとする絵画だった。
全体的に、コローの絵は「のめりこむ」という性質の絵ではないかもしれない。すうっと観て、心が洗われるような爽やかさ、上品さを持つ作品群という気がする。
先日観に行った佐伯祐三とは対照的だ。佐伯祐三の絵には、立ち止まらせる重厚感がある。力のこもった筆遣いに、意図を読み取りたくなる。
これは、二人の画家の境遇の違いが影響しているのかもしれない。ブルジョワの家に生まれ、親に反対されながらも絵を始めてからはそれほど不自由がなく、恵まれた環境の下でサロンの話題となったコロー。一方で、日本からパリに渡り、辛辣な批評を浴びながら命を削って絵に向かい合った佐伯。そこに表される作品の色使いは、明らかに異なっている。
どちらが好きか。それは見る人間の「そのとき何を求めるのか」によっても異なってくるのだろうと思う。
何にせよ、十数年ぶりに訪れた絵画のマイブーム。次はフェルメールを観に行こうかなと思っている。
