2008/5/10 6:42
「銀嶺の果て」と「わかりません」 映画
クロサワ、ミフネの熱狂的なファンなどと言いながら、三船敏郎のデビュー作『銀嶺の果て』(谷口千吉監督第一回作品、黒澤明脚本)を今まで観ていなかったのは、恥だといっていいだろう。
おとといこの作品を初めてDVDで観た。
最初は正直いって、いまひとつ乗れなかった。
花沢徳衛がふんどし一丁で木曽節を歌っているシーンを見ながら、巨匠も駄作を作るもンだと、布団を敷いて寝る体勢に入っていたが、三人組の一人が雪崩に襲われる場面あたりからだんだんと惹きこまれて、志村喬が汽車の窓から雪山を振り返るラストでは、水割りを飲みながら男泣きしてしまった。
黒澤−志村−三船の名トリオの、これが最初の出会いだったのだと思えば涙せずにいられようか。やはりこの三人、日本が世界に誇る素晴らしい映画人たちだ。
私の先輩に菊さんという変な人がいるが、彼は大学で黒澤の息子(黒澤久雄氏)と同級生だったそうで、久雄さんの家に飲みに行くと親父が出てきて一緒に飲んだという話をたまにする。羨ましいというか、恐れ多いというか。私にとって黒澤明とは神そのものだから、ある意味、自分が菊さんでなくて良かったとも思う。(林寛子と友達になれたなら、それはそれで素敵だが)
しかし、その黒澤作品も、残念ながら『影武者』以降の作品は二度と観たいとは思わない。黒澤が特別だったのは『デルス・ウザーラ』までで、『影武者』にしも、カンヌでグランプリを取ったときには、「ああ、これは配給元のフォックスが運動したな」と思わざるを得なかった。あのときはボブ・フォッシーの『オール・ザット・ジャズ』に決まりだったのを、なんだか無理矢理グランプリを取ったようで、妙に悲しかった。勝新がやれば、ぜんぜん違っていたのに、最後まで意地のツッパリで人生半分損をした人だ。
そう思うと、古き良き時代の黒澤作品は、映画の実質とは離れた部分で感傷を誘うことがよくある(『醜聞』で左卜全たちが集まってクリスマスを祝うキャバレーのシーンなんて、特に泣かせる。この頃はみんな仲良くやっていたんだな、と思ってしまう)
まあ、黒澤を語ると長くなってしまうので、次の話題に移ろう。
最近、若い人たちと話をしていると(こういう表現を使いたくないが)「知らない」というべきところで「わからない」と答えるケースによく出くわす。「知らない」と「わからない」は、本質的に違う表現だと思うのだが……。
たとえば、「三島由紀夫って、知ってる?」と聞くと、「わからないです」と答える人が何人かいる。「知らない」ではなくて、「わからない」というのだ。私の質問の意味がわからないのだろうか。こちらは単純に、相手の知識について尋ねているのであって、三島の作品の評価について問うているのではない。ためしに『七人の侍』を知っているかと聞くと、やはり「わからない」という答えが返ってきた。
知らないことならば、知ればいい。これは情報量の問題だ。けれど、わからないことを、どうすればわかるだろうか。
ちなみに、新しい世代の若い人たちが黒澤を知らないのは当たり前だという擁護派もいるが、じゃあ、新しい世代の若い人たちが千利休を知らないのは当たり前だろうか。
世代や若さの問題か?千利休は、生真面目でタバコをよく吸う人でした……などと回想する人間がいたら化け物じゃないか。
「わからない」などという答えを許してはいかんのだ。「知らない」なら、「知りません」と言え。
知らぬは一時の恥。わからないのは、一生の恥だ。
おとといこの作品を初めてDVDで観た。
最初は正直いって、いまひとつ乗れなかった。
花沢徳衛がふんどし一丁で木曽節を歌っているシーンを見ながら、巨匠も駄作を作るもンだと、布団を敷いて寝る体勢に入っていたが、三人組の一人が雪崩に襲われる場面あたりからだんだんと惹きこまれて、志村喬が汽車の窓から雪山を振り返るラストでは、水割りを飲みながら男泣きしてしまった。
黒澤−志村−三船の名トリオの、これが最初の出会いだったのだと思えば涙せずにいられようか。やはりこの三人、日本が世界に誇る素晴らしい映画人たちだ。
私の先輩に菊さんという変な人がいるが、彼は大学で黒澤の息子(黒澤久雄氏)と同級生だったそうで、久雄さんの家に飲みに行くと親父が出てきて一緒に飲んだという話をたまにする。羨ましいというか、恐れ多いというか。私にとって黒澤明とは神そのものだから、ある意味、自分が菊さんでなくて良かったとも思う。(林寛子と友達になれたなら、それはそれで素敵だが)
しかし、その黒澤作品も、残念ながら『影武者』以降の作品は二度と観たいとは思わない。黒澤が特別だったのは『デルス・ウザーラ』までで、『影武者』にしも、カンヌでグランプリを取ったときには、「ああ、これは配給元のフォックスが運動したな」と思わざるを得なかった。あのときはボブ・フォッシーの『オール・ザット・ジャズ』に決まりだったのを、なんだか無理矢理グランプリを取ったようで、妙に悲しかった。勝新がやれば、ぜんぜん違っていたのに、最後まで意地のツッパリで人生半分損をした人だ。
そう思うと、古き良き時代の黒澤作品は、映画の実質とは離れた部分で感傷を誘うことがよくある(『醜聞』で左卜全たちが集まってクリスマスを祝うキャバレーのシーンなんて、特に泣かせる。この頃はみんな仲良くやっていたんだな、と思ってしまう)
まあ、黒澤を語ると長くなってしまうので、次の話題に移ろう。
最近、若い人たちと話をしていると(こういう表現を使いたくないが)「知らない」というべきところで「わからない」と答えるケースによく出くわす。「知らない」と「わからない」は、本質的に違う表現だと思うのだが……。
たとえば、「三島由紀夫って、知ってる?」と聞くと、「わからないです」と答える人が何人かいる。「知らない」ではなくて、「わからない」というのだ。私の質問の意味がわからないのだろうか。こちらは単純に、相手の知識について尋ねているのであって、三島の作品の評価について問うているのではない。ためしに『七人の侍』を知っているかと聞くと、やはり「わからない」という答えが返ってきた。
知らないことならば、知ればいい。これは情報量の問題だ。けれど、わからないことを、どうすればわかるだろうか。
ちなみに、新しい世代の若い人たちが黒澤を知らないのは当たり前だという擁護派もいるが、じゃあ、新しい世代の若い人たちが千利休を知らないのは当たり前だろうか。
世代や若さの問題か?千利休は、生真面目でタバコをよく吸う人でした……などと回想する人間がいたら化け物じゃないか。
「わからない」などという答えを許してはいかんのだ。「知らない」なら、「知りません」と言え。
知らぬは一時の恥。わからないのは、一生の恥だ。
