2008/5/11  5:04

冒頭の一行  小説の愉しみ

私の拙い新作小説は、とりあえず第一稿が上がった。あとは推敲作業だ。映画でいえば、クランク・アップした後の編集作業のようなものだと思う。そして、この部分がまた、苦しくも楽しくもある。

一番気になるのは、書き出しだ。私も文芸雑誌などを読む場合、冒頭の数行が魅力的なものをマークしていて、後で読もうと付箋を用意する場合が多い。けれども、もし冒頭の数行で惹きつけられたら、付箋は必要なくなる。そのまま最後まで読んでしまうからだ。

そんなわけで、古今の有名な作品が一体どんな風に書き出されているのか、あらためて調べてみようと朝の4時ごろから起きてごそごそしていると、当初の目的を忘れて本文をずっと読んでしまったりして、だらだらした時間を過ごしてしまった。
まあ、こういうことをしていると目先の金の心配を忘れることができるが、部屋が散らかってしようがない。

書き出しというのは、ことほどさように重要である。源氏物語然り、枕草子然り、平家物語然り、あるいは近代の漱石のものでも、冒頭の文章というのは、教科書に載っていて、誰でもが知っているし、太宰治、尾崎翠、古井由吉、中上健次なども出だしの一文で作品の雰囲気をずばっと決める。

世界的にみれば、ダンテ、トルストイ、メルヴィル、フローベール、モーパッサンなどの代表的な作品は、書き出しの文章が有名だね。

小説以外でも面白いのがある。今、埃にまみれたいくつかの本を目の前にして書いているが、作品がどんな風に始まっているかあらためて読み直すのは興味深い。

世界の思想地図を変えたような旅行記、『悲しき熱帯』はこんな風に始まっている:「私は旅や探検家が嫌いだ」

『シュールレアリズム宣言』:「人生の、人生のなかでもいちばん不確実な部分への、つまり、いうまでもなく現実的生活なるものへの信頼がこうじてゆくと、最後には、その信頼は失われてしまう(巌谷國士訳)」

「私の予想では、近いうちに私は史上最大のむずかしい要求を人類に対して突きつけなければならなくなるだろう」:ニーチェ『この人を見よ(川原栄峰訳)』の序文第一行目。

その他、サルトル、シュンペーター、クリステヴァ、フーコー、ロラン・バルトなど、冒頭のページをぱらぱらと捲っていると、書き出しで傍線を引いているのが多いが、いちいち紹介していると他のことができなくなる。ブログを書いて一日終わり、というのは嫌だ。

古くなった本を目の前に積んでみると、本屋をやっていた20年間の思い出が蘇る。

今は、誰でもが小説を書く時代だ。私も別に自分の書いたものを誰かに見せたいとは思わないが、言葉を形にするのは面白い。人間の根源的な欲求だろう。他に満たされない欲求がたくさんあるのに、どうしてこれから手をつけるのかは自分でもわからないが。

いずれにせよ推敲作業というものは、寄り道ができて楽しい。ささやかなこの人生は、ささやかな愉しみのためにあるのだ。

きっとそうだ。









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