2008/7/6  13:44

汝の仕事を愛せ  映画

カート・ヴォネガットは、昔、仕事が嫌で嫌で仕方がない時期があったそうだ。
そのヴォネガットさんに向かって、誰かがこう言った。

「でもねえ、あんた。蹄鉄に首ったけの鍛冶屋なんていうのも、そういるもんじゃねえやな」

確かに。

けれども、自分の仕事が死ぬほど好きな人も、中にはいる。

もう20年ほど前のことだが、「とりひげ」本店の北側の踏み切りの手前にビデオレンタルの店があった。

私は仕事帰りに一杯やったあと、よくこの店に立ち寄った。
酒を飲むと、人間不思議なもので、少し色っぽいことを考えたくなるものだ。私の狙いも、当然というか何というか、当時隆盛を極めていたAV、すなわちH系ビデオを借りて、一人でこっそり見ることだった。

店の扉を開けると、店員のKさんがこちらを見て、ニヤッと笑う。彼は若いころのジョージ・タケイに少し似ていて、いつも店の奥で映画を見ていた。

秋元ともみ、小林ひとみ、美里真理、朝岡実嶺といった、今思い出せば涙がでてきそうな女優たちの悶絶の表情が印刷されたパッケージを、失楽園の蛇のような目で見ながら店内を行ったり来たりしていると、ふと背後に人の気配を感じるのだった。

ジョージ・タケイに似たKさんが、私の後ろに立っているのである。そして不思議な笑みを浮かべながら、彼は私の耳元にこのように囁くのである。

「イタリアン・ニュー・リアリズムの作家、ロベルト・ロッセリーニを観ずして、やっぱり映画は語れませんねえ……」

そこから、とどまることを知らない彼の饒舌が始まるのである。ビットリオ・デシーカについて、ミケランジェロ・アントニオーニについて、黒沢明について、サタジット・レイについての立ち話は延々と続く。

黒下着の美里真理に伸ばしかけた手を、私は引っ込めざるを得ない。

「さっきハンフリー・ボガードの話が出ましたけど、私は『アフリカの女王』よりも、断然『ケイン号の叛乱』ですねえ。あれで彼はトレンチ・コートのボギーを完全に払拭したわけですから」ペラペラペラ……。

「脚本家としての黒沢を語るのなら、『暴走機関車』は、是非見ておいてください」ペラペラペラ……。

「マルクス・ブラザーズの全作品を置かせてくれって店長に頼んでいるんですよ。少なくとも、『けだもの組合』を置いていないなんて、恥ずかしいですからね」ペラペラペラ……。

「デシーカやピエトロ・ジェルミにとっては、演じることも演出することも一緒なんです。同じ呼吸で映画というものを、別の角度から作っているだけです」ペラペラペラ……。

そんなKさんを前にして、『爆乳グラフィティ』なんていう、芸術性に乏しい作品を借りるわけにはいかない。結局私は、必ずといっていいほどKさんお勧めの作品を二本ほど借りて帰るはめになった。

最近、たまにレンタルDVDの店に行って「はい、返却結構です」と「レンタル期間は一週間でよろしいでしょうか」としか言わない店員さんたちを見ていて、ふとKさんを思い出すことがある。

今ごろどうしているだろうか。あの、蹄鉄に首ったけの鍛冶屋は。



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