2008/7/9 22:20
物語と出来事 映画
物語という言葉があるが、これは気をつけなければいけない言葉だ。
物語とは何ぞや?
コマーシャリズムの常套手段でいえば、累積的な話の筋立てがあって、最後は感動を与えてチャン、チャンということだろうが、どうもそういうものではなかろう。
ただひとつ言えることは、ある「できごと」に対して、読者なり観客なりの注意を強制的にフォーカスさせるということだ。それはたとえば、大都会に住む群衆の中から、特定の人物に焦点を当てることでもあるだろうし、あるいは群集を群集として上から見下ろすという視点を用意することによっても可能となるだろう。
相手の注意を強制的に一方向へ向けさせるわけだから、強制から逃れようとする読者(観客)の側からの反作用も視野に入れておかなければならない。この反作用に対して無神経な語り手は、当然ながら相手を惹きつけられず、失敗する。そこが物語と論文の大きな違いだ。
「起承転結」だとか、「テーマ=作者の言いたいこと」とかいった、わけのわからん教科書的な刷り込みに慣れてしまい、それが前面に出ると、とたんにつまらなくなる。「物語」という言葉が持ってしまっている語感を、いかに振りほどくかということが問題ではないだろうか。
焦点を誘導するという、大それたことをするわけだから、一つ間違えばプロパガンダになる。ニュース番組やテレビショッピングや戦争宣伝が物語性を導入して、効果を数値化しているという事実がそのことを語っている。小説や芝居や映画といった物語メディアは、ほんらい読者=観客との相互作用に成り立つわけで、こういうものを作る場合、創造性というものを一方的に作り手=語り手側にのみ偏向させないほうがいいだろう。
そういうことを考えていたとき、『パリ・ジュテーム』というオムニバス映画に出くわした。パリのさまざまな場所を舞台に、多くの一流シネアストたちが参加した作品だが、一話たったの5分という持ち時間なので、わざとらしい起承転結+オチなんていう馬鹿なことは誰もしないし、まずできない。必然的に「出来事」の描写をする、すなわち「いかに語るか」に工夫を凝らした作品に仕上がっている。
私はオムニバスものはあまり好きではないが、この映画は「物語」のあり方について示唆を与えてくれる。『ユメ十夜』が表現方法に比重を置きすぎていたのに比べると、『パリ・ジュテーム』はとてもバランスがいいのだ。
たった5分の、しかもいわゆるプロットらしいプロットがないにもかかわらず、感動に震えるようなエピソードもある。それぞれの作品は、小説のようであり、詩のようであり、絵画のようでありながら、トータルとしては映画以外の何者でもない。「純文学」という死語があるが、この作品は「純映画」とでも呼びたくなった。
タイトルがいかにもベタなので今まで観ていなかったが、実際素晴らしい作品だった。
物語とは何だろう、と考えていた矢先に、結構な拾い物をした気分だ。犬も歩けば棒に当たるとは、こういうことだろうか。
物語とは何ぞや?
コマーシャリズムの常套手段でいえば、累積的な話の筋立てがあって、最後は感動を与えてチャン、チャンということだろうが、どうもそういうものではなかろう。
ただひとつ言えることは、ある「できごと」に対して、読者なり観客なりの注意を強制的にフォーカスさせるということだ。それはたとえば、大都会に住む群衆の中から、特定の人物に焦点を当てることでもあるだろうし、あるいは群集を群集として上から見下ろすという視点を用意することによっても可能となるだろう。
相手の注意を強制的に一方向へ向けさせるわけだから、強制から逃れようとする読者(観客)の側からの反作用も視野に入れておかなければならない。この反作用に対して無神経な語り手は、当然ながら相手を惹きつけられず、失敗する。そこが物語と論文の大きな違いだ。
「起承転結」だとか、「テーマ=作者の言いたいこと」とかいった、わけのわからん教科書的な刷り込みに慣れてしまい、それが前面に出ると、とたんにつまらなくなる。「物語」という言葉が持ってしまっている語感を、いかに振りほどくかということが問題ではないだろうか。
焦点を誘導するという、大それたことをするわけだから、一つ間違えばプロパガンダになる。ニュース番組やテレビショッピングや戦争宣伝が物語性を導入して、効果を数値化しているという事実がそのことを語っている。小説や芝居や映画といった物語メディアは、ほんらい読者=観客との相互作用に成り立つわけで、こういうものを作る場合、創造性というものを一方的に作り手=語り手側にのみ偏向させないほうがいいだろう。
そういうことを考えていたとき、『パリ・ジュテーム』というオムニバス映画に出くわした。パリのさまざまな場所を舞台に、多くの一流シネアストたちが参加した作品だが、一話たったの5分という持ち時間なので、わざとらしい起承転結+オチなんていう馬鹿なことは誰もしないし、まずできない。必然的に「出来事」の描写をする、すなわち「いかに語るか」に工夫を凝らした作品に仕上がっている。
私はオムニバスものはあまり好きではないが、この映画は「物語」のあり方について示唆を与えてくれる。『ユメ十夜』が表現方法に比重を置きすぎていたのに比べると、『パリ・ジュテーム』はとてもバランスがいいのだ。
たった5分の、しかもいわゆるプロットらしいプロットがないにもかかわらず、感動に震えるようなエピソードもある。それぞれの作品は、小説のようであり、詩のようであり、絵画のようでありながら、トータルとしては映画以外の何者でもない。「純文学」という死語があるが、この作品は「純映画」とでも呼びたくなった。
タイトルがいかにもベタなので今まで観ていなかったが、実際素晴らしい作品だった。
物語とは何だろう、と考えていた矢先に、結構な拾い物をした気分だ。犬も歩けば棒に当たるとは、こういうことだろうか。
