2008/3/9 22:32
竹の箸Memoir - ポール・フレールの思いで その3 竹の箸Memoir
ポール・フレールは、1960年のルマン24時間レースの総合優勝を期に、レーシングドライバー・キャリアからは引退していた。しかし、レーシングカー、サーキットから離れたわけではない。機会あるごとに、最新のレーシングカーに乗っていた。巨竜907を含むレーシング・ポルシェ、DAFのベルト式CVTをつけた ブラバムF3など、CGにリポートを送ってきてくれた。75歳の誕生日には、91年ルマン優勝車マツダ787Bの姉妹車787に試乗し、のちに2度787Bにも乗っている。訪日の際には、FISCOで日産R380を走らせた。85歳でルマン・レーススタート直前にアウデイR8を駆り、たった2周後のラップで4分を切っている。
サーキット、テストコース、公道で彼の運転する車に同乗するのは、至上の勉強の機会で
あった。たまにふたりが別の車で走る際には、たっぷりハンデを設けてくれる。ポール・リカールにポルシェの試走を見に行った時は、彼のニースの家からサーキットへの足に2台を使った。私は、ヨーロッパ仕様アコード1600クーペに乗っていった。ポールいわく、「私の試乗しているランチア・ガンマを運転するといいよ。排気量では900cc大きいし、トルクも太い。シリンダーヘッドが吹きばなければ、よく走る。僕のアコードについてくるといい」いうは易く、行うは難し。ガンマの隣の席の小林編集長の足がつっぱているのが判るほど、きびしい追いかけだった。
1967ベルギーGPの前日、ポールは1600GTを運転し、スパ・フランコルシャンを案内してくれた。「TR6より、いいハンドリング」とは彼の1600GT評価。1939年、雨のレースで3リッターGPメルセデスに乗るイギリス人リチャード・シーマンがコースオフし立木にぶつかった場所,57年のスポーツカー・レースでスコットランド人アーチー・スコット-ブラウンのリスター・ジャガーがコースオフ、道路標識にぶつかった場所を教えてくれた。「ふたりとも病院で亡くなった。後者は、私が主催者側に標識を外すよう意見をしたのだが、無視されてしまった」
60〜80年代のヨーロッパ・モーターショーでは、ジャーナリストが主催国々産車に試乗できるテストデーがあった。ロンドンがグッドウッド、パリがモンレリー、フランクフルトがホッケンハイムリンクだった。
81年のホッケンハイムは、記憶に残っている。BMW広報部長のダーク・ストラッスルにとっては最悪の日だったろう。主催者は、直線部の速度を抑えるためにシケーンを設けたのだが、 どうゆうわけかBMWドライバーはそこで突っ込む。一方、発表されたばかりのアウデイ・クアトロに乗るジャーナリストは、一様にシケーン手前でかなりの減速をする。ポールが解説してくれた。「われこそBMW使いと過信し、とびこんだ連中が速すぎてリアを抑えらなかったのだ。アウデイについては、高性能全輪駆動の限界特性を知る人は皆無に近く、おっかなびっくりなのだろう。クアトロは、実に安定し、扱い易いクルマなのだけどね。」
(つづく)
1981年ホッケンハイムリンクで開催されたフランクフルト・ショー・テストデーでBMW広報部長ダーク・ストラッスル(左)を慰めるポールと私。ダークは、メルセデス-ベンツ海外広報時代からの知り合い
この年のホッケンハイム・テストデーは、BMWにとってまったくついていなかった。シケーンでつぶれた2台。向こうにしケーンが見える。
パリ・ショーのモンレリー・サーキットでのテストデー。巨大バンクを使ったフルコース試乗で、午後になりワインが回るとクラッシュ続出。
67年、ベルギーGP取材の足に使ったトヨタ1600GT。飾り気のないクルマは、ラリー偵察用。ポールが1600GTでスパ・コースを案内してくれた。



