2008/3/29  1:58

竹の箸Memoir - ポール・フレールの思いで - 10 『気骨』  竹の箸Memoir

1989年のルマン24時間レースは、たいへん興味があり勉強になった。レ−ス前夕、最後の調整のために、なんと隣接した空港のタクシーウエイを使っての試走するマツダ787B。飛行機、車、どっちが優先権があるんだろう?
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最速、ポールポジション狙いのプジョーも空港テスト。超空力形状をしている
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1989年のルマン24時間レースは、面白かったし、勉強になった。ポールは、当時国際自動車連盟のスポーツ部門FISAの技術委員であった。
89年当時のFISA会長ジャン−マリー・バレストルは、専制君主、暴君として悪名高かった。ポールは、スポーツレーシングカー部門における燃料消費フォーミュラを強力に提唱していた。しかし、FIASAは1992年からはエンジンを3.5リッターNAとするという新規則を打ち出した。これはF1規則と同じ排気量で、F1勢の参入を画策したのだ。ところが、裏目に出て、ルマン以外のヨーロッパ・ポーツレーシングカー・レースの衰退を招くことになる。

89年ルマンレース前のプレスブリーフィング質疑応答の口火を切ったは、恒例によりポール。ジャーナリストたちがポールに払う敬意だと聞いた。相手はベレストル会長。口火というが、火を吹く様な激論となった。元レーシング・ドライバーで67年フェラーリ・レーシングマネジャーであったジャーナリスト、フランコ・リーニがフランス語のやりとりを要訳耳打ちしてくれた。そのうち、フランコが戦列に加わり、すごいことになった。

89年ルマンは、その時期の規則最頂期に差し掛かったレースといえよう。メルセデスはザウバーに託したC9を投入、ジャガーがXJR9LMで迎え撃つ。ポルシェ962C群は巨人たちを狙う。日本からはトヨタ89C-V、88C、日産R89C、そしてマツダが4ローターを積んだ787と767で参戦した。

ポールは、ルマンの見所に連れていってくれた。スタート前は最終コーナーで待つ。「ここにいるとアメリカンV8的な音が聞こえてくるよ」メルセデスV8は強大なトルクを発生するが、音はくぐもったV8そのものだった。C11からは、回転が上がり、音がツーンと抜けてくる。
しばらくすると、「それじゃ、コースを回るか」とポール。アームコ・ガードレール沿いに歩きだした。フォトグラファーも入ってこないコース脇だ。オフィシャルたち、「ボンジュール、ムッシュ・
フレール」「サバ、ポール」と挨拶し、通してくれる。時々見晴らしのいい場所でポールの解説つきの休憩。また歩きだす。コース半周した。

70年代はじめ、ヨーロッパは雑誌、新聞単位のカー・オブ・ザ・イヤーが割拠していた。1972年、イギリスの新聞デイリーテレグラフが新しいカー選びを企画した。当時、私が通信員をしていた
MOTOR編集長チャールズ・ブルマーの紹介と記憶するが、テレグラフ自動車担当エディター、ジョン・ラングレーから選考員に加わってくれと依頼がきた。メンバーには、ポール、米ロード&トラック編集長ロン・ウエイクフィールド、ジャーナリストのカール・ルドヴィグセン、フランスの産業首脳インタビューで有名なエドワール・サイドラーなどの知人がいた。
これは車種、価格帯による複数部門を設け1-3位を選び、その中からCOTYを選ぶという、たいへんいいシステムであった。そしてCOTY、部門賞ともに、選考者の評価を記載する。

大新聞デイリーテレグラフ日曜版が特集を組み、たいへん好評だったと知らされた。あまりにも評判がいいので、ジョン・ラングレー、名案を考えだした。ヨーロッパでそれぞれのCOTY選びをやっていたメデイアに声をかけ、汎ヨーロッパ・イベントを提案したのだ。これが現在のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーとなる。"ヨーロッパ”となったので、アメリカ人のカールとロン、日本人の私は失業するが、その後のECOTY発展、メデタシである。
ポールは長年選考会長を務めたが、この種の行事の劣化を防ぐ改革の一環として定年制を敷き、自らも引退した。以後は投票をしない名誉会長であった。

オランダのオートヴィジー誌で元祖COTYをはじめた策者、フレッド・ヴァン・デル・ヴルトが仕掛け、実施したのがカー・オブ・ザ・センチュリーだ。20世紀のThe Carを選ぼうという企画だった。私も参加した。1998年と記憶するが、オランダ・アムステルダムでキックオフ・パーティがあった。ポール、ビュウリー卿、小林彰太郎さんらのそうそうたる名誉審査員会メンバーが壇上に座った。開会までに名誉審査員が700+台もある20世紀(正確には、2001年の21世紀まで2年あった)の古今東西の自動車を200台に絞っていた。たいへんな作業だったと聞いた。私たち選考員は配点方式で、100台、50台..・・・と段階を追って絞っていき、1999年12月に1台のThe Carを選ぶという方式。ところが第1次選考の100台発表時には、ポールは辞任していた。行事が興行的になっていくのに反対したのだと話してくれた。ポール・フレール、気骨の人だった。

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英新聞デリーテレグラフが1972年に行ったカー・オブ・ザ・イヤー。ヨーロッパではCOTYが群雄割拠時代だった。
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審査員は、ヨーロッパ、アメリカ、日本のジャーナリスト。ポールとともに参加した。ポール55歳、私38歳だった



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