2008/5/12  10:32

マダガスカル島  旅行

マダガスカル島
このようにしてマダガスカル島のメリーナ王朝はフランスによって滅亡に追い込まれてしまい、この王朝は二度と復活することはありませんでした。別の見方をしますとフランス革命を起こし、共和国体制に入ったフランス人にとっては王朝とか貴族には関心がなかったのかもしれません。

マダガスカルについては英国やフランスが関係を持つようになってからの歴史は文書に記録されていますので、比較的はっきりしていますが、それ以前については現在でもまだ議論が続いています。考古学者による本格的調査は1960年代に入ってからにすぎません。特に「最初にマダガスカル島に移住してきたのは、どこの誰か?」というのが最大のポイントです。

言語学者と考古学者の調査がこの問題を解決しつつあります。マダガスカル人は基本的にはAustronesianということは確立されたようです。そして彼らは現在の東南アジアと呼ばれる地方から来たといっています。最大の根拠はマダガスカル人の言葉がボルネオ島の言葉と酷似しているという点が挙げられています。また古いギリシャや中国の文献にAustronesianと思われる人々の存在が記録されていますのでこの方面からの調査も進んでいます。 −続く−
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2008/5/11  9:50

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マダガスカル島
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写真:マダガスカル島最初の王Andrianampoinimerina 。マダガスカル島にはサカラヴァ族、ベツィミサラカ族など有力な部族がいたがメリーナ族がその頂点に立った。Andrianampoinimerinaはそのメリーナ族の王であった。身なりは素朴ですね。フンドシをしています。写真をクリックすると大きくなります。
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写真:最初にマダガスカル島を統一した父”Andrianampoinimerina”の後を継いだking RamadaT(キング・ラマダ一世)。身なりは洗練されたヨーロッパ風ですね。彼は父が征服した領土をさらに拡張し、メリーナ王朝を確固不動のものにしました。平和を愛し、ヨーロッパ諸国との友好親善に努めた。
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マダガスカル島の首都アンタナナリヴォを訪れますと、今も栄華を誇ったメリーナ王朝の宮殿が小高い丘の上にそびえています。そこに登りますと首都アンタナナリヴォが一望に見渡せます。「荒城の月」のメロディーのように、「昔の光、いまいずこ」が偲ばれ、僕は感無量(かんむりょう)になりました。 −続く−
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2008/5/10  23:27

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マダガスカル島
マダガスカルで社会的に上位にある人はフランス語がいまだに堪能です。マダガスカルは発展途上国ですが語学の面では日本人で社会的に上位にある人々よりも進んでいます。仕事上で僕と関係があった人物はさらに英語にも堪能であるうえに、日本で日本語も勉強しましたので日本語も相当できます。したがって国際会議の場面では、先進国の人々にひけをとらない発言をすることが可能です。少しレヴェルが落ちるフランス語であればレンタカーの運転手クラスのマダガスカル人も十分使いこなしています。

マダガスカル人と付き合っていますと、このように日本人官僚の幹部、一流企業の幹部、大学の教授陣の語学力の貧弱さが浮き彫りになってきます。北海道で一番有名な国立大学の教授が僕たちのプロジェクトを視察に来ましたが外国語は英語しか理解できませんのでマダガスカル人の役人に英語で話していましたが、この役人は英語がまったくできませんので意思の疎通はまったくできませんでした。

やむなく日本人通訳を介していろいろと質問していましたが、外国派遣の通訳を雇いますと一日8万円かかりますし、その上、日本からマダガスカルへの往復航空賃も負担しなければなりません。すごい経費ですね。その日本人通訳もマダガスカルの地方都市の魚市場に行きますと、フランス語がまったく通じません。

決して威張っているわけではありませんので、お許しいただきたいのですが、その場面では僕の付け焼刃(やきば)のマダガスカル語(“マラガシ”と言います)しか通用しませんでした。その魚市場で日本人教授が質問した内容は「この魚は昨日捕ったのか、それとも今日捕ったのですか」という内容でした。この程度の内容であれば付け焼刃のマダガスカル語で十分間に合います。

日本では最近ようやく英語教育を小学校から始めようとする動きが出てきましたが、発展途上国から見ればきわめて遅いスタートです。僕の考えでは終戦直後から始めるべきだったと思います。小学校から英語教育をやれば、日本語がおろそかになる、という人が教育関係者にたくさんいましたが、そんなことはありません。ヨーロッパの例を見ればよくわかります。

語学も、英語は当たり前の時代です。僕たち日本人は英語のほかにもう一ヶ国語を習得すべき時代に入っています。日本に来ている欧米のビジネスマンたちの中には日本人以上に日本語の読む、書く、話す、聞く能力を持っている人々がたくさんいます。

マダガスカル島に滞在中に、語学では「僕はマダガスカル人に負けているなー」と何度も実感させられました。「ただ僕たちが持っている技術だけが彼らに勝っている」という実感はありました。そして驚くことにはマダガスカルが一時共産主義を志向した時代がありましたので、ロシア語も理解できる人々がたくさんいることでした。−続く−
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2008/5/10  0:00

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マダガスカル島
1863年〜1896年の間にマダガスカル島の君主はクイーン・ラソヘリナ(Rasiherina),
クイーン・ラナヴァローナ(Ranavalona)、そしてマダガスカル島最後の女王、クイーン・ラナヴァローナ三世 (RanavalonaV) と受け継がれてゆきました。ラナヴァローナ三世 (RanavalonaV)を最後にマダガスカル島の最高権力者は外国人になってしまったのですね。

マダガスカル島が英国の勢力下にあった時期、フランスはマダガスカル島を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていました。そしてある日、満を持してマダガスカル島の主要な港湾を占領しました。そしてフランスーマダガスカル戦争は30ヶ月も続きました。

ライニライアリヴォニー首相は英国の支援を求めましたが英国は拒否しました。これは「英国の裏切り」としてマダガスカル人の心に深く刻み込まれました。これ以降、英国がマダガスカル島で影響力を振るうことはなくなりました。時に、1896年でした。

僕の記憶が定かではありませんが、マダガスカル島の対岸に現在のタンザニア国の領土と思いますが、ザンジバルという島があり、かつてはアラブ人を中心とする海上貿易で栄えた島でした。ここがフランス領であったのですが、英国はこの島を戦略上重要だと判断して、フランスと交渉した結果、英国はマダガスカル島から手を引きフランスに渡す代わりに、フランスはザンジバルを英国に引き渡しました。

英国がザンジバル島を重視したのは、この島に英国陸軍を上陸させれば、すぐそばのアフリカ大陸に英国陸軍を上陸させ、サハラ砂漠に進軍できるからだったと思います。なぜサハラ砂漠に英国陸軍を進軍させる必要があったかといいますと、遅れてやってきた新参の植民地主義者ドイツに対抗するためだったと思っていますが、上述のとおり僕の記憶が少しばかりあやふやなので断言できません。そのうち資料を見つけ出して報告します。ただ一つ、英国とフランスがマダガスカル島とザンジバル島を交換したのは事実です。

マダガスカル島メリーナ王国最後の女王ラナヴァローナ三世はアフリカの仏領アルジェリアに追放されました。女王はそこでさびしく生涯を閉じました。しかしマダガスカル側の強い要望で彼女の遺体は数年後にマダガスカル島に帰還し盛大な葬儀が行われました。

クイーン・ラナヴァローナ三世はマダガスカル人に絶大な人気があり、フランス人植民地総督の邪魔になったのです。これが彼女をアルジェリアに追放した原因です。マダガスカル島におけるフランスの最初の植民地総督はJoseph Simon という名前の男でした。彼はメリーナ貴族を一掃し、英国の勢力を排除し、英語の代わりにフランス語を公用語にしました。そして現在もフランス語はマダガスカル語と並んでこのマダガスカルの公用語となっています。

自由、平等、博愛を国のスローガンとして掲げ、伝統あるカトリックの国フランスもひとたび国外に出れば実にあくどいことをしてきました。英国も米国も同じです。 −続く−

2008/5/8  13:08

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マダガスカル島
クイーン・ラナヴァローナ一世の統治期間中は英仏人を中心にヨーロッパ人が冷遇されましたが、ただ一人のフランス人がクイーンによって厚待遇を受けていました。このような事例を見ますと、周囲の環境が非常に厳しく、自分にとって不利な状況でも、やり方によっては十分に生きてゆくことが可能であることを示しています。

このフランス人は非常に優秀な技術者でした。当時のマダガスカル島には彼だけではなく優秀なヨーロッパの技術者はたくさんいましたが、彼の違う点は彼が技術を惜しみなく大勢のマダガスカル人に教えていたことです。彼だけは追放されずに女王から1857年まで重宝(ちょうほう)がられました。彼の名はJean Laborde。

発展途上国では外国人技術者は外国人商人よりも尊敬されますが、上記の例でも解りますように、その技術を現地人に教えてゆくことが、現地人から尊敬される上でとても重要です。開発途上国で一旗上げたい方はこのことを肝に銘じておくことを心からおすすめします。「手に職を持って途上国に乗り込んでゆく」ということです。

1869年にクイーン・ラナヴァローナ一世が亡くなってから宣教師たちや追放されたヨーロッパ人たちは再びマダガスカル島に戻ってきました。彼らは広大なマダガスカル島と、それにひきかえ原住民の人口が少ないなどから、将来この島を占領することにより莫大な利益を得られると信じていました。すでにこの島の南の端では宝石類が産出され、フランスに届けられていました。

クイーン・ラナヴァローナ一世が亡くなった後は、ぶり返しもあって、ヨーロッパの影響は以前にもまして強くなり、メリーナ王国はついにキリスト教を国教に定めました。
この女王の跡を継いだのはキング・ラマダ二世 (King RamadaU)でした。彼は平和を愛しヨーロッパに好意的でした。しかし彼は在位二年で暗殺されました。僕の想像ですが、たぶん当時の首相によるものと思います。キング・ラマダ二世の死後、キング・ラマダ二世の後を継いだのはクイーン・ラソヘリーナ(Queen Rasoherina)でしたが、この首相はクイーン・ラソヘリーナと結婚し、実権を握っていました。クイーン・ラソヘリーナはただの飾りに過ぎませんでした。彼女は名門の出自(しゅつじ)だったのでしょうね。

当時のマダガスカル貴族たちの権力争いはすさまじく、この首相もライニライアリヴォニーという名前の兄弟によってその地位を追われました。ライニライアリヴォニーはクイーン・ラソヘリーナの三姉妹と結婚しました。一度に三人の妻を持ったのかどうか僕には定かではありませんが記録にはそのように書いています。その昔アラビア人の勢力もありましたので、イスラム教の影響もあり三人の妻を持ってもよかったかもしれませんが、これは僕のいい加減な推測です。しかしマダガスカル島でも日本と同じような権力闘争があり、メリーナ族という貴族が存在し、そしてヨーロッパの影響を受けて国が混乱したりしたのですね。−続く−

2008/5/7  22:44

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マダガスカル島

キング・ラマダ一世が亡くなった後は寡婦となった彼の妻が王位を継承しました。称号はクイーン・ラナヴァローナ一世(RanavalonaT)でした。このクイーンはなかなか性格が強くて少しばかり異常でした。彼女はマダガスカルからキリスト教を追い出し、ヨーロッパの勢力を一掃しようと努めました。僕の想像ですが、彼女は英国人やフランス人が自分の地位を脅(おびや)かす存在になると考えていたと思います。

クイーン・ラナヴァローナの治世は33年間ほど続きました。キリスト教やヨーロッパ人に対する彼女の敵意のためにマダガスカル人キリスト教徒や、ヨーロッパ人はこの期間、辛酸をなめました。たとえば、あるマダガスカル人に魔術師の嫌疑がかけられたら、その人物にご飯を腹いっぱい食べさせて、その後でタンジェナ・ナッツと呼ばれる強力な嘔吐剤を飲ませ、ついで料理したニワトリの皮を三片食べさせます。その人物が嘔吐したら無罪、嘔吐しなかったら魔術を使ったとして死刑にしました。独裁的でめちゃくちゃな処置ですね。もちろん、キリスト教宣教師団をマダガスカル島から追放し、マダガスカル人キリスト教徒たちを殺害しました。彼らは殉教者となったのです。日本にも似たようなことがあったのを思い出します。

キリスト教宣教師は世界中のあちこちで殺害されていますが、理由のひとつに、人類の王はキリストであってそのほかの人間、たとえばその土地や国の統治者ではないことを主張しますので、時の権力者の怒りによって殺害されることが多かったようですが、南太平洋のある島では、宣教師たちが身につけている学問や技術が現地人のレヴェルをはるかに超えているので、彼らを殺して食べれば、きっと宣教師たちと同じように頭がよくなるという、まことに単純な理由で殺害された事例もあります。 −続く−
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2008/5/5  23:14

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マダガスカル島
今日からしばらく、Ms. Hilary Bradtが書いた”Guide to Madagascar” を中心にして投稿します。
”Andrianampoinimerina”の跡を継いだのは彼の息子でしたが、彼もひとかどの人物でした。彼は“キング・ラマダ一世”と名乗っていました。“キング・ラマダ一世”はヨーロッパ諸国、とりわけ英国に対して親善的でした。その理由のひとつに“キング・ラマダ一世”が統治するマダガスカル島を1817年に独立国家として承認する条約に署名したからです。またモーリシャス島の英植民地総督も側面から“キング・ラマダ一世”を支援していました。

1818年に英国のウエルズ・ミッショナリーは二人の英国人を彼らの妻や子供たちと一緒にモーリシャス島からマダガスカル島のトアマシナに派遣しました。しかし彼らがトアマシナに上陸して三週間もたたないうちにDavid Jones を除いて全員が熱病のために死亡しました。このためにDavid Jonesはモーリシャス島に帰りました。

しかしDavid Jonesは1829年にトアマシナに戻りました。彼は熱心なクリスチャンなので、残りの人生をマダガスカル島のために捧げようと決心したといわれています。彼は教育者や技術者たちを連れてゆきました。

教師たちはローマ字をマダガスカル人たちに教えて、マダガスカル島で初めて組織的に書き言葉を教えて行ったのです。正確には、これよりずっと以前にアラブ人たちがアラビア語をマダガスカル人に教えていましたが、David Jonesのように組織的に言葉の専門家が教えたようではありませんでした。このようにしてマダガスカル島では英国の影響が色濃く広がってゆきました。しかしフランスとの勢力争いなどもあり、マダガスカルは最終的には英国に裏切られて、フランスがマダガスカル島を統治するようになりました。弱小国家の悲しさですね。 −続く−

※今日の投稿は時間的に大変遅れてしまい申し訳ありません。実はVAIOのDesktop型コンピュータが完全におかしくなりまして、あちこちのカスタマー・サーヴィス部門に問い合わせましたが、ラチがあかず、とうとうリカヴァリー処置をしました。数年ぶりのリカヴァリーでしたので手数がかかりました。おまけにソフトのインストールも大変多くて、全て終了するのに二日以上かかりました。このようなわけで本日の投稿がとても遅れてしまいました。済みませんでした。今、時刻は夜の11時を過ぎました。おやすみなさい。 −続く−
いつも読者の皆様に感謝しています

2008/5/4  1:13

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マダガスカル島
マダガスカル文化の特徴のひとつに、人や地名の名前がやたらと長いのがあります。強大なメリーナ王国を築いたおうさまの名前は”Andrianampoinimerinandriantsimitoviaminandriampanjaka” といいます。あまり長いので”Andrianampoinimerina” と略して呼ばれていますが、これでも長いですね。

”Andrianampoinimerina”は1794年にマダガスカル島の高地に住んでいた全ての部族を征服したり統一したりしました。彼が王国を作れた最大の理由は、英国から銃火器を多数購入したからです。マダガスカル島を統一後、彼の力はまるで神権を持っているかのように強かったのですが、一方とても賢くて稲作のための灌漑施設を作ったり、自然環境を破壊する焼き畑農業を禁止していました。 −続く−

2008/5/3  0:53

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マダガスカルの基本的なところをもう一度見てみましょう。マダガスカル人やマダガスカル語をあらわす現地語は ”Malagasy マラガシ” と呼ばれています。人々が話す基本的な言語はもちろん”Malagasy マラガシ”です。この言葉は言語学者によれば、”Malayo-Polynesian” の系統に属するということです。フランス語は主に大都市で広く使われています。またビジネス用語としても用いられています。田舎に行きますとほとんど”Malagasy マラガシ”でないと通じません。

皆さんの中でフランス語を習得された方が居られれば、マダガスカルに行っても言葉で困るようなことはありません。英語も大都会ではある程度使われており、観光業者やインド系マダガスカル人は英語を理解できるのが相当存在しています。時刻はグリニッチ時刻プラス3時間、または日本標準時に6時間をプラスしますとマダガスカル時刻になります。

宗教はカトリックが中心でありついでイスラム教、ヒンドゥー教がこれに続きます。しかし”Malagasy マラガシ”にとって最も重要な宗教は伝統的なカルト、すなわち先祖崇拝です。これがあらゆる”Malagasy マラガシ”に染み渡っています。そして識字率は50%くらいと思われます。貨幣は“マラガシ・フラン”と呼ばれています。続きはまたあすにでも。もう真夜中をとっくに過ぎました。おやすみなさい。 −続く−

2008/5/2  0:44

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マダガスカル島
マダガスカル島の男女関係のひとつを簡単に紹介します。女王のように権力を持っている女性は「公式愛人」と呼ばれる愛人を公然と所有していました。勿論、夫がいる女性です。

現在ははっきりと把握しておりませんが、その昔、身分が高い女性は夫がいても、このような愛人を持っていたといわれています。愛人を持っていることを公(おおやけ)にするわけです。夫にも、周囲の人にも自分が愛人を所有していることを隠さないのですね。だから「公式愛人」と呼ばれ、全ての人に公認された愛人です。

陰で、こそこそと行うから「不倫」と呼ばれ、倫理に反する行為だとして、日本を始め先進国ではこのような行為は認められることはないでしょう。しかし日本では「浮気」と呼ばれる事例は枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がないほどにたくさんあります。全てこっそりと行われるのが大半ですね。周囲に気づかれないように。

日本では「妾(めかけ)」或いは「二号さん」といって、男性が公然と本妻以外の女性を所有することはありました。しかし夫がいる女性が「男めかけ」や「第二の夫」を所有して、公開するなどということはありません。このようなことは日本の女性にとってはほとんど不可能でしょう。

しかしマダガスカル島では「公式愛人」というものがありました。あっけらかんとしているのでしょうか。陰でこそこそと不倫と呼ばれる行為をするよりは、ずっとフェアであるかもしれません。マダガスカル島では女性の地位は男性と同じか、高いのかもわかりませんね。

僕の経験では、熱帯地方では、どこもかしこも「カカー天下」、或いは「女性天下」ですね。南太平洋のヤップでは、娘が他家にとついでも実家の土地の所有権を持っており、彼女の男兄弟は誰も両親の土地を受け継ぐことができません。女性は妊娠、出産、育児という重大な任務を持っているために、労働しなくても生きていけるように計らっていると思えます。社会全体が女性を大事にしていますね。

僕はソロモン諸島国のガダルカナルのホテルに滞在したことがありました。ある日このホテルでポリネシア人の団体が夕方ころになってポリネシアの民族舞踊のショウを始めました。入れ替わり立ち替わり男女が踊りました。そのうち一人のとても若い女性が舞台で踊り始めました。腰蓑(こしみの)を付け、赤いブーゲンビリアの花を髪に挿して太鼓と笛に合わせて踊る、すらりとした姿はとてもすばらしく、お客さんが次々に紙幣を彼女の胸の辺りに差し込んで行きました。

一人のメラネシア系の男性も紙幣(ソロモン・ドル)を持って舞台に上がり、その紙幣を彼女の胸に差し込みました。そして彼女の乳房にわざと触りました。彼女は悲鳴を上げて踊りをやめました。その瞬間ポリネシアの男たち五、六人が一斉に舞台に上がり、その失礼なメラネシアの男を舞台から引き摺り下ろして、家内と僕が座っていた席の二メートルくらいのところで、セメントの床にたたきつけて、殴る蹴るの暴力を振るいました。メラネシアの男は完全にのびてしまいました。南洋の女性たちはこれほどに男たちから大切にされているのですね。

ヤップの場合はマダガスカル島の「公式愛人」とは少しばかり異なりますが、社会がこれを認めていたという事実はやはり女性に対する考えというものが僕たち日本人と大変違っています。 −続く−
いつも読者の皆様に感謝しています

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