2008/1/12 21:46
雪道を歩けば・・・ 随筆
雪道を歩けば・・・
台南の思い出
今夜は、この冬一番の冷え込みが来そうです。今、夜の9時20分ですが、風呂場の水が凍り始めています。4日ほど前の夜はマイナス10度をすこし越えましたが、今晩はもっと冷えそうです。マイナス5度くらいであれば、僕はそう寒いとは思いません。
ついさっき、家中の水道管から水を抜きました。こうしないと翌日は水道管内の水が凍結してしまい、ご飯も炊けなくなるし、水洗トイレの水も出なくなります。一番危険なのは火災が発生しても、水道水が使えなくなることです。
水抜きの仕事を終えましたら、急に昨日投稿しました特別攻撃隊員のことが思い出されました。僕は幼少のころ台南に母親と共に住んでいました。母親は台南の海軍航空基地に勤めていました。この関係で僕はよく航空隊員によばれて、彼らの宿舎に泊まりました。隊員たちと一緒に朝ごはんを食べるのが楽しみでした。
航空隊のご飯はトテモおいしかったのです。そして毎日、直径2センチほどもある白い飴玉(あめだま)をもらいました。練乳を固めたようなトテモ甘い飴玉でした。今振り返りますと、その飴玉は航空隊員が戦闘機で離陸して上空に向かうときになめるものだと思います。
特別攻撃隊員たちは、訓練などはせずに毎日ゆっくりと生活をしていました。宿舎には釣竿などが何本かありましたので、釣りを楽しんでいた隊員もいたのですね。別の隊員がギターを毎日弾いていたのも覚えています。
昭和19年ころになりましたら、戦局が緊迫し、何百機もの米軍のグラマン戦闘機が海軍航空基地を襲撃に来ました。夜間に来ることもありました。その時は海軍航空基地から何本もの探照灯(たんしょうとう)の光が漆黒の闇に向かって延びていました。グラマン戦闘機や爆撃機が照らされていました。日本軍が地上から撃つ高射砲の弾丸が花火のように炸裂していました。
翌日の夕方になりますと、今度は日本の戦闘機や、機体に迷彩を施した双発の大型爆撃機が何十機も離陸して行き、その爆音が僕の家まで響き渡りました。子供心にも頼もしく勇敢に見えました。僕と遊んでくれた、あの優しい航空隊員が何人も何人も、何機も何機も空に向かって飛んでいった姿は、昨日のことのように覚えています。 −続く−
台南の思い出
今夜は、この冬一番の冷え込みが来そうです。今、夜の9時20分ですが、風呂場の水が凍り始めています。4日ほど前の夜はマイナス10度をすこし越えましたが、今晩はもっと冷えそうです。マイナス5度くらいであれば、僕はそう寒いとは思いません。
ついさっき、家中の水道管から水を抜きました。こうしないと翌日は水道管内の水が凍結してしまい、ご飯も炊けなくなるし、水洗トイレの水も出なくなります。一番危険なのは火災が発生しても、水道水が使えなくなることです。
水抜きの仕事を終えましたら、急に昨日投稿しました特別攻撃隊員のことが思い出されました。僕は幼少のころ台南に母親と共に住んでいました。母親は台南の海軍航空基地に勤めていました。この関係で僕はよく航空隊員によばれて、彼らの宿舎に泊まりました。隊員たちと一緒に朝ごはんを食べるのが楽しみでした。
航空隊のご飯はトテモおいしかったのです。そして毎日、直径2センチほどもある白い飴玉(あめだま)をもらいました。練乳を固めたようなトテモ甘い飴玉でした。今振り返りますと、その飴玉は航空隊員が戦闘機で離陸して上空に向かうときになめるものだと思います。
特別攻撃隊員たちは、訓練などはせずに毎日ゆっくりと生活をしていました。宿舎には釣竿などが何本かありましたので、釣りを楽しんでいた隊員もいたのですね。別の隊員がギターを毎日弾いていたのも覚えています。
昭和19年ころになりましたら、戦局が緊迫し、何百機もの米軍のグラマン戦闘機が海軍航空基地を襲撃に来ました。夜間に来ることもありました。その時は海軍航空基地から何本もの探照灯(たんしょうとう)の光が漆黒の闇に向かって延びていました。グラマン戦闘機や爆撃機が照らされていました。日本軍が地上から撃つ高射砲の弾丸が花火のように炸裂していました。
翌日の夕方になりますと、今度は日本の戦闘機や、機体に迷彩を施した双発の大型爆撃機が何十機も離陸して行き、その爆音が僕の家まで響き渡りました。子供心にも頼もしく勇敢に見えました。僕と遊んでくれた、あの優しい航空隊員が何人も何人も、何機も何機も空に向かって飛んでいった姿は、昨日のことのように覚えています。 −続く−



