2008/7/9  9:05

恵三さんのこと。(6月17日)  分類なし

元CBC(中部日本放送)の山本恵三さんが、今朝亡くなった。
知らせは、九鬼さんから届いた。
ボクと彼とが、出会ったのは、もう二十年近く前。
檜山剛さんと言うCBCのプロデューサーから紹介された。
第一印象は、とても怖かった。
「お前、つまらんホン書いたら、俺は撮らないからな」
と、言いたげに、不信感の入った目で、ボクを見た。
でも、そのホンは、彼の気に入り、以来、歳は九つも離れてはいるが、親友のような付き合いだった。
いつも、呑んでいた。
たまたま、ボクの大昔のレコードが、CDに復刻することを聞いて、そのライナーノーツを彼に書いて欲しいとお願いした。
彼は、「何だよ、お前のレコードのライナーかよ」と、嫌そうな顔をしたけれども、あっと言う間に、書いて、ファックスで送ってくれた。
素敵な文章だった。
それでも、そのまま載せるのには、ためらった。
ボクは、照れくさかったのだ。
でも、結果、そのまま載せることにした。
その文章には、恵三さんのある種屈折した優しさが、滲み出ていた。
ボクと彼は、何本ものテレビドラマを作った。
九鬼さんと言う後輩のディレクターを紹介してくれて、
「こいつは、いいぞ!」
と、一緒に仕事をするように薦めてくれた。
恵三さんは、ほとんど食事はしないかわりに、昼間からビールばかりを呑む。
名古屋に居るときは、一緒に呑むことはほとんどなかったのだが、東京では、呑んだ。
おバンの仇名の中川冴子さんと、四谷三丁目の「米(よね)」で呑み、新宿のライオンで呑み、赤坂の「渡部」で呑み、初台で呑んだ。
呑んでばかりいた。
でも、次と言うのはなくて、恵三さんは、さっとタクシーを拾って、どこかへ消えて行く。
「じゃ、な!」
と、タクシーの後部席から、声を掛けてもらい、ボクは、タクシーを見送ってから、地下鉄で帰ったり、「無頓着」に行って、ひとりで呑んだりした。
ボクは、彼の、真似ばかりしていた。
彼のようになりたいと思い、映画を作った。
ダンガリーシャツに、伸びたセーターを着て、いつもキャップを被っていた。
髪は、長髪。
チビで痩せ。おまけに垂れ目の恵三さんは、どう見てもいい男とは言えないけれども、女にもて、男にも心酔者が沢山居た。
会社では、実に傲慢で、あちこちに顰蹙をかっていたらしいけれども、だからこそ、いいドラマが作れたのだと思う。
「お前も俺も、いつかは死んでいくんだからよぅ」
が、口癖だった。
西条八十の詞を空覚えしていたり、聖書の言葉が自然と出て来たりの、ボクとは比較にならない博識のインテリ。そして、心のある人だった。
もう、恵三さんのような人は、テレビの世界には二度と出て来ないだろう。
シャイな人でも、ドラマや映画の演出が出来ると言うことを初めて知ったのも、恵三さんが居ればこそだし、ボクは、今でも、恵三さんが居なければ、映画などは作りはしなかっただろうと思っている。
三年ほど前のことだった。
ボクは、恵三さんと会った。
場所は、四谷三丁目。
深町幸男さんの何かのお祝いの席だった。
久しぶりに恵三さんと会ったボクは、随分と悪たれをついて、おまけに、彼の嫌いなカラオケをガンガン歌った。
恋の歌で、主に、演歌だ。
唄い終わると、彼は、本当に脳震盪を起こすんじゃないかと思うぐらい、強くボクの頭を叩いた。
彼がひとの頭を叩くのは、嬉しい時だと言うことは、知っているので、ボクまで、嬉しかった。
その頃から、恵三さんは、少しだけ、シニカルになっていった。
滅多なことでは笑わないし、いつものように女と見ればなつく癖も、なくなっていた。
会社で、孤立しているようだと噂が流れた。
今思えば、それも体調が悪化してのことだったんだろう。
何年か前、
「俺はよう…、お前の映画みたいによう、ずうーっと長回しの映画が作りたいんだよ…テレビのカット割りには、もううんざりなんだよな」
そんにことを言い、
「お前、『ヨーロッパ』って映画観たか」
と訊かれた。
「いや観てません」
「馬鹿!! 観なくちゃ駄目だよ!」
それで、例に因って、またスパーンと頭を叩かれた。
「スイマセン」
その何年後か、『バッシング』がカンヌに掛かったときの、審査委員長が、E・カストリッツアだった。
彼は、彼の作るドラマとは真逆に、ニヒルで、シュールな映画が好きだった。
映画館に行くと、ビールを呑みながら、前の席に足を投げ出して、映画を観る。
どこへ行っても、自分なり。
誰かに、注意されると、「スミマセン」とぺこりと頭を下げる。
そして、ギョロっとした目で、アカンベーをする。
そうだな、恵三さんほど、アカンベーの上手い人もいなかったな。
先週、病室にお邪魔したとき、恵三さんは、ボクに言った。
「また会おうぜ!」



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