2008/5/17 10:28
61 HVAL KLA 尾羽掴み CACHALOT 捕鯨図絵集
ノルウエー人が考案した尾羽つかみもスリップウエイを有する母船による近代捕鯨の発明のひとつであった。
死んだ鯨はスリップウエイを通って引揚げられる。これにはウインチと索具が用いられる。しかしかくも大きな重量に比べればはるかに細い索具が問題を生むこともあった。強靭な索具を鯨に取り回したのちにウインチによって甲板に引揚げられる。
この鋏状の掴み道具は十分に大きくまた強靭である(その重さは数トンにおよぶ)ので鯨の尾の最も狭くなった部分を掴むことが可能で解体甲板に引揚げることができる。いったん鯨が所定の位置まで来たら簡単に取り外しも出来るので、次の鯨へと移行できる。作業者は危険なスリップウエイの中に入り作業する必要もなくなった。


死んだ鯨はスリップウエイを通って引揚げられる。これにはウインチと索具が用いられる。しかしかくも大きな重量に比べればはるかに細い索具が問題を生むこともあった。強靭な索具を鯨に取り回したのちにウインチによって甲板に引揚げられる。
この鋏状の掴み道具は十分に大きくまた強靭である(その重さは数トンにおよぶ)ので鯨の尾の最も狭くなった部分を掴むことが可能で解体甲板に引揚げることができる。いったん鯨が所定の位置まで来たら簡単に取り外しも出来るので、次の鯨へと移行できる。作業者は危険なスリップウエイの中に入り作業する必要もなくなった。
2008/5/16 0:07
UFO目撃情報を公開 岸辺にて
英国防省はこれまで秘密扱いにされていたファイルのいくつかを公開、国立公文書館のWEB SITEからダウンロードできると言う。(BBC NEWS 5月14日)公開された対象期間は1978〜1987年の十年間。
異様な光と説明のつかない物体が空からやって大衆や空軍、警察官などによって視認された。また、ある男性の場合は緑色をしたエイリアンと子供の頃から物理的かつ心理的な接触をもっていた、など。公開された8件のファイルは4年以内にはさらに公開される予定の200件のファイルの一部であるという。国立公文書館の報道担当者によれば今回の措置は“情報の自由”法によるものというが、そのほかに国防省として政府行政機関の透明性を謳う狙いもあるようだ。
78歳の男性の場合は「お前は行ってよい。年をとりすぎているので自分たちの目的にはそぐわないから」とエイリアンにいわれたのだという。これは1983年のハンプシャーでのこと。また別の事例では1982年2月21日ウエルズのパブの客とスタッフが緑の光を発しながらガトウイック空港の方向に向かうUFOを見たという。などなど、まだあるのだがここまでにし、興味のある方は英国のNATIONAL ARCHIVESのWEB サイトをご覧ください。
2008/5/15 0:39
60 鯨をスリップウエイから引き揚げる CACHALOT 捕鯨図絵集
ナガスクジラが工船引き揚げられているところでスリップウエイ(船尾斜路)の最上部まできたところの様子である。特徴的なヒダからナガスクジラと容易に理解される。
スリップウエイの発明と船上での解体は近代捕鯨における偉大な進歩といえるものである。それ以前には鯨は捕鯨船の舷側で解体されていた。たまに小さな鯨であればクレーンやウインチで甲板の上に引揚げられ解体された。海面での解体が困難な海況の場合でもそれが可能となり、多大な利便を与えた。同時に多人数での解体が可能であり鯨の各部の関節の離折によって広範に作業を繰り広げることができた。
この方式によれば鯨を(海中に)失うようなことはないし、解体作業者のリスクも減少、作業条件も緩和される。しかしながら依然刃物や、鋸や、ウインチ、ワイヤーなどといった危険性は残り、鯨自体のトンにおよぶ重量もまたそのひとつであった。多くの作業者が取り掛かることよりも技術革新が作業に導入され
その利益が拡大されていった。

スリップウエイの発明と船上での解体は近代捕鯨における偉大な進歩といえるものである。それ以前には鯨は捕鯨船の舷側で解体されていた。たまに小さな鯨であればクレーンやウインチで甲板の上に引揚げられ解体された。海面での解体が困難な海況の場合でもそれが可能となり、多大な利便を与えた。同時に多人数での解体が可能であり鯨の各部の関節の離折によって広範に作業を繰り広げることができた。
この方式によれば鯨を(海中に)失うようなことはないし、解体作業者のリスクも減少、作業条件も緩和される。しかしながら依然刃物や、鋸や、ウインチ、ワイヤーなどといった危険性は残り、鯨自体のトンにおよぶ重量もまたそのひとつであった。多くの作業者が取り掛かることよりも技術革新が作業に導入され
その利益が拡大されていった。
2008/5/14 11:12
昨年同様に 岸辺にて
胡瓜とニガウリの苗を植えた。
でも昨年との違いがある。ごく近所の東南の方角に高層ビルが建ったことで日照に変化が出ること。もっとも夏季の太陽は北にあがり日の出となるから朝日は受けられるかもしれない。しかし南中前の午前の太陽は極端に減少することだろう。土には有機肥料を与え、水は切らさぬよう心がけてはいるが、日照だけはいまのところ如何にともしがたい。いよいよとなればアルミパネルか何かで反射板を作ろうか。昨年ニガウリは収穫できたが、胡瓜はその味の記憶も無いほどに少なかった。
2008/5/13 9:29
艀 はしけ Barge 我愛船艇
♪ 空も港も夜(よ)ははれて、月に数(かず)ます船の影。
端艇(はしけ)の通いにぎやかに、寄せくる波も黄金(こがね)なり ♪
この小学唱歌は明治29年に作詞作曲とのことで、110年も前に出来ていたものと今日知った。さてこの歌詞にあるように“ハシケの通い賑やかに”とある情景は自分の記憶にも残る。場所はおおむね東京か横浜の港。鈍重な小判型の身重の真っ黒な船殻がいくつも数珠繋ぎ状態でタグボートに曳かれてゆく様が思い出される。
個々の艀の艫部には巨大な舵柄があって、これを操作するための要員が必ず一人はついていた。実情を知らない自分はのんきな商売と思っていた。曳航速度は、例えば横浜から東京港まで行くとなれば半日はかかってしまうような鈍足。舵取り以外にはすることも無い、と思ったのだ。こうした艀の活動が盛んであったのはおそらく昭和30年代か40年代の前半までで、のちは荷役岸壁の充実やコンテナ方式の導入ですたれていった。
今もわずかに船溜まりにのこる艀は出番を待っているのだろうか。海外では艀を浮かぶ住居として利用することがある。セーヌ河岸でもアムステルダムの運河でもそれらを見ることが出来るが、我が国では水面利用の法律の縛りのためか見ることが出来ない。ウオーターフロントの再開発はようやく緒についたばかりである。

端艇(はしけ)の通いにぎやかに、寄せくる波も黄金(こがね)なり ♪
この小学唱歌は明治29年に作詞作曲とのことで、110年も前に出来ていたものと今日知った。さてこの歌詞にあるように“ハシケの通い賑やかに”とある情景は自分の記憶にも残る。場所はおおむね東京か横浜の港。鈍重な小判型の身重の真っ黒な船殻がいくつも数珠繋ぎ状態でタグボートに曳かれてゆく様が思い出される。
個々の艀の艫部には巨大な舵柄があって、これを操作するための要員が必ず一人はついていた。実情を知らない自分はのんきな商売と思っていた。曳航速度は、例えば横浜から東京港まで行くとなれば半日はかかってしまうような鈍足。舵取り以外にはすることも無い、と思ったのだ。こうした艀の活動が盛んであったのはおそらく昭和30年代か40年代の前半までで、のちは荷役岸壁の充実やコンテナ方式の導入ですたれていった。
今もわずかに船溜まりにのこる艀は出番を待っているのだろうか。海外では艀を浮かぶ住居として利用することがある。セーヌ河岸でもアムステルダムの運河でもそれらを見ることが出来るが、我が国では水面利用の法律の縛りのためか見ることが出来ない。ウオーターフロントの再開発はようやく緒についたばかりである。
2008/5/12 8:47
59補 舷外での解体作業 CACHALOT 捕鯨図絵集
VILLIERES,A.J著「凍る南の海での捕鯨」1925年より。
この記事は1923・24年漁期に母船Sir James Clark Rossによって行なわれた南極海操業の様子を記録したものである。
「それにしてもこれはとんでもない仕事である、とてつもなく寒く、不快であり、苦しい仕事である。鉄の意志と超人的な忍耐が求められる。この解体の仕事は長い経験を有する捕鯨従事者のみが行いうるものである。海面の鯨は傾いたり回転したりするので未経験者にはその上に立っていることでさえ難しく、解剖包丁を迅速に操ることは至難の業である。さらにパックアイスや棚氷の破片が鯨とボートの周りには浮遊する情況である。氷のような海水が氷とともに外套にかかり、体にまとわりつく。凍りつく風が重装備の衣服を通して解体作業に当たる者を骨の芯まで冷たくする。
彼らは素手での作業である。油で滑る解剖包丁を手にした彼らはしっかりと握るためには手袋をすることが出来ない。間違った操作をすれば、ちょっとした一振りで彼ら自身または同僚を傷つけることになってしまうのである。
しばしば彼らが作業を休止することがある。それは包丁を鯨の体内の暖かい部分に突きこんだ時で、暖かい鯨の血液が彼ら作業者の手を生き返らすのである。彼らはノルウエー人がやるようなしぐさで両腕を交差したり開いたりを繰り返すのだ。
油ですべる解剖包丁の柄にはオガ屑を用いることが有効である。血液循環のためのさまざまな彼らの知恵にもかかわらず、彼らの手指は白く凍傷になる。作業着もその顔も凍結してしまうので、作業が終わると自ら解凍しなければならない。

この記事は1923・24年漁期に母船Sir James Clark Rossによって行なわれた南極海操業の様子を記録したものである。
「それにしてもこれはとんでもない仕事である、とてつもなく寒く、不快であり、苦しい仕事である。鉄の意志と超人的な忍耐が求められる。この解体の仕事は長い経験を有する捕鯨従事者のみが行いうるものである。海面の鯨は傾いたり回転したりするので未経験者にはその上に立っていることでさえ難しく、解剖包丁を迅速に操ることは至難の業である。さらにパックアイスや棚氷の破片が鯨とボートの周りには浮遊する情況である。氷のような海水が氷とともに外套にかかり、体にまとわりつく。凍りつく風が重装備の衣服を通して解体作業に当たる者を骨の芯まで冷たくする。
彼らは素手での作業である。油で滑る解剖包丁を手にした彼らはしっかりと握るためには手袋をすることが出来ない。間違った操作をすれば、ちょっとした一振りで彼ら自身または同僚を傷つけることになってしまうのである。
しばしば彼らが作業を休止することがある。それは包丁を鯨の体内の暖かい部分に突きこんだ時で、暖かい鯨の血液が彼ら作業者の手を生き返らすのである。彼らはノルウエー人がやるようなしぐさで両腕を交差したり開いたりを繰り返すのだ。
油ですべる解剖包丁の柄にはオガ屑を用いることが有効である。血液循環のためのさまざまな彼らの知恵にもかかわらず、彼らの手指は白く凍傷になる。作業着もその顔も凍結してしまうので、作業が終わると自ら解凍しなければならない。
2008/5/11 8:49
59 シロナガスクジラの舷外での解体 CACHALOT 捕鯨図絵集
舷外での鯨の解体はひとつの方法ではあるが、小形の場合にはスリップウエイが考案される以前でも、甲板に引き揚げられた。もちろん工船の上に引き揚げての解体のほうがより効率的である。この舷外処理は非効率的かつ危険なだけではなく、ひじょうに不快なものであった。
解体作業者たちが波にさらわれたり、ロープにはじかれたりすることがある。ときにはそうした危険から逃れるために作業者があえて海中に飛び込み難を避けることもある。南極の海の水温は一年中を通じて氷結点よりも2度ほど変化するだけであるから、救助が迅速でなければ危うく命を失うのである。
2008/5/10 17:46
第一芝浦丸 我愛船艇
海岸通りを南下していると、陸置された曳き船があった。場所は海岸通の東京港建設事務所の前。大時代的な煙突,黒くペイントされた鋲接の船殻であり、これぞ曳き船という形状である。
東京港の整備が本格的となった大正15(1926)年に完成した「第一芝浦丸」は蒸気船である。当時の船舶技術の粋を集めた高性能船であったという。浚渫船やその土砂を運ぶ艀曳き船としておよそ半世紀働き昭和49(1974)年に引退したものという。
つまり自分の学生時代にはまだ就役していたわけで、この船のかたちや途装色の使い分けにはノスタルジーを感じる。そう思うと、運河から東京港に出るあたりに係船してあったような記憶が浮かんでくる。また学校でA級デインギーや端艇を曳いて館山などに行った7号艇と呼ばれた曳船もまた大正の建造で、木造、塗装は灰色、機関は焼玉だった。
2008/5/9 10:08
58 樽の準備 CACHALOT 捕鯨図絵集
捕鯨漁場への長旅はゆったりとした船旅とはまったく異なるものである。乗組員は常に忙しい状態に置かれ、しなければいけない仕事が山ほどある。ここでは1930年代の工船の上で熟練の男が樽を作っている。現在では、生産された鯨油は船の油槽にためられるが帆船を使用した初期の時代にはもっと手間のかかる方法であるが、樽につめた油を船内に貯蔵した。抹香鯨の油の中でも上質のものは最高の工業用潤滑油とされた。

2008/5/8 8:59
芝浦の運河 岸辺にて
JR駅の東口を出てそのまま東進し、岸壁に向かって歩く。街は大きく変貌していた。船を見に足繁く出かけた高校生の頃の雰囲気とは違う。無理もない半世紀が過ぎたのだ。
当時、京浜工業地帯の北端の一翼を担ったのがこの界隈。経済繁栄のためにがむしゃらに人々が働いていた昭和30年代。灰色の工場や倉庫がならび、およそ美しさとはかけ離れた場所、機械油の臭い。わたる運河の汚さ、メタンガスの泡が絶え間なく浮かびあがり、ヘドロの腐臭がしたものだ。
心掛けたので水質改善が進み、いまやその両岸は整備され、プロムナードのデッキやテラスが作られ、緑の植え込みまである。綺麗にはなった。港湾作業の男たちが仕事終わりに一杯ヒッカケル大衆食堂やモツヤキ屋は消えてしまった。いつかは自分も入りたかったそうした店も跡形も無い。殆どが高層ビルとなり、人は地表から離れて仕事をし、居住する。きれいにはなったがよそよそしい。熱気や湿度が消え乾燥し心が砂漠化しているのだろう。
そんな運河のモノレールの橋桁の下に、野鳥の休憩場所が浮かんでいた。船舶の侵入禁止のためか赤い風船ブイが打ってあり、その先の小さな錨までが確認できた。まさに「河清五十年」である。

当時、京浜工業地帯の北端の一翼を担ったのがこの界隈。経済繁栄のためにがむしゃらに人々が働いていた昭和30年代。灰色の工場や倉庫がならび、およそ美しさとはかけ離れた場所、機械油の臭い。わたる運河の汚さ、メタンガスの泡が絶え間なく浮かびあがり、ヘドロの腐臭がしたものだ。
心掛けたので水質改善が進み、いまやその両岸は整備され、プロムナードのデッキやテラスが作られ、緑の植え込みまである。綺麗にはなった。港湾作業の男たちが仕事終わりに一杯ヒッカケル大衆食堂やモツヤキ屋は消えてしまった。いつかは自分も入りたかったそうした店も跡形も無い。殆どが高層ビルとなり、人は地表から離れて仕事をし、居住する。きれいにはなったがよそよそしい。熱気や湿度が消え乾燥し心が砂漠化しているのだろう。
そんな運河のモノレールの橋桁の下に、野鳥の休憩場所が浮かんでいた。船舶の侵入禁止のためか赤い風船ブイが打ってあり、その先の小さな錨までが確認できた。まさに「河清五十年」である。
