2008/8/5 22:19
サウジの伝統料理 「カプサ」調理編 グルメ・クッキング
最高級ナジディ羊を丸一頭生きたまま市場で買って、カプサ専門料理屋に連れて行ったときの、羊の目は思い出したくない。自分の運命は知っているのだ。
私のために、すまぬのう―と、思う。
友人は羊の首紐を引いて、店の裏に連れて行った。店員が出てきて、羊はストンと倒れた。瞬間的に持っていたナイフで、首を切られた。
アラビアでは生きている羊やニワトリを屠殺する場合、必ず「アラーの神のもとに」と、一言祈る。祈らないと屠殺してはならない。
斃れた羊からは、溝にどんどん血液が流れていく。私は仏教徒だから、思わず「南無阿弥陀仏」と拝んでしまった。
イスラム教徒は血を食べない。血は捨る。血をゼロにして肉料理ができるわけではないが、要は血液の見える料理は無いということだ。
すぐに羊は、天井からの鎖で逆さに吊り上げられ、更に血が抜かれて、店員がさっさと皮を剥ぎ始めた。その手際の良いこと、早いこと。羊さんはすぐに丸剥けになった。水を掛けて洗って、腹を切り裂き、内臓をドドンと落とす。
これだけの作業がほんの数分だった。さらに水洗い。そして、もう煮込みの用意となった。
直径一b、深さ八〇abほどの巨大な鍋が、巨大なガスコンロの上に置かれていて、水がたっぷりと入れてあった。そこに吊るした羊の肉を移動させて、鍋に入れる。頭も、胃も、肝臓も一緒に放り込まれた。
塩、ドライレモン、カルダモン、その他(ここから後は、ヨメサンに尋ねる以外に方法はない。忘れてしまった)。どんどん、煮込み始めた。
ここまでは、ずっと付き合ったが、それ以降は、数時間手持ちぶたさになる。
私は一端、家に戻った。まだ朝の一〇時になっていなかった。少なくとも四時間は煮る。
午後二時、私は一人でその店に戻った。
「全工程を見たいから、私の戻ってくるのを待って欲しい」と頼んでいたから、煮込みは終わっていたが、火は弱くしてあった。クレーンを使って、羊肉を吊り上げて、横の巨大な皿に置きなおした。
その煮汁を使って、煮込みご飯を炊く。これが強烈だった。お米を五〇`cの袋から、スコップで一五`cほど取り出して、巨大な皿に小山を作り、三人掛かりで運んで、鍋の横に置き、セメントを投げ入れるようにして、鍋に米を入れ始めた。
もちろんご飯は研いだりしない。時々小石が入っているのもご愛嬌。ご飯には、サフランで色付けしたり、塩や乾しブドウを大量に入れて炊く。
私は鍋の見えるところで、本を読んでいた。すぐにご飯はグツグツと煮え始めた。数時間、煮込みが続いて、次第に炊けてきていることが分かった。
いつの間にか、四時を回っていた。友人が戻ってきて、火は落とされた。
煮込みが終わったとき、鍋の横に大きな直径一・五bほどの金属製の皿が置かれた。大きな工事用スコップを持った店員が、炊きあがっているご飯を皿の上に移しだした。
ご飯の山ができ、スコップで三笠の山型に整えている。その頂上を平たくして、横に置いていた羊の肉をドカンと置いて、それで完成だ。
これはもう大人三人で持たないと、とても運べる重さではない。トヨタのピックアップの荷台に載せて、アルミ箔で土埃が掛からないようにした。
後は、砂漠へ出かけて、食事をすることになる。
つづく
2008/7/29 23:18
揚げもの万歳-丸めて、揚げての国際協力 グルメ・クッキング
サラリーマンの悲しき宿命は、右肩上がりの計画である。私も入社したときから、中期長期に成長する計画を提案する癖が付いた。コロッケの料理も同じだった。ひたすら増加を試みた。
私はコロッケ大好き人間。子供の頃は、熱々の揚げたてコロッケで口の中を火傷しながら、かじりながら歩いていた。日本人にとってコロッケは、英国人のフィッシュアンチップスのようなものか。
ヨメサンとの結婚前のデートでも、コロッケをかじり、コストマインドを考えていた。
サウジアラビアで生活していたときにも、コロッケはよく作った。私は扁平のコロッケが好きで、円筒型は好まない。扁平型の方が油が少なくてすむ。作って冷凍しておき、自然解凍やレンジで温め、自分でフライして、食べていた。最初は一〇個程度作っていた。
「そうだ。冷凍しておくのなら、もっと作ろう」と、三〇個作って、家族で食べても二〇個は残った。
「もっと、たくさん作ろう」と、五〇個を目指して、どんどこ作った。サウジアラビアに駐在していたときの台所は、今のリビングより広かった。真ん中のテーブルで、まだ当然(お互い様だが)若かったヨメサンと、今よりも三三・三倍にこやかに、コロッケを作っていたっけ。
「ようし、こうなったら、コロッケパーティをしよう」と決めた。
日本人三家族、フランス人夫婦、英国人一家族(全部で大人が一〇名と子供たち多数)が、我が家に集合することになった。食べるものはコロッケだけ。サウジアラビアだからビールはない。
スーパーで、ミンチ肉五`、ジャガイモを三〇`か四〇`、玉ねぎ四`、バターを五斤、メリケン粉、卵たくさん、パン粉は硬いパンをミキサーに入れ、ぼんぼん作った。フライ油を大きなボトル何本も。準備した大なべは各家族持参で、ガスコンロ全開である。
洗ったジャガイモを皮のままどんどん茹でる。茹ったジャガイモを、五人が軍手で揉んで皮を剥く。剥いたジャガイモは、大型のクールボックスに入れて、上からすりこぎでつぶしながら、バターと塩と具を入れて混ぜる。この間で手に火傷した者が続出。それでも途中でもっとジャガイモを買いに行った。
「さあ、これからみんなで丸めよう」と、コロッケをどんどん丸め始めた。日英仏の素晴らしい協調で、国際平和もこのようにありたい。ピンポン玉から、マンゴーのようなものまで、国際基準がはっきりしないので、私が
「これだめ。これ小さすぎる。大きすぎる」と厳しく検査。一〇名が大きなテーブルの周りに並んで、丸める係三名、メリケン粉二名、卵(私)、パン粉二名。そして揚げ物係が日本人奥さん(ヨメサンを含む)が二人。
二時間半の格闘の末、とうとう出来上がった。大皿にピラミッド三つ。数えたら全部で七五〇個もあった。サウジアラビアでのコロッケの記録が達成された。
子供たちは大はしゃぎ。トンカツソースだけでも丸々大瓶一本消えた。英国人の家族は、静かに美味を楽しんでいた。一番喜んだのは、フランス人夫婦。
「美味しい。日本料理は実に美味い」
「ちょっと待ってよ。コロッケはもともとフランスから来たんじゃないのか」
とにかくみんなでたらふく食べて、どの家族も、お土産に揚げていないコロッケを何十個も持ち帰って行った。
後で聞いたら、フランス人夫婦は冷凍にしたコロッケを、休暇のときにフランスに持ち帰ったという。コロッケの里帰りだった。
2008/7/21 21:33
モロッコのバス旅行 旅行
友人フィリップの邸宅に三日間滞在した後、マラケッシュ早朝五時出発のバスに乗ることにした。切符は前の日に買っておいた。夕方に北端のタンジールの港町に着く。
友人の車でバスのターミナルに四時半に到着した。まだ外は真っ暗だったが、ターミナルの中に電灯がついていなかった。真っ暗なターミナルで難民のように待っている気分は最悪だった。寒かった。
バスが来たのは五時四五分。そこですでに四五分遅れ。まだ外は暗い。乗り込んで、本を読もうとしたが、天井の読書ライトは全部壊れていた。バスが動き始めた。マラケッシュの市内を出て、一路、カサブランカに向かい始めた。私は外の明かりを見ていたが、半時間ほどウツラとして、目が覚めるとはるか山の稜線が明るくなりかけていて、朝が近づいていた。
切符を買うときに、バスにトイレが付いているかと尋ねたら、「もちろん」という顔をしていたのに、トイレがない。小便に行きたくなったが、どうしようもなく、我慢することにした。
ほんのりと明るくなったので、私は運転手右側の最前列に移動した。運転手を見張るためである。
運転手は少し頭の禿げ上がったモロッコ人である。道路は高速道路ではなかったが、きちんと二車線に別れていて、舗装は完璧だった。右側にはなだらかな丘陵が続いている。
かなり明るくなってきた。すでに二時間ほど走っていた。私は前方をカメラで撮影しながら、運転手を見張っていた。
長距離の運転は、最初の一時間ほどは安全だが、二時間目になると、まず人間は誰でも眠くなるもの、と(自分の実績から)信じている。つまり、運転手を「絶対に眠たくならない超人」とは、信じたことがない。長距離のバスでは、運転手を見張ることにしている。これで今まで長生きできたのだ。長距離をバスで走るときは、まず最初に三〇分ほど自分で寝る。その後は運転手を見張るのだ。
まず眠くなると、誰もだいたい頭を掻く。この運転手も、残り少ない頭の毛に触れだした。(おい、おい、おい)と思い、注意して彼の右目の横から見ていると、やはりゆっくりとまぶたを開けたり閉じたりしている。私が試しに一つ、「ごほん」とやると、目が開く。
(これはもう正真正銘の居眠り運転だ)
私はカバンを開けて、底に入れていた「明治のブラックチョコレート」を取り出した。急げ。
「これ一つどう」と差し出した。
その時、運転手がチラッと私の顔を見て、ニコッとした。
(ああ、良かった。三〇名の命を守ったチョコレートになった)
それから一時間ほどの間に三粒、チョコレートを運転手に渡して自分で二粒食べたら、私の隣の乗客が、
「私にも一粒くれないか」と手を伸ばしてきたので、断った。
(これは秘蔵の交通事故防止のためのチョコレートだ。まだ先が長いんだ)とアラビア語で言えないのが、残念だった。運転手の眠気は一応ふき飛んだようだ。
バスはドライブインに止まり、私はトイレに走った。出てくると、運転手がお茶とケーキの朝食をとっていて、私の顔を見てニコッと笑って挨拶した。眠気を覚ましてもらった御礼なのだろう。
バスはまた走り出して、高速道路に乗っかり、カサブランカに到着した。ここで運転手が交代した。
2008/7/10 23:33
朝食の音楽会 音楽
ヨメサンと横浜からハワイまでのQE2(クィーンエリザベス2世号)の船旅に出かけた。ヨメサンは、最初の日から、あちこち行事で走り回り、私はCD音楽を聴きながら、エッセイを書く。
最初の夜はリラックスと酒で、ぐっすりと眠り、早く目覚めた。ヨメサンは、
「船に乗っている間くらい、ゆっくりと…」で起きてこない。最後部のラウンジには、コーヒーと軽食が用意してあるはず。部屋を出たが、長い廊下にも人影はなかった。
QE2の広い最後部には、数人のお客が軽食を摂っていた。私もコーヒーを片手に、サンドイッチを取り、テーブルでノートを広げ、日記を書き始めた。
気がつくと、楽器の音が端から聞こえた。音の調整だ。見ると、アメリカ人がバイオリン、ビオラ、チェロの三重奏の準備をしている。
譜面を一つ立て演奏が始まった。知らない曲だ。私はコーヒーを持って、近くのテーブルに移った。早朝の人気の少ない豪華客船のラウンジ、あまり美味しくないコーヒー、サンドイッチのハムは上等。外の白い波頭。そして音楽。こんな旅情が船旅だ。その演奏が実に素晴らしかった。終わるたびに拍手し、トリオも私に微笑みを返していた。演奏を終了し、立ち去る前に、一人の演奏者が「私たちの演奏がお好きなら、今日は…」と、演奏の場所と予定を教えてくれた。
午前中には中央階段の踊り場、午後のお茶の時間はバーの横。夕食はレストランでの演奏と一日に四回ほど船内で演奏している。私はノートと本を持って、階段に座って、聴いていた。ポピュラーなクラシックの名曲を演奏している。CDとは迫力が違う。
(こりゃ、最高だ)。聴いていたのは、私だけだった。通り過ぎる乗客たちは立ち止まっても、すぐにどこかに行ってしまう。ヨメサンは船内を走り回っていた。私は「こんな贅沢はない」と腰を据えた。
午後のお茶の時間も、夜のレストランでも、私は演奏を聴いた。二日目の早朝軽食にも、三重奏の練習を聴いた。昼前の階段の踊り場では、私の専用の椅子が置いてあった。
彼らは、最近引退したニューヨークフィルの演奏者だった。どうりで上手なはずだ。一日に何回か船内で演奏して、世界一周をしている。毎日、トリオで練習をする。本来なら、高い切符を買って聴くプロだ。
船旅の宝物だ。私はできる限り演奏を聴いた。どこでも私の席が用意してあった。船の乗客たちは、音楽は付属品と思うのか、じっくりと聴こうとしない。もったいない。
三日目、フォーマルの夕食のとき、何曲かの演奏の後、たくさん並んでいるテーブルの間を通り、バイオリン奏者がひとり、私の席に来て、
「奥様に何か曲をプレゼントされますか」と屈んで尋ねてくれた。豪華な配慮だ。「じゃ、ラプソディ・イン・ブルーを」なんて、ワインで酔って、注文する。同じテーブルのアメリカ人たちが、
「すごい。あなたの知り合いか、あなたは有名人か」というから、
「はあ、まあ、まあ」と答えておいた。私たち夫婦のリクエストだと、告げての演奏が始まった。
ハワイに到着する日の早朝、ブリッジのゲーム室で、三人が私たち夫婦のための送別演奏会を開いてくれた。
「私たちの最高のお客様のために、どんな曲でも演奏します。どうぞ」
「ベートーベンと、チャイコフスキーのX協奏曲を」
最高の思い出となった。
2008/7/4 23:21
ナイルのうなぎ 分類なし
家族でエジプトを旅行した。
エジプト国内を回り、最後にカイロに戻ってきて、「じゃ、日本食でも食べるか」と、ホテルの近くの「日本レストラン」となっている店に入った。
我が家は我々夫婦と息子たち三人の総勢五人。テーブルに着いて、注文を始めた。ここまで書いて、愕然としたのだが、長男がうな丼を注文したこと以外、私たち夫婦や他の子供たちが何を注文したのか、まったく覚えていないのだ。
全員が異なったものを頼んだのだろう。ただし、一番下の三男は、まだ赤ちゃんだったに違いない。だから彼はミルクだ。
全注文がテーブルに揃った。
「いただきまーす」と、みんなが一斉に食べ始めた。その時だった。
「ぎゃー」と叫んだのが長男だった。
「ど、どうした」
「これ、食べられないよ」と長男が顔をくしゃくしゃにしている。
「どうした、うなぎだよ。お前は何でも食べるじゃないか」と私。
我が家のモットーは、何でも食べること。そんな長男がうな丼の箸を置いた。
「もったいないなあ、じゃ、私のと交換するか」と、私の注文を長男に渡して、そのうな丼をもらった。すごく太い量感たっぷりのうなぎだった。箸でつかんで、一噛みしてみた。
「ああっ」うなぎの身の中は小骨だらけだったのだ。
それを噛んでしまったら、もうこれは鉄条網を丸めて喉に通すようなもので、とても食べられない。「な、なんだこりゃ」と、私も無数の小骨付き団子状態のうなぎを皿にもどした。
エジプト人の店員を呼んで尋ねたら、ナイル川のうなぎだという。
「ナイルであれ、アマゾンであれ、うなぎは小骨を取るか、小骨を避けて身を開いて焼くのだろう。これはとても食べられないよ」と突っ返した。その交換品を食べたかどうかも覚えていない。
ただ、それ以降、長男はうなぎ(だけ)が見事に大嫌いになってしまった。
(まあ、贅沢なものだから、費用が浮く)なんてほくそ笑んでいたら、その後、日本に帰国した後も、「僕はうなぎだけ嫌いなんだ」と、どこでも広言するようになった。家でも絶対に食べなかった。両親のしつけが問題となる。すでに中学一年生だった。
「これはちょっとマズイ。何とかしないと…」
ある日、群馬県の前橋に出張した。同僚と、「美味しい、うなぎ屋があるので行こうか」と昼食に、前橋の「静」という店に入った。古い、木造の家の二階は冷房もなく、暑いところに下からうなぎの焼く香りがして、食べるまでに無料の香りでお腹が大合唱。
出てきた蒲焼の絶妙なこと!「旨い。実に旨い」と感慨にふけると、ナイルのうなぎが発端となった、長男のうなぎ嫌いを思い出した。
「こ、これだ」と、私は店員にうなぎを何人前か頼んで、包んでもらい、家で夕食に食べる際の正しい温め方も教えてもらった。包みをぶら下げて、家に帰って、長男にそろりと話しかけた。
「どうだ。ほっぺが落ちるほど美味しいうなぎを見つけた。食べるか」
予想に反して、「うん」という。
お皿に横たわった「静」のうなぎの身をほんの少し切って、長男はそろりと口に持っていった。家族全員が注視。
「おいしーい」と長男が言ったので、家族全員でぱちぱちぱち。それ以来、貴重な長男の好き嫌いが無くなった。
2008/6/27 21:18
揚げもの万歳 熱いカツの厚さ グルメ・クッキング
結婚する直前、最大の矛盾は、生活資金が乏しいのに、今より腹が減っていたことだ。公団の分譲に住み、自炊をして節約していたが、好物のトンカツは揚げたかった。肉屋で豚の切り身を買う時は、薄身になり、肉の面積を重視した。しゃぶしゃぶほど薄くはないが、小麦粉、卵、パン粉をつけても、「このへなへながトンカツか」と多少悲しくなった。
そこで奮発して、すでにパン粉までつけ、一応トンカツ仕様となっているものを、もう一度かき混ぜ卵に浸した。パン粉までが卵を含み、ドカンと重くなり、それにパン粉をつけたので、厚さは一挙に三倍になった。
「これを揚げて、トンカツソースを掛ければ、立派にどんぶり鉢三杯のご飯のおかずになる。しめしめ」と揚げたら、一部に技術的トラブルが発生して、衣にひび割れができ、油の中で、抜き身の小刀のように肉が抜けた。
自分の料理には鷹揚な私だから、パン粉中豚肉ハサミのようなトンカツも美味しかった。現在の厳しい料理師匠のヨメサンと結婚する前のことだ。もし、この料理をヨメサンに出していたら、婚約は解消となっただろう。
その後、トンカツ厚さこだわり症候群のまま、サウジアラビアに駐在すると、豚肉はおろか豚の革靴すらない。トンカツを食べる夢をみて、子豚に犬の着ぐるみを着せて、子犬だと持ち込もうかと思ったほどだが、トンカツで強制退去させられるのは、阿呆だから、実行しなかった。帰国後、ヨメサンにたびたびトンカツ料理をしてもらううちに、ベトナムへ赴任となった。
ベトナムでは、お手伝いさんを特別訓練して、「トンカツ食べたい」と言えば、夕食に出るようにした。ベトナムでは、普通の家で巨大な豚を土間に飼っていた。番トンである。豚肉は牛肉よりも高かった。
最後に赴任したネパールでは、白豚、黒豚では値段が違った。親しくなった日本風レストランで、トンカツを食べて、喜んでいた。激安だった。オーナーに、豚肉を見せてほしいと頼んだら、豚肉の大きな塊を見せてくれた。
「ようし、今日はダブルトンカツを頼む」
「ダブルトンカツって?」
「厚さを二倍にしてくれれば良い」
「了解しました」
こうして、出来上がったダブルトンカツは、値段も二倍だが、旨かった。
私の変質狂的注文は、トリプルトンカツまでいった。値段も三倍だ。しかし、トリプルトンカツでは、中心の肉の部分がまだ美しいピンクのままなので、これはやばいと思った。再度、料理させたら、フライパンの上で焼いて、パン粉がガチガチになっていた。もちろんソースを掛けたものを揚げるのは無理があった。
ヨメサンが私の了解を得ずに、日本に一時帰国してしまい、腹が立つので、分厚いトンカツをお手伝いさんに作ってもらおうと、三aトンカツに挑戦した。
事務所からの帰途に、三aの肉を一切れ買って、自宅に持ち込み、呆れるお手伝いさんに、「このまま小麦粉、卵、そしてパン粉」と指示して、揚げさせた。
巨大な超厚切りトンカツができた。ヨメサンがいたら、三枚におろされるところだ。これをこのまま食べるほど私はド素人ではない。中はかなり赤いまま。大皿に入れて電子レンジに掛けた。これで数分。発火寸前の強烈、ド迫力サンダルトンカツができた。
味は?
覚えていないが、食べきれなくて、愛犬リナに一部を譲った。
2008/6/19 0:57
ネパールのホテルの和食 グルメ・クッキング
レストラン長、女性の給仕長、ボーイたちが、じっと私を見ている。私はおもむろに部屋から持ってきた鞄を開けて、その中から、デジカメを取り出した。そして、全員注視の中で、テーブルの上の和風朝食を撮影した。
終わって、私は手をあげた。給仕長がはじかれたように飛んできた。
「何でしょうか」
「お箸を探してくれ。それから、シェフを呼んで来てくれないか」
「分かりました」。走って、連絡をしに行った。
中華のお箸と、シェフが二人届けられた。
「さあ、やるか」
商社の駐在員だと言っても、サウジアラビアの料理を、NHKのテレビ番組「男の料理」で独演で披露した実績がある。私はEホテルの自称和風朝食セットを改善提案するために、腕組みをしながら立ち上がった。
まず隣の席の、パン皿を二枚取り、それに玉子巻きを二個、斜め並行に置き、バラのトマトとキャベツを端に添えた。もう一枚の皿に、ロールシャッハの鮭を半分にして置いた。
「小さめのスープ皿と配膳用のお盆はある? それからマッシュルーム一個を洗って、スライスしてきてくれ」
「はい、ちょっと待ってください」
小ぶりのスープ皿に雑炊を移した。雑炊には全く味がないので、テーブルの塩の容器を振ったが、湿気って塩が出ない。容器を開け、塩を出して雑炊に入れ、それに刻みねぎを落とした。味噌汁を並べ、日本茶とともに、和食セットのお盆を作った。
「こんな大きなティーポットなら、日本茶のティーバッグはたくさん必要。鮭は半身。玉子も二個焼いたなら、二人に出せる」
「はい」。マッシュルーム帽子のシェフがうなずいた。それを見て、
「味噌汁には、このように、マッシュルームの薄切りを数個落とせばよいのだ」
薄切りのマッシュルームを、数枚落としたら、見事に、当然ながら、味噌汁にフワーと浮いた。
「さて、あなた」と、女性の給仕長に、「この大きなティーポットの日本茶を、ほれ、あそこの日本人の夫婦に持っていってみたら」と、手渡した。
「はい」と、給仕長は、両手でその五人分のお茶のポットを、明らかにトレッキングに行く姿の中年女性のところに持っていった。
「ジャパニーズ・ティー。マダム」というのが聞こえた。
その時の、中年女性の反応は、すばやかった。「わあ、日本茶、いただきます」。
硬めのクロワッサンを食べようとするご主人に、「日本茶だって、ほら、あなたもどう」と、叫んでいる。お茶を注ぎつつ、給仕長は笑顔である。
こうして、私の特別和風朝食セミナーの第一回は終わった。
このEホテルの営業課長の素晴らしさは、その次の日に私に電話をしてきたことだ。
「ミスター樋口、昨日はどうもありがとうございました。私は昨日の朝は、参加できなかったのですが、シェフから聞きました。私も参加しますから、もう一度、日本の朝食を試みたいと思っていますが…」
「いいよ」
「じゃ、来週のどこかで」
「君も熱心だ。ようし、今度は、私の秘蔵のお茶漬けの素を持って行き、小型の炊飯器で日本のご飯を炊くからね。日本の朝食をお見せしましょう」
2008/6/12 9:35
ヒマラヤのニジマス スポーツ
自分でも阿呆だなと思うことがある。
無数の川が流れているヒマラヤの山中に四年半も生活していたのだから、その間に、ヒマラヤの川で魚を釣りたかったのに…。
釣りは結構好きだから、釣りの道具はカトマンズに持ってきていた。行こうと思えばいつでも行けた。それが良くなかった。はっと気がついたら帰国になっていた。そんなものだ。
わざわざ欧米からヒマラヤの山中に、魚釣りに来る人もいるというのに…。
駐在していて最初の年に、一度だけ、カトマンズから車で四時間掛けて、トリスリ川の上流へ釣りにでかけたことがある。ヒマラヤの流れは、乾期と雨期ではまったく違った様相をしている。雨期の川は、水位は何メートルも高く、濁って、ゴウゴウと流れて、台風のあとのようだ。乾期では、こんな流れで、ガンジスの源流としてインドまで届くのかなと心配になるような流れだ。
トリスリの町では、魚を燻製にして売っている。だから絶対に魚はいるんだと確信はもっていたが、自信はなかった。近くの大きな岩の上から、釣り糸を垂れてみた。エサは貴重な冷凍の剥きエビだった。
釣り始めて二時間。竿も糸もピクリともしない。浮きを付けても動かない。ヒマラヤの乾期の紫外線の強さは強烈で、その下で、魚を釣っている私が干物になりそうに強い日差しだった。あきらめて帰らざるを得なかったが、美しい景色だけは堪能できた。釣りたかった魚は「アシャラ」という。ネパールでもっとも美味な魚だと言われている。鮎に似たスタイルの魚だが、もっと大型だ。小骨が多いらしい。
一緒に出かけた部下から、日本人のネパールに対する協力の話を聞いた。
トリスリの町はカトマンズから四時間ほどだが、発電所があって、その地方の交通の要衝で、農業の中心地だが、そこに日本政府が水産と農業試験場を設立していた。
数十年前に日本人の誰かが、このトリスリで、アシャラを養殖しようと取り組んだ。何年も取り組んだが、アシャラの成長が遅く、エサ代がばかにならず、結局ポシャッてしまった。そこで、同じ設備を使おうと、日本からニジマスの稚魚を入れて、養殖を始めた。それを日本政府は支援したのだ。これは適していた。
ニジマスは、一定の水温以下にならないと、産卵しないことや、エサとして、インドからエビの殻や魚の練り物などを輸入して、日本人専門家が長期滞在し、苦労を重ねて、ニジマスの養殖が安定した。エビの殻を入れないと、ニジマスの身が美しいピンク色にならないという。
トリスリでの養殖では、ネパール人の養殖の専門家育成も成功して、カトマンズの近くのゴダワリに、更に二番目のニジマス養殖場が作られた。反政府軍の動きが不穏で、私の滞在の後半では、カトマンズに集結されたという。
そういえば、カトマンズの主要なホテルでは、ニジマスのバター焼きがメインディッシュの一つになっている。
ネパール人のほとんどが魚釣りをしたことが無いだろう。魚を釣ることは、家族が認めないのだ。インドやネパールにはカーストがあって、魚を釣る人のカーストでなければ、釣ってはいけないという社会的ルールがある。
私の部下は、私と一緒に魚釣りに行くと言ったら奥さんが大反対したという。家族として認められないと言ったらしい。彼は「釣りはスポーツなんだ。一度だけやってみたかった」と反対を押し切ったという。これも時代の変化だろうか。
2008/6/5 23:37
海老は怖いぞ グルメ・クッキング
カトマンズからバンコクへのタイ航空の機内で、出稼ぎに行くネパール人の若者が隣に三人座っていた。
英語を話す一人と、私は色々なことを話していた。カトマンズからマレーシアの木工所へ三年間働きに行くとのことだった。
三人は飛行機に乗るのが初めてで、見るもの、触るものがすべて珍しかったようだ。シートベルトの締め方が分からない。座席のテーブルの出し方が分からない。飛ぶときの緊張感のある顔を見て、私も初めて飛行機に乗った時はあんな顔をしていたのだろうなあと思った。じっと耐えている。怖いのだろう。
離陸後、シートベルトサインが消える前に、トイレに立って、スチュワーデスに注意されたり、座席を急に後ろに倒すなど、見ていて退屈しなかった。
飲み物が出た後、機内食が配られた。
「チキンかシーフード、どちらにしますか」とスチュワーデスが尋ねる。
私はシーフードを頼んだ。彼らは全員がチキンを選んだ。大部分のネパール人は海を見たことがなく、シーフードを食べたことがない。今日のシーフードは海老。彼らは鶏肉の甘煮だった。
ふと気がつくと、三人が、私の前の海老のチリソースを珍しそうに見ている。
「それは何ですか」と、私に尋ねた。
「これはジンゲマチャ(海老)だよ」
「ああ、それがジンゲマチャなんだ。聞いたことがある。初めて見た」
「僕は、本で見たぞ。すごい」
一人は、頷くだけだった。
「一つ、食べて見るかい」と、直径四aほどの白い美しい身が、チリソースでピンク色になっている海老さんをフォークで刺して、隣の若者に手を向けた。
「要らない、要らない」と、シートベルトをしたままで、飛び上がるほど驚いて、顔には恐怖の表情が出ている。手を大きく振って、一つ隣の友人に体を傾けたために、隣の友人の鶏肉の一つが落ちた。
虫の幼虫とでも思ったのか。
彼の一つ隣の友人は、それほど驚かなかった。ニコニコ笑っている。私も、自分の口に運べば良いようなものだが、こんな美味しいものを、拒否するとは何ということだ。食べたことがないのは、非常に残念と、もう少しプッシュすることにした。「とっても美味しいよ」。
私の皿には四尾のジンゲマチャがあった。「ほら」と、一人置いて隣の若者の鶏肉の上に、ジンゲマチャの丸まった身を置いた。
彼は恐る恐る、フォークでジンゲマチャを突き刺し、端っこを五_ほどかじった。後の二人は、真剣な目で見ている。
「ミトチャ(美味しい)、デヘレイ・ミトチャ(大変美味しい)」と言いながら、大きく笑った。そして残りはパクッと食べてしまった。
「マレーシアには、このジンゲマチャがたくさんあるのですか」
「あるある、とても美味しい」
「そうですか。それは素晴らしいなあ」
「もっと大きいのがあるぞ」
「どのくらいの大きさですか」
私が両腕を広げたら仰天している。
「うそ、うそだよ。このくらい」と一〇aほどを示した。
「マレーシアには、シーフードが一杯あるのですか」
「あるぞ。こんなのも」と、両手をチョキにして、「蟹さん、蟹さん」
「ああ、知っている。美味しいのですか」
「無茶苦茶美味しい」
「楽しみだなあ」とうれしさが顔に溢れた。さっきまでの緊張感が消えた。
残りのジンゲマチャを、一尾ずつ二人に渡して、最後の一尾を私が食べた。
2008/5/29 22:00
ひとまんず、カトマンズ「ビルガンジのホテルにて」 グルメ・クッキング
カトマンズに到着した直後、南部低地のビルガンジに出張した。
お客のネパール人幹部何人かとビルガンジのホテルに宿泊した。部屋は天井が高く、すごく広かった。私たちのような外国人には、このホテルは徹底的にみすぼらしく見えたが、この辺りでは豪華絢爛に属するという。
われわれ一行が仕事を終えてホテルに到着したのが遅かった。もうとっくに営業が終わっているレストランを強制的に開けさせたのは、やはり同行していたネパール企業の幹部の功績だ。
「九時半から食事をしましょう」
ネパールでボトルされたギネスを飲んで、一挙に疲れが出たが、料理がなかなか出てこない。飲み物とナンとピリ辛のチャパティばかりがでてくる。これが非常に酒を進めてしまう悪い原因だ。とにかく腹は減っている、乾燥しているのでビールは滅多やたらに旨い。かなり回ったときに、私の質問が彼らの議論に火を点けてしまった。
「ネパール人の祖先は、インドから来た人が多いのですか」
これが、大酒大議論の始まりのファンファーレだった。
「そうだよ。我々ネパール人の祖先のほとんどがインドから来たんだ」
ここで、まず企業広報官が、グイイとビールをあけた。
「ところが、だよ。我々ネパール人がインドを旅行していると、警察も、一般市民も、ネパール人だと、差別するんだ」
「へえ、それはどうして」
「インドは、ネパールを自分の領地、属国だと思っているのさ」
ここでまたビールをグイ。
「だから、大多数のネパール人はインド人が嫌いなんだ」
(わー、出た、出た、本音が出てきた)と、そのネパール人の激しい憤りに、私は圧倒されてしまった。
「くやしいぞ。腹が立つぞ」
「そうだ、そうだ」と、他のネパール人からも、合の手が入った。
もう、料理が出てきても、何だか分からないほどに、酒盛りが進み、深夜になってしまった。
いつまでも付き合っていられないので、レストランを出て、部屋に戻りかけたら、ホテル中庭の庭園灯の周りに、数万匹の蚊が踊っていた。部屋の扉の外にもたくさん蚊が待ち伏せをしていて、血を吸う悪玉蚊なのか、吸わない善玉蚊なのか、わからなかった。
日本製のコピーの電気蚊取りマットを、ばっちりとベッドの傍に置いて寝た。
夜中の犬の遠吠え、風呂の水漏れ、豚の朝の顔洗いの声、鶏の目覚まし時計などは、気にならなかった。たった一晩の貴重な滞在だから、そんなものは気にしない。
運転手がちゃんと寝てくれていれば、問題は無い。
私はどんなに遅くまで起きていても、朝、早く目がさめる。そのため早朝からホテルの周りを散歩し始めたが、独特の形の人力車が、すでに走り回っていた。 朝食は、昨夜の酒盛りのため、紅茶一杯にしておいた。
この町から、インドへは国境を越えて鉄道がつながっていたが、今は廃線となっているとのこと。かつて駅だった跡が残っていた。
車で出発した後、ビルガンジの町の中を回ってもらった。人口は数十万人程度だろうか。大通りを、象の親子がのんびりと歩いていた。
あれほど騒いでいたネパール人たちが、ケロッとして起きてきた。


