2008/8/6 20:42
過ちは繰返しませぬから 分類なし
63回目の原爆記念日を迎え、あらためて「核兵器」が人類の歴史にもたらしたものが何であったのか、を振り返る時が来た。
広島の原爆慰霊碑には碑文が記されていて、そこには「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから」と書かれている。東京裁判で、被告全員の無罪を主張したインド人のパール判事がここを訪れて、この碑文の意味を英語で解説された折、過ちを犯された側が謝罪するのでは理屈に合わない、と極めてインド・アーリア語的な理解に基づく感想を述べたので、その逆の反応を期待していた日本人があわてた、というエピソードがある。
結局、「繰返しませぬ」のは誰なのかが特定されていないことに対して、通訳が意味を正しく補足しなかったから、誤解されたものであろう。大リーグの野茂投手が、記者の質問にいつも「ええ」とか「まあ」しか答えないので、通訳がその質問に対する「ええ」という言い方に対して、今日のコンディションは上々であったが、まだ気になるところもいくらかはある、という具合に、その本当の意味を深読みして、新聞記事になるように配慮しながら通訳したという程には、通訳技術が発達していなかったものと思われる。
これをきっかけとして、本当は「(アメリカには)繰返させませぬ」が正しいとか、そうではないとか、論争が起こって、最終的には、当時の山田節男広島市長が、「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」という見解を発表して、論争は終結した。
実際、この言葉は、全く意に反して突然「死」の側に属するようになった数多くの無念な人々に対し、偶然にも「生」の側に残ってしまった『世界人類』が気持ちを同じくして語る、という想定になっているものだろう。そして、生き残った人類のうち、本当に悪いのは誰で、悪くないのは誰か、という内紛をして見せることは、死者の前では甚だ不謹慎な行為と言わざるを得ない。
もっと踏み込んで考えれば、「過ち」を行ったのは、死者も含めた全ての人類であって、本来なら許される者などひとりもいないのだが、とりわけ無惨な死を受け入れたあなた方にとって、いくらかでも「安らかに眠る」チャンスがあるとすれば、それは、このことを契機として、人類が身に付けた文明の驕りとその愚かさを悔い、再びそのような傲慢な思いによって戦争などしない、との切実な願いを後世に残すことによってしかあり得ない、というメッセージとも受け取れる。
無念な思いが怨霊になることは、日本人なら誰でも良く知っている。彼らに、怨霊転じて、生ける者と共存できる御霊になって戴くためには、生きる側が過ちを深く自覚し、現実により良い社会をつくることだ、というのは、生死によって別離した者たちが、再び和解をするために、必ずたどらなければならない、大切な「心のプロセス」なのではないか、と思う。
広島の原爆慰霊碑には碑文が記されていて、そこには「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから」と書かれている。東京裁判で、被告全員の無罪を主張したインド人のパール判事がここを訪れて、この碑文の意味を英語で解説された折、過ちを犯された側が謝罪するのでは理屈に合わない、と極めてインド・アーリア語的な理解に基づく感想を述べたので、その逆の反応を期待していた日本人があわてた、というエピソードがある。
結局、「繰返しませぬ」のは誰なのかが特定されていないことに対して、通訳が意味を正しく補足しなかったから、誤解されたものであろう。大リーグの野茂投手が、記者の質問にいつも「ええ」とか「まあ」しか答えないので、通訳がその質問に対する「ええ」という言い方に対して、今日のコンディションは上々であったが、まだ気になるところもいくらかはある、という具合に、その本当の意味を深読みして、新聞記事になるように配慮しながら通訳したという程には、通訳技術が発達していなかったものと思われる。
これをきっかけとして、本当は「(アメリカには)繰返させませぬ」が正しいとか、そうではないとか、論争が起こって、最終的には、当時の山田節男広島市長が、「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」という見解を発表して、論争は終結した。
実際、この言葉は、全く意に反して突然「死」の側に属するようになった数多くの無念な人々に対し、偶然にも「生」の側に残ってしまった『世界人類』が気持ちを同じくして語る、という想定になっているものだろう。そして、生き残った人類のうち、本当に悪いのは誰で、悪くないのは誰か、という内紛をして見せることは、死者の前では甚だ不謹慎な行為と言わざるを得ない。
もっと踏み込んで考えれば、「過ち」を行ったのは、死者も含めた全ての人類であって、本来なら許される者などひとりもいないのだが、とりわけ無惨な死を受け入れたあなた方にとって、いくらかでも「安らかに眠る」チャンスがあるとすれば、それは、このことを契機として、人類が身に付けた文明の驕りとその愚かさを悔い、再びそのような傲慢な思いによって戦争などしない、との切実な願いを後世に残すことによってしかあり得ない、というメッセージとも受け取れる。
無念な思いが怨霊になることは、日本人なら誰でも良く知っている。彼らに、怨霊転じて、生ける者と共存できる御霊になって戴くためには、生きる側が過ちを深く自覚し、現実により良い社会をつくることだ、というのは、生死によって別離した者たちが、再び和解をするために、必ずたどらなければならない、大切な「心のプロセス」なのではないか、と思う。
