2007/12/10  10:52

なぜ京都サンガを応援するか―わたしのサッカー文化論  サッカー

 京都サンガが、入れ替え戦で広島に1勝1分けとしてJ1昇格が決まった。昇格の瞬間を、広島ビッグアーチで迎えることができて、わたしは非常に幸福である。しかし、なぜわたしは京都サンガのサッカーを応援にいくのか。そして、なぜ結果に一喜一憂するのか。京都サンガ自体は、わたし自身とはほとんど関係がない。それなのに、なぜ、自分の直接の利益にならないことに時間と金とエネルギーを費やしているのか。これは、昔から語られてきたことであろうが、非合理極まりない行動・心性である。

 もちろん、こういうことを言い出せば、旅行、コンサートなど、およそ実益を伴わない趣味とはいったい何なのかという問題と重複するかもしれない。また、実際、サッカーのゲームは見ていて、たいへんおもしろい。しかし、サッカーにおけるあのサポーターの熱狂は何なのか、そしてその中の一人である自分とは何なのかという問題は、旅行などよりはもう少し根深い何かがあるような気がする。

 この一見非合理的なことに集団的に熱狂を伴う現象は、スポーツ以外の類似のものとして、たとえば、岸和田のだんじり、諏訪の御柱といったものがあげられるかもしれない。以前、わたしは諏訪の御柱で死者がでたとき、わたしはこのような危険な行事は即刻止めるべきだと思ったが、その後も続けられている。無意味なことで大きなリスクが伴う場合は、そのようなことは止める行動こそ合理的である。それでは、この非合理性を支える原理は何なのだろうか。

 わたしが信奉する二重過程理論では、論理性や功利性を原則とする規範的合理性と、1000万年単位の野生環境で適応的だったとされる進化的合理性を区別している。諏訪の御柱などは即刻やめるべきという判断は、前者の合理性に依拠している。一方、サッカーサポーターの熱狂は、だんじりなどにおける熱狂とともに、当然後者に入るだろう。わたしは、根幹となる原理は、自分が所属する集団の高揚だと思うが、ここから、もう一歩要因を追求すれば、何か一つの原理で説明できるというよりは、人類が生存を勝ち抜くために必要だったさまざまな心性・要因が複雑に絡み合っているというべきだろう。サッカーのゲーム自体と同様に、複雑系を呈しているといえる。

 日本人は西洋人に比較して自己費卑下傾向があるということは、11月5日の日記において記したが、自分の集団が他よりも優れていると思い込む自集団高揚は日本人でも決して弱くなく、かつこれは多くの文化において普遍的に見られる。そして、これは、自制が必要ないような状況で、容易に人々の中で喚起して熱狂を引き起こすといえる。サッカー応援は、その典型的な状況の一つである。これは、素朴なナショナリズムにも通ずるもので、わたしは、取り扱いを一歩誤ると、ナチズムやフーリガンに結びつくヒト固有の危険因子だろうと思う。自集団高揚が高くなるのは、その集団がマイノリティであると自覚するとき、その集団の存続が危ういとき、あるいはその集団がもつ文化価値を外集団によって貶められたときなどで、これらは、過去の民族紛争・戦争の主要因になっている。

 たとえば、英国では、マンチェスター・ユナイテッドの赤と、リーズ・ユナイテッドの白は、ランカスター家の紅バラとヨーク家の白バラに由来し、両者は15世紀のバラ戦争以来のライバルである。リーズは、今はプレミアシップではないので、残念ながら両者の試合はないが、かっては選手もサポーターも敵愾心むき出しで試合をしていた。もちろん、これが地域紛争に発展するようだと困る。結局過去に何度も言い古された結論と同じかもしれないが、サッカーは、そういった素朴な心性を比較的無毒化された形で吐き出させてくれるツールの一つといえるかもしれない。



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