2005/10/16 15:34
December 2nd week (x) Without You [Tale 11]
「停電なのね」
リビングルームの窓から、外の様子を伺っていた芙美子は、カーテンを元に戻した。周辺の住宅やマンションの明かりが一様に消えていた。
「エレベーターは大丈夫かな」
もらい物のアロマ用キャンドルに火を灯しながら、桂木が呟いた。一時的に止まっていたとしても、自家発電ですぐに復旧する筈だけど、と続ける。
「いいのよ。少し待てば停電も直るでしょう」
芙美子はダイニング・ルームに入り、暗い中に淡い光を放っている電波時計で、時間を確認した。
「なんだかロマンチックね」
食卓の椅子に腰を下ろしつつ、芙美子はキャンドルの明かり越しに桂木を見て、微笑んだ。そうだね、と桂木もうなずく。
「もうすぐクリスマスでしょう」
「うん」
「父と母が、理沙と千晴ちゃんを連れて、ホテルのディナーショーに行くような計画を立ててるのね。いいかしら、千晴ちゃんも連れて行って」
「いつだろう?」
「23日の祝日の夜」
「お世話になって、いいのかな」
「両親は、楽しみにしてるみたいよ」
まだ少しぬくもりが残るそば茶を、芙美子は口に運んだ。
「益美さんは千晴ちゃんと、その日に何か予定を入れていないかしら」
「たぶんないと思う」
25日はケーキを買う約束をしたけど、と桂木は続けた
「千晴ちゃんが出掛けたら、23日の夜、益美さんはどうするの?」
「どうかな」
桂木は髪に手をやり、どうしようか、と言って困ったように笑った。
「私もね、両親と理沙が出掛けたら、ひとりなのよ」
「そうか。じゃ、どこかで一緒に食事でもしようか」
「益美さん、私を誘ってくれるの?」
芙美子は、いたずらっぽい表情で桂木の顔を見た。
「受けてくれるかな」
「よろこんで」
「それは光栄です」
桂木はおどけて、テーブル越しに芙美子に右手を差し出した。芙美子はその手を握り返し、益美さんの手はあたたかい、と小さく言った。
「芙美子さんとふたりで食事をするのは、初めてかも知れないね」
「私たちの、最初のデートになるのね」
芙美子は桂木の手を握っている力をゆるめつつ、楽しみにしているから、と囁いた。
リビングルームの窓から、外の様子を伺っていた芙美子は、カーテンを元に戻した。周辺の住宅やマンションの明かりが一様に消えていた。
「エレベーターは大丈夫かな」
もらい物のアロマ用キャンドルに火を灯しながら、桂木が呟いた。一時的に止まっていたとしても、自家発電ですぐに復旧する筈だけど、と続ける。
「いいのよ。少し待てば停電も直るでしょう」
芙美子はダイニング・ルームに入り、暗い中に淡い光を放っている電波時計で、時間を確認した。
「なんだかロマンチックね」
食卓の椅子に腰を下ろしつつ、芙美子はキャンドルの明かり越しに桂木を見て、微笑んだ。そうだね、と桂木もうなずく。
「もうすぐクリスマスでしょう」
「うん」
「父と母が、理沙と千晴ちゃんを連れて、ホテルのディナーショーに行くような計画を立ててるのね。いいかしら、千晴ちゃんも連れて行って」
「いつだろう?」
「23日の祝日の夜」
「お世話になって、いいのかな」
「両親は、楽しみにしてるみたいよ」
まだ少しぬくもりが残るそば茶を、芙美子は口に運んだ。
「益美さんは千晴ちゃんと、その日に何か予定を入れていないかしら」
「たぶんないと思う」
25日はケーキを買う約束をしたけど、と桂木は続けた
「千晴ちゃんが出掛けたら、23日の夜、益美さんはどうするの?」
「どうかな」
桂木は髪に手をやり、どうしようか、と言って困ったように笑った。
「私もね、両親と理沙が出掛けたら、ひとりなのよ」
「そうか。じゃ、どこかで一緒に食事でもしようか」
「益美さん、私を誘ってくれるの?」
芙美子は、いたずらっぽい表情で桂木の顔を見た。
「受けてくれるかな」
「よろこんで」
「それは光栄です」
桂木はおどけて、テーブル越しに芙美子に右手を差し出した。芙美子はその手を握り返し、益美さんの手はあたたかい、と小さく言った。
「芙美子さんとふたりで食事をするのは、初めてかも知れないね」
「私たちの、最初のデートになるのね」
芙美子は桂木の手を握っている力をゆるめつつ、楽しみにしているから、と囁いた。
2005/10/10 17:41
December 2nd week (ix) Without You [Tale 11]
桂木は、事業部長との話を、手短かに芙美子に伝えた。現在、自分が所属している子会社が、来年中にも整理されることも隠さずに話す。
「それで…益美さんは、どうするの?」
「まだ、分からない。今日、聞かされたばかりの話なんでね」
小さなため息のように息をついてから、桂木はお茶をひと口飲んだ。もっとも、あまりゆっくり考えている訳にもいかないけれどね…と、芙美子を見てうっすらと笑った。
「今なら、本社に戻るチャンスがあるのでしょう?」
芙美子は、桂木の目を覗き込むようにして尋ねた。
「それは、そうだけど」
今の自分には、仕事最優先の生活は無理だと、桂木は思う。千晴が学校へ行きたがらない症状は、秋口より次第に深刻になっていた。最近では、学童保育でも周囲に馴染もうとしない様子が顕著にあらわれてきた。夜討ち朝駆けのような毎日に、この状況で戻ることは到底できない。
「なにか、私たちにできることはないかしら」
幸一郎夫婦が千晴の面倒を見るなど、支援できる方法はある筈だと、芙美子は桂木に言った。
「ありがとう。気持ちだけ頂いておくよ」
「そんな」
「義父さんたちに、負担をかけることはできないさ」
「益美さんは、自分で問題を抱えこみ過ぎよ」
芙美子はやや語気を強め、少し早口に続けた。
「自分の力だけで解決できないことを、身近な人たちに頼るのは、なにも悪いことじゃないでしょう」
「それはそうだけど、できるだけのことは、まず自分でやらないとね」
その時はお願いするから…と、桂木は気楽さを装うように軽く言い、わずかに笑った。
「私たち、益美さんや千晴ちゃんのことを、今も家族だと思っているのよ。だから、益美さんが困っているなら、私たちにも何かさせてちょうだい」
芙美子はそう言って、桂木の腕に自分の手を置き、揺するようにした。
桂木が、芙美子の方へ目をやり、どう返事をしたものかと思案を始めた時、不意に部屋の電気が消えて、あたりが暗くなった。ファンヒーターの火も消えて、ファンが止まって静かになる。
「それで…益美さんは、どうするの?」
「まだ、分からない。今日、聞かされたばかりの話なんでね」
小さなため息のように息をついてから、桂木はお茶をひと口飲んだ。もっとも、あまりゆっくり考えている訳にもいかないけれどね…と、芙美子を見てうっすらと笑った。
「今なら、本社に戻るチャンスがあるのでしょう?」
芙美子は、桂木の目を覗き込むようにして尋ねた。
「それは、そうだけど」
今の自分には、仕事最優先の生活は無理だと、桂木は思う。千晴が学校へ行きたがらない症状は、秋口より次第に深刻になっていた。最近では、学童保育でも周囲に馴染もうとしない様子が顕著にあらわれてきた。夜討ち朝駆けのような毎日に、この状況で戻ることは到底できない。
「なにか、私たちにできることはないかしら」
幸一郎夫婦が千晴の面倒を見るなど、支援できる方法はある筈だと、芙美子は桂木に言った。
「ありがとう。気持ちだけ頂いておくよ」
「そんな」
「義父さんたちに、負担をかけることはできないさ」
「益美さんは、自分で問題を抱えこみ過ぎよ」
芙美子はやや語気を強め、少し早口に続けた。
「自分の力だけで解決できないことを、身近な人たちに頼るのは、なにも悪いことじゃないでしょう」
「それはそうだけど、できるだけのことは、まず自分でやらないとね」
その時はお願いするから…と、桂木は気楽さを装うように軽く言い、わずかに笑った。
「私たち、益美さんや千晴ちゃんのことを、今も家族だと思っているのよ。だから、益美さんが困っているなら、私たちにも何かさせてちょうだい」
芙美子はそう言って、桂木の腕に自分の手を置き、揺するようにした。
桂木が、芙美子の方へ目をやり、どう返事をしたものかと思案を始めた時、不意に部屋の電気が消えて、あたりが暗くなった。ファンヒーターの火も消えて、ファンが止まって静かになる。
2005/6/19 17:56
December 2nd week (viii) Without You [Tale 11]
自分の鍵で玄関のドアロックを解放し、桂木がマンションの部屋に入ると、ダイニング・ルームの照明が点けられていた。ほどなく、芙美子が千晴の部屋から現れ、桂木に「お帰りなさい」と笑顔で言った。
「さっき千晴ちゃんを送ってきて、今しがた寝たところよ」
「世話をかけたね」
桂木はコートと上着を脱ぎ、ダイニング・テーブルの椅子の背に掛けながら、芙美子に礼を述べた。事業部長との面談が、どのような次第になるか、事前に分からなかったので、念のため千晴を預かってもらう段取りを、芙美子に依頼していたのだった。学校が引けてからの千晴の様子について、芙美子はひとつふたつ、桂木に伝える。
「飲んで来たのね」
キッチンに入って行きながら、芙美子は、少し赤みのある桂木の顔を見て尋ねた。お腹の方はどうかしら、と続ける。
「ありがとう。大丈夫だ」
「じゃ、お茶を入れるわ」
芙美子は、桂木の返事を聞いて、急須を取り出した。ケトルで、お湯を沸かす用意をする。
「それなら、そば茶を飲まないか。圭介に貰ったそば茶があるんだ」
桂木はキッチンへ入り、芙美子の背中越しに戸棚に手を伸ばした。蕎麦の実を煎った茶色い粒がたくさん入った密封式のビニール袋を、芙美子に見せる。自分の肩に手を置いた桂木から、かすかにアルコールのにおいがした。
桂木は、コーヒー・メーカーにフィルターをセットして、そこへそばの実を入れた。ミネラル・ウォーターのボトルから、ふたり分の水を注いでスイッチを押す。
「こんな風にして、お茶を飲むの?」
芙美子は桂木の方を見て、おかしそうに笑った。
「せっかくの蕎麦の香りが、コーヒーと混じってしまうでしょう」
「そうかも知れない。でも、この方が手軽だから」
桂木は、笑顔を芙美子に向け、ぼんのくぼに手をやった。たちまち、沸騰した熱いお湯がボコボコと音を立てて、フィルターへ落ちていく。香ばしい蕎麦のにおいが、あたりに広がった。
芙美子が湯のみに白湯を入れ、器を温めている間、桂木は自分でハンドタオルに水道水を含ませた上で固く絞り、電子レンジで加熱して、おしぼりにした。椅子に腰掛けて、熱く蒸したタオルで顔や、ネクタイを緩めた首筋を拭き、大きく息をつく。
コーヒー・メーカーから、ガラスの容器を取り外した芙美子は、ふたつの湯のみにそば茶を入れた。小さな盆の上に湯のみを載せ、ダイニング・テーブルの方へ運んでいく。
「本社の方でのお話しは、どうだったの?」
桂木の前に湯のみを置きながら、芙美子は真顔になって尋ねかけた。
「さっき千晴ちゃんを送ってきて、今しがた寝たところよ」
「世話をかけたね」
桂木はコートと上着を脱ぎ、ダイニング・テーブルの椅子の背に掛けながら、芙美子に礼を述べた。事業部長との面談が、どのような次第になるか、事前に分からなかったので、念のため千晴を預かってもらう段取りを、芙美子に依頼していたのだった。学校が引けてからの千晴の様子について、芙美子はひとつふたつ、桂木に伝える。
「飲んで来たのね」
キッチンに入って行きながら、芙美子は、少し赤みのある桂木の顔を見て尋ねた。お腹の方はどうかしら、と続ける。
「ありがとう。大丈夫だ」
「じゃ、お茶を入れるわ」
芙美子は、桂木の返事を聞いて、急須を取り出した。ケトルで、お湯を沸かす用意をする。
「それなら、そば茶を飲まないか。圭介に貰ったそば茶があるんだ」
桂木はキッチンへ入り、芙美子の背中越しに戸棚に手を伸ばした。蕎麦の実を煎った茶色い粒がたくさん入った密封式のビニール袋を、芙美子に見せる。自分の肩に手を置いた桂木から、かすかにアルコールのにおいがした。
桂木は、コーヒー・メーカーにフィルターをセットして、そこへそばの実を入れた。ミネラル・ウォーターのボトルから、ふたり分の水を注いでスイッチを押す。
「こんな風にして、お茶を飲むの?」
芙美子は桂木の方を見て、おかしそうに笑った。
「せっかくの蕎麦の香りが、コーヒーと混じってしまうでしょう」
「そうかも知れない。でも、この方が手軽だから」
桂木は、笑顔を芙美子に向け、ぼんのくぼに手をやった。たちまち、沸騰した熱いお湯がボコボコと音を立てて、フィルターへ落ちていく。香ばしい蕎麦のにおいが、あたりに広がった。
芙美子が湯のみに白湯を入れ、器を温めている間、桂木は自分でハンドタオルに水道水を含ませた上で固く絞り、電子レンジで加熱して、おしぼりにした。椅子に腰掛けて、熱く蒸したタオルで顔や、ネクタイを緩めた首筋を拭き、大きく息をつく。
コーヒー・メーカーから、ガラスの容器を取り外した芙美子は、ふたつの湯のみにそば茶を入れた。小さな盆の上に湯のみを載せ、ダイニング・テーブルの方へ運んでいく。
「本社の方でのお話しは、どうだったの?」
桂木の前に湯のみを置きながら、芙美子は真顔になって尋ねかけた。
2005/5/29 18:15
December 2nd week (vii) Without You [Tale 11]
佐田の店を後にして、桂木は私鉄の乗換駅まで繁華街を歩いた。久しぶりの酒で思いの外、酔ったようだった。ひんやりとした十二月の夜の冷気が、軽く火照った頬に気持ち良かった。
定期で改札機を通り、ホームへ上がるとほどなく各駅停車が入ってきた。急行との接続待ちで乗客が減った車両に、桂木は乗り込んだ。自分が下車する、三つ先の駅で降車側になるドアに少しもたれ掛かるようにして立つ。やがて急行との待ち合わせが完了し、乗り換えで乗客がかなり増えた各駅停車は発車した。
ガラス窓の外を流れる住宅には、クリスマスのイルミネーションの、赤や青の光が瞬いていた。この週末には、ツリーの飾りつけを千晴と一緒にする約束だったのを、桂木は思い出した。緋沙子と共にシカゴに赴任していた頃、千晴はまだ幼かったが、三人でクリスマスの飾りつけをしたことを、彼女はよく憶えていた。
自分の妻が不治の病であることを担当医から告知をされた後も、しばらくの間、桂木はそのことを緋沙子に告げられないでいた。だが、やがて緋沙子は桂木の様子から、なにかを感じ取り、いつしか覚悟を決めたようだった。
「病名を明かさないで、夫が急に優しくなったら、要注意だって言うでしょう」
そう話しながら、緋沙子は気丈に笑顔を見せた。益美さんは初めから優しいから、ずっと騙されるところだった、と付け加え、目じりをそっと指で押さえた。
緋沙子が亡くなる二週間ほど前に、しばらく病状が比較的安定している日が続いた。緋沙子はその間に、個室に移された。それがどういう意味を持つ移動か、彼女は十分に理解していたようだった。
病院の計らいにより、本来は認められていない夜間の家族の付き沿いが、個室に移ったことによって許され、桂木はそれから毎日、病室に宿泊した。夜半、薬が切れて目を覚ました緋沙子が、かすれる声で桂木に話しかけ、桂木は彼女のひんやりした手を両手で包んでさするように握り、話し相手をした。緋沙子の話は古い思い出や、桂木と千晴の今後に対する心配など、とりとめもなく行き来した。
「益美さんはまだ若いから、私のことは早く忘れて、いいひとを見つけて仕合せになって」
明け方近くに緋沙子はとぎれとぎれに、そんなことを話して少し泣いた。桂木の手に自分の指をからませて、ずっと傍にいられなくて御免なさい、と涙声で続けた。
もし、やがて桂木が一緒になった女性が、桂木を仕合せにしてくれなかったら、きっと恨んで、その女性の夢枕に立つようになるかもしれない、と言ってわずかに笑った。
「小姑のような幽霊が益美さんに憑いていたら、再婚なんてできないわね」
もし相手が芙美子なら、私が乗り移るから大丈夫…必ず益美さんをもう一度、必ず仕合せにする、と緋沙子は呟いた。暗い病室の中で、彼女は澄んだ瞳で桂木を見つめていた。桂木と緋沙子が話しをできたのは、結果的にそれが最期になった。やがて緋沙子は昏睡状態に陥り、ほどなくこの世を去った。
定期で改札機を通り、ホームへ上がるとほどなく各駅停車が入ってきた。急行との接続待ちで乗客が減った車両に、桂木は乗り込んだ。自分が下車する、三つ先の駅で降車側になるドアに少しもたれ掛かるようにして立つ。やがて急行との待ち合わせが完了し、乗り換えで乗客がかなり増えた各駅停車は発車した。
ガラス窓の外を流れる住宅には、クリスマスのイルミネーションの、赤や青の光が瞬いていた。この週末には、ツリーの飾りつけを千晴と一緒にする約束だったのを、桂木は思い出した。緋沙子と共にシカゴに赴任していた頃、千晴はまだ幼かったが、三人でクリスマスの飾りつけをしたことを、彼女はよく憶えていた。
自分の妻が不治の病であることを担当医から告知をされた後も、しばらくの間、桂木はそのことを緋沙子に告げられないでいた。だが、やがて緋沙子は桂木の様子から、なにかを感じ取り、いつしか覚悟を決めたようだった。
「病名を明かさないで、夫が急に優しくなったら、要注意だって言うでしょう」
そう話しながら、緋沙子は気丈に笑顔を見せた。益美さんは初めから優しいから、ずっと騙されるところだった、と付け加え、目じりをそっと指で押さえた。
緋沙子が亡くなる二週間ほど前に、しばらく病状が比較的安定している日が続いた。緋沙子はその間に、個室に移された。それがどういう意味を持つ移動か、彼女は十分に理解していたようだった。
病院の計らいにより、本来は認められていない夜間の家族の付き沿いが、個室に移ったことによって許され、桂木はそれから毎日、病室に宿泊した。夜半、薬が切れて目を覚ました緋沙子が、かすれる声で桂木に話しかけ、桂木は彼女のひんやりした手を両手で包んでさするように握り、話し相手をした。緋沙子の話は古い思い出や、桂木と千晴の今後に対する心配など、とりとめもなく行き来した。
「益美さんはまだ若いから、私のことは早く忘れて、いいひとを見つけて仕合せになって」
明け方近くに緋沙子はとぎれとぎれに、そんなことを話して少し泣いた。桂木の手に自分の指をからませて、ずっと傍にいられなくて御免なさい、と涙声で続けた。
もし、やがて桂木が一緒になった女性が、桂木を仕合せにしてくれなかったら、きっと恨んで、その女性の夢枕に立つようになるかもしれない、と言ってわずかに笑った。
「小姑のような幽霊が益美さんに憑いていたら、再婚なんてできないわね」
もし相手が芙美子なら、私が乗り移るから大丈夫…必ず益美さんをもう一度、必ず仕合せにする、と緋沙子は呟いた。暗い病室の中で、彼女は澄んだ瞳で桂木を見つめていた。桂木と緋沙子が話しをできたのは、結果的にそれが最期になった。やがて緋沙子は昏睡状態に陥り、ほどなくこの世を去った。
2005/5/15 7:23
December 2nd week (vi) Without You [Tale 11]
妻の緋沙子を亡くした後、周囲というのは、驚くほど単純なものだ、と桂木が考えさせられることが多かった。もちろん善意から出た言葉には違いないのだが、芙美子との再婚を勧める声がたびたびある。
共に娘をひとりずつ持つ者同士…そんな根拠の提案を聞かされるたび、できすぎた足し算のように安直な話だと、桂木は思った。当事者の事情というものは、それほど明快ではない。
少し前に、美智恵から、やはり芙美子との再婚について尋ねられたことがあった。再婚によって、桂木は得るものが多いだろうが、しかし芙美子はおそらく、何も得ることなく負担だけが増す形になるだろう。
かつては、婚姻によって女性は生活の安定というものを手に入れたのかも知れないが、現在はもはやそんな時代ではない。まさに今、雇用が危機に曝されようとしている自分に比べ、芙美子の収入基盤の方がはるかに強固であり、それが現実なのだ。
そういった不利益を超えて、芙美子が求めてくれるほどの何かを、自分が彼女に与えることができるのだろうか…芙美子のことを考える時、いつも最終的に行き着くその思いを胸に浮かべつつ、桂木は、グラスの底に残ったビールを飲み干した。
「おかわり、どうしますか?」
空になったビア・グラスを示して、真理子が桂木に尋ねた。
「そうだな」
桂木は、そう呟いてから、真理子にカクテルを作ってくれるよう頼んだ。腕をふるってくれ、と言って笑う。
真理子は、「緑の山」という意味の名前を持つ、彼女の父が考案したカクテルを作らせてもらえるか、と桂木に提案した。このカクテルを練習しているところだ、と説明を加えた。
「それは是非、頂くことにしよう」
と桂木が応じ、笑顔で頷いた真理子が、ボトルを棚から取り出して用意を始めた。やがて、金属と氷が弾けるような軽快な音を立てて、真理子が真剣な眼差しでシェイカーを振った。キャップを取り、さっと冷やしたカクテルグラスに、艶やかな紺碧色の液体をゆっくりと注ぐ。
「どうぞ」
真理子は、グラスをコースターに載せ、カウンターの上を滑らせて、それを桂木の前に置いた。桂木は、カクテルの色合いをしばらくの間ながめてから、そっとグラスを指で持ち上げた。
「よくできている」
ひと口飲み下した後で、桂木は真理子に言った。圭介が作るものと変わりない、と付け加える。それを聞いて、やや緊張した面持ちでいた真理子の表情が緩んだ。
自分の父が遺したこのカクテルに傾ける真理子の情熱について、桂木は以前に佐田から聞かされていた。その父だけが確立していた、時間が経過してもカクテルの緑色を変化させない方法を、真理子は見つけ出そうとしている、ということだった。
パーマネント・グリーン、という言葉を、桂木は心の中で思い浮かべた。目の前にあるグラスの温度が少しずつゆるみ、液体の色合いがわずかに変化を始めた。しかし、真理子はいつか「永久に変わらない緑色」を見つけ出すことだろう。その一途さを、桂木は尊く思い、また、ある種の羨望を彼女に対して感じていた。
共に娘をひとりずつ持つ者同士…そんな根拠の提案を聞かされるたび、できすぎた足し算のように安直な話だと、桂木は思った。当事者の事情というものは、それほど明快ではない。
少し前に、美智恵から、やはり芙美子との再婚について尋ねられたことがあった。再婚によって、桂木は得るものが多いだろうが、しかし芙美子はおそらく、何も得ることなく負担だけが増す形になるだろう。
かつては、婚姻によって女性は生活の安定というものを手に入れたのかも知れないが、現在はもはやそんな時代ではない。まさに今、雇用が危機に曝されようとしている自分に比べ、芙美子の収入基盤の方がはるかに強固であり、それが現実なのだ。
そういった不利益を超えて、芙美子が求めてくれるほどの何かを、自分が彼女に与えることができるのだろうか…芙美子のことを考える時、いつも最終的に行き着くその思いを胸に浮かべつつ、桂木は、グラスの底に残ったビールを飲み干した。
「おかわり、どうしますか?」
空になったビア・グラスを示して、真理子が桂木に尋ねた。
「そうだな」
桂木は、そう呟いてから、真理子にカクテルを作ってくれるよう頼んだ。腕をふるってくれ、と言って笑う。
真理子は、「緑の山」という意味の名前を持つ、彼女の父が考案したカクテルを作らせてもらえるか、と桂木に提案した。このカクテルを練習しているところだ、と説明を加えた。
「それは是非、頂くことにしよう」
と桂木が応じ、笑顔で頷いた真理子が、ボトルを棚から取り出して用意を始めた。やがて、金属と氷が弾けるような軽快な音を立てて、真理子が真剣な眼差しでシェイカーを振った。キャップを取り、さっと冷やしたカクテルグラスに、艶やかな紺碧色の液体をゆっくりと注ぐ。
「どうぞ」
真理子は、グラスをコースターに載せ、カウンターの上を滑らせて、それを桂木の前に置いた。桂木は、カクテルの色合いをしばらくの間ながめてから、そっとグラスを指で持ち上げた。
「よくできている」
ひと口飲み下した後で、桂木は真理子に言った。圭介が作るものと変わりない、と付け加える。それを聞いて、やや緊張した面持ちでいた真理子の表情が緩んだ。
自分の父が遺したこのカクテルに傾ける真理子の情熱について、桂木は以前に佐田から聞かされていた。その父だけが確立していた、時間が経過してもカクテルの緑色を変化させない方法を、真理子は見つけ出そうとしている、ということだった。
パーマネント・グリーン、という言葉を、桂木は心の中で思い浮かべた。目の前にあるグラスの温度が少しずつゆるみ、液体の色合いがわずかに変化を始めた。しかし、真理子はいつか「永久に変わらない緑色」を見つけ出すことだろう。その一途さを、桂木は尊く思い、また、ある種の羨望を彼女に対して感じていた。
2005/5/8 17:05
December 2nd week (v) Without You [Tale 11]
「桂木さん、こんばんは」
いつの間にか自分の思考の中に埋没していたのだろう、掛けられた声に、桂木は驚いたように顔を上げた。髪をポニーテールにしたバーテンダー姿の真理子が、笑顔でカウンターの内側に立っていた。
「やあ」
「お久しぶりです」
「そうだね」
「渡辺さんのレース以来ですか」
「じゃあ、まだそんなに経ってないかな」
桂木は軽く言って、少しぬるくなったビールをひと口飲んだ。
「その恰好が、板についてきたね」
「ありがとうございます」
真理子は、冷凍室から氷の四角いブロックを取り出し、アイスピックでウイスキー用の丸氷に削り始めた。鮮やかな手際で、氷を丸く形作っていく。
「さっき、樹里の病院へ行ってきたんです」
「そうか、どうしてた?」
「退屈してるみたいですね」
吸殻が溜まった桂木の灰皿を、真理子が新しいものに交換してくれた。
「ただ、レースのことをどうするか、悩んでるみたいで」
「ああ」
「とても迷ってる様子です」
「そうか」
「お母さんからは、もうレースを止めるように言われてるそうです」
「美智恵さんが?」
「はい」
カウンターにロック・グラスを置いてから、真理子は桂木の方を見て頷いた。自分が削った丸氷をグラスの中に落として、削り具合を確認する。
「樹里は、本当はまだレースを続けたいんですけど」
「そうなのか」
「一緒に転倒して、走れなくなった人がいるのに、もう走るわけにはいかないだろう、ってお母さんに言われて」
「裕樹はどう言ってるか、なにか聞いてるかい?」
「渡辺さんは、自分で決めろ、って話してるそうです」
そうなのだろうな…と桂木は、心の中で呟いた。自分で決める他はないのだ…それは、別に樹里だけのことではない。自分自身もそうなのだ。今後どうするのか、自らが決定しなければならなかった。時間の余裕は、もうあまり残されていないのだ。
いつの間にか自分の思考の中に埋没していたのだろう、掛けられた声に、桂木は驚いたように顔を上げた。髪をポニーテールにしたバーテンダー姿の真理子が、笑顔でカウンターの内側に立っていた。
「やあ」
「お久しぶりです」
「そうだね」
「渡辺さんのレース以来ですか」
「じゃあ、まだそんなに経ってないかな」
桂木は軽く言って、少しぬるくなったビールをひと口飲んだ。
「その恰好が、板についてきたね」
「ありがとうございます」
真理子は、冷凍室から氷の四角いブロックを取り出し、アイスピックでウイスキー用の丸氷に削り始めた。鮮やかな手際で、氷を丸く形作っていく。
「さっき、樹里の病院へ行ってきたんです」
「そうか、どうしてた?」
「退屈してるみたいですね」
吸殻が溜まった桂木の灰皿を、真理子が新しいものに交換してくれた。
「ただ、レースのことをどうするか、悩んでるみたいで」
「ああ」
「とても迷ってる様子です」
「そうか」
「お母さんからは、もうレースを止めるように言われてるそうです」
「美智恵さんが?」
「はい」
カウンターにロック・グラスを置いてから、真理子は桂木の方を見て頷いた。自分が削った丸氷をグラスの中に落として、削り具合を確認する。
「樹里は、本当はまだレースを続けたいんですけど」
「そうなのか」
「一緒に転倒して、走れなくなった人がいるのに、もう走るわけにはいかないだろう、ってお母さんに言われて」
「裕樹はどう言ってるか、なにか聞いてるかい?」
「渡辺さんは、自分で決めろ、って話してるそうです」
そうなのだろうな…と桂木は、心の中で呟いた。自分で決める他はないのだ…それは、別に樹里だけのことではない。自分自身もそうなのだ。今後どうするのか、自らが決定しなければならなかった。時間の余裕は、もうあまり残されていないのだ。
2005/4/24 2:43
December 2nd week (iv) Without You [Tale 11]
事業部長の話を最後まで聞く必要もなく、桂木にはおよその筋道が想像できた。
失われた十年…と、いつか言い倣わされるようになったバブル後の景気低迷の時代…この一年ほどの間、この国の経済には、微速ながらも、ようやくそれから脱しようとする気配が見えていた。
桂木にとって、今は親会社にあたるこのメーカーでも、製造業の設備投資意欲の向上によって、経営状態は好転し、利益も上がり、決算の数字も大幅に改善した。
しかし、企業の好調さとは裏腹に、雇用は相変わらずの厳しさが続いていた。いずれの会社においても、組織の要求に満たない者や、事情の合わない者は、いまや容赦なく排除される傾向が強まっていた。
そのような時代にあって、桂木はまだ仕合せな方と言えただろう。妻の緋沙子が病に倒れ、闘病生活が長引いていた時、今、目の前にいる事業部長の計らいにより、仕事の負担が少ない子会社の事務部門に転籍し、その後、緋沙子の死や幼い娘の千晴を育てている間、家庭と仕事をどうにか両立させて来られたのだ。
桂木は、カウンターからグラスを取り上げ、佐田が入れてくれたお代わりのビールを、喉に流し込んだ。新しいタバコを口にくわえ、マッチを擦って火をつけた。佐田は、桂木に断って厨房へ引っ込み、フード・メニュー用の食材の仕込みを始めた。
本社を含めたグループ全体の組織再編に伴い、現在、桂木が所属する子会社が、次の決算までに整理の対象になるだろう、と事業部長は明かした後で、桂木に対し、あらかじめ身の振り方を考えておくよう話した。
「君の家庭の事情が許すなら、本社に復籍する機会を、今なら作ってやれるだろう。但し、復籍した以上は、仕事を最優先して働かねばならないことになる。また、次の決算が過ぎた後では、もう手を差し伸べてやることはできなくなるだろう」
事業部長の言葉は、十分に好意のこもったものだった。組織の管理者としては、最大限の配慮を、桂木の人生に対して注いでくれていると言えるだろう。桂木のような立場にある者からすれば、望外のことである。
「あまり時間的な余裕はないと思う。年が明けたら、子会社を整理するための作業が始まる筈だ。それまでの間に今後のことを考え、もし本社への復籍を望むなら、俺に連絡を寄越せ」
即答ができない桂木の事情を思いやって、事業部長はそこで話を打ち切った。まもなく業界団体が主催する忘年会に向かわねばならない、と言って、桂木に退室を促した。
「娘さんのことを考えても、もう一度、身を固める積もりはないのか。そうすれば、君も仕事に没頭できるだろう」
応接セットから立ち上がり、事業部長は笑いながら軽い調子でそう言って、桂木の背を叩いた。事業部長に礼を述べて頭を下げ、桂木は部屋を下がった。廊下を歩いてエレベーターに向かう、桂木の胸に芙美子のことが浮かんでいた。
失われた十年…と、いつか言い倣わされるようになったバブル後の景気低迷の時代…この一年ほどの間、この国の経済には、微速ながらも、ようやくそれから脱しようとする気配が見えていた。
桂木にとって、今は親会社にあたるこのメーカーでも、製造業の設備投資意欲の向上によって、経営状態は好転し、利益も上がり、決算の数字も大幅に改善した。
しかし、企業の好調さとは裏腹に、雇用は相変わらずの厳しさが続いていた。いずれの会社においても、組織の要求に満たない者や、事情の合わない者は、いまや容赦なく排除される傾向が強まっていた。
そのような時代にあって、桂木はまだ仕合せな方と言えただろう。妻の緋沙子が病に倒れ、闘病生活が長引いていた時、今、目の前にいる事業部長の計らいにより、仕事の負担が少ない子会社の事務部門に転籍し、その後、緋沙子の死や幼い娘の千晴を育てている間、家庭と仕事をどうにか両立させて来られたのだ。
桂木は、カウンターからグラスを取り上げ、佐田が入れてくれたお代わりのビールを、喉に流し込んだ。新しいタバコを口にくわえ、マッチを擦って火をつけた。佐田は、桂木に断って厨房へ引っ込み、フード・メニュー用の食材の仕込みを始めた。
本社を含めたグループ全体の組織再編に伴い、現在、桂木が所属する子会社が、次の決算までに整理の対象になるだろう、と事業部長は明かした後で、桂木に対し、あらかじめ身の振り方を考えておくよう話した。
「君の家庭の事情が許すなら、本社に復籍する機会を、今なら作ってやれるだろう。但し、復籍した以上は、仕事を最優先して働かねばならないことになる。また、次の決算が過ぎた後では、もう手を差し伸べてやることはできなくなるだろう」
事業部長の言葉は、十分に好意のこもったものだった。組織の管理者としては、最大限の配慮を、桂木の人生に対して注いでくれていると言えるだろう。桂木のような立場にある者からすれば、望外のことである。
「あまり時間的な余裕はないと思う。年が明けたら、子会社を整理するための作業が始まる筈だ。それまでの間に今後のことを考え、もし本社への復籍を望むなら、俺に連絡を寄越せ」
即答ができない桂木の事情を思いやって、事業部長はそこで話を打ち切った。まもなく業界団体が主催する忘年会に向かわねばならない、と言って、桂木に退室を促した。
「娘さんのことを考えても、もう一度、身を固める積もりはないのか。そうすれば、君も仕事に没頭できるだろう」
応接セットから立ち上がり、事業部長は笑いながら軽い調子でそう言って、桂木の背を叩いた。事業部長に礼を述べて頭を下げ、桂木は部屋を下がった。廊下を歩いてエレベーターに向かう、桂木の胸に芙美子のことが浮かんでいた。
2005/4/16 20:27
December 2nd week (iii) Without You [Tale 11]
「ひとつのレースで、上位選手が一度に二人も、こんな大怪我をするのは、大変めずらしいことですね」
「その通りだ」
今から十年ほど前、ライダーがコントロールできる範囲を超えて、バイクの高性能化が進み、現役の世界チャンピオンの誰かが、毎年のように転倒による大怪我でシーズンを棒に振る、という事態が続いたことがあった。しかし、現在では、高性能化とコントロール性の容易さを両立させる技術も確立され、ラジアル・タイヤの技術も当時とは比べ物にならないほど進歩している。しかし、それでもクラッシュを、完全になくすことはできない。
もし、今回の事故に遭ったふたりのレーサーに、なにがしか幸いなことがあるとすれば、それは生命を落とすことはなかった、ということだろう。まだ若いふたりには、人生を立て直すだけの時間は、十分残されているのだ。
他方、この自分はどうだ…桂木は、指先にタバコをはさんだまま、グラスを持ち上げた。残り少なくなったビールを飲み干し、佐田にお代わりを頼んだ。
今日の午後、本社に顔を出すようにと連絡をくれたのは、米国駐在当時のシカゴ支社長だった。桂木が入社当時から彼に目を掛け、かつては桂木にビジネスマンとして、飛躍のチャンスを与えて続けてくれていた、現在の事業部長である。
本社を訪ねる仕事を意図的に造り、桂木は用事を終えた後で、事業部長と人払いで面談をした。夏前の株主総会で、取締役へ進んだ事業部長は、久しぶりに会った昔の部下を笑顔で迎え、接客用の応接セットへ招いた。そして、子会社で働いている桂木の最近の様子をいくつか尋ね、その上で彼の身の回りについて、さらに質問を重ねた。
シカゴの駐在時代、早朝に、桂木が当時の支社長室を訪れると、いつも支社長は大きな執務机の向こう側で、総ガラス張りの壁越しに、高層ビル群に目をやりながら、日本との国際電話で綿密な打ち合わせを、次々とこなしていた。本社側の要求事項と、現地の実情が噛み合わず、やや困ったような表情で電話に向かって早口に話している支社長の横顔を、よくオレンジ色の朝日が照らしていた。
あの当時よりやや太った、現在の事業部長は、表情は柔和ながら目だけは厳しくし、桂木の顔を静かに見据え、本社内部の人事動向や、事業の展開および収支について、簡略ながらポイントを踏まえた説明を始めた。
「その通りだ」
今から十年ほど前、ライダーがコントロールできる範囲を超えて、バイクの高性能化が進み、現役の世界チャンピオンの誰かが、毎年のように転倒による大怪我でシーズンを棒に振る、という事態が続いたことがあった。しかし、現在では、高性能化とコントロール性の容易さを両立させる技術も確立され、ラジアル・タイヤの技術も当時とは比べ物にならないほど進歩している。しかし、それでもクラッシュを、完全になくすことはできない。
もし、今回の事故に遭ったふたりのレーサーに、なにがしか幸いなことがあるとすれば、それは生命を落とすことはなかった、ということだろう。まだ若いふたりには、人生を立て直すだけの時間は、十分残されているのだ。
他方、この自分はどうだ…桂木は、指先にタバコをはさんだまま、グラスを持ち上げた。残り少なくなったビールを飲み干し、佐田にお代わりを頼んだ。
今日の午後、本社に顔を出すようにと連絡をくれたのは、米国駐在当時のシカゴ支社長だった。桂木が入社当時から彼に目を掛け、かつては桂木にビジネスマンとして、飛躍のチャンスを与えて続けてくれていた、現在の事業部長である。
本社を訪ねる仕事を意図的に造り、桂木は用事を終えた後で、事業部長と人払いで面談をした。夏前の株主総会で、取締役へ進んだ事業部長は、久しぶりに会った昔の部下を笑顔で迎え、接客用の応接セットへ招いた。そして、子会社で働いている桂木の最近の様子をいくつか尋ね、その上で彼の身の回りについて、さらに質問を重ねた。
シカゴの駐在時代、早朝に、桂木が当時の支社長室を訪れると、いつも支社長は大きな執務机の向こう側で、総ガラス張りの壁越しに、高層ビル群に目をやりながら、日本との国際電話で綿密な打ち合わせを、次々とこなしていた。本社側の要求事項と、現地の実情が噛み合わず、やや困ったような表情で電話に向かって早口に話している支社長の横顔を、よくオレンジ色の朝日が照らしていた。
あの当時よりやや太った、現在の事業部長は、表情は柔和ながら目だけは厳しくし、桂木の顔を静かに見据え、本社内部の人事動向や、事業の展開および収支について、簡略ながらポイントを踏まえた説明を始めた。
2005/4/10 4:48
December 2nd week (ii) Without You [Tale 11]
「もう少しすると真理子が出てきますから」
直近の状態なら、自分より詳しく知っていると思う、と断った上で、佐田は続けた。
「樹里自身の状態は、もう落ち着いているようです」
「そうか」
「折れた足首も、今週、手術をしたそうです。断裂した神経も、多少の時間は掛かっても、元に戻るということです」
「それは良かった」
桂木は、安堵した表情になり、ビールを口へ運んだ。
「一緒に転倒した選手は、どうなったんだろう」
「彼の方は、良くないのです」
「そうなのか」
佐田の言葉に、桂木は眉をひそめた。
「どうも、今後、普段の生活にも支障が出るようなことらしいです」
「そんなにひどいって?」
「先週、裕樹が来ましてね」
彼は一生、車椅子の生活になる可能性が高い、という渡辺の説明を、佐田は桂木に伝えた。桂木は、厳しい表情で口を閉ざし、やがてタバコをゆっくりと吸い込んだ。
「真理子の話では、樹里は自分のことより、そちらの方に、かなりショックを受けている様子です」
「そうだろうな」
樹里本人に落ち度はない。競技のルールに照らしても、危険な行為はいささかもなく、偶発的な事故といえるだろう。たとえ後方からの追突であるとはいえ、レースに身を投じるほどの者ならば、誰もが受け入れている範囲のレーシング・アクシデントに過ぎない。しかし、結果は重大だった。
「樹里のチームメートの方は、どうなんだ?」
「そちらの選手の症状も、決して軽くはないようです」
普通の生活には戻れても、レースへの復帰は難しいだろう、と再び渡辺の説明を、佐田は伝えた。
直近の状態なら、自分より詳しく知っていると思う、と断った上で、佐田は続けた。
「樹里自身の状態は、もう落ち着いているようです」
「そうか」
「折れた足首も、今週、手術をしたそうです。断裂した神経も、多少の時間は掛かっても、元に戻るということです」
「それは良かった」
桂木は、安堵した表情になり、ビールを口へ運んだ。
「一緒に転倒した選手は、どうなったんだろう」
「彼の方は、良くないのです」
「そうなのか」
佐田の言葉に、桂木は眉をひそめた。
「どうも、今後、普段の生活にも支障が出るようなことらしいです」
「そんなにひどいって?」
「先週、裕樹が来ましてね」
彼は一生、車椅子の生活になる可能性が高い、という渡辺の説明を、佐田は桂木に伝えた。桂木は、厳しい表情で口を閉ざし、やがてタバコをゆっくりと吸い込んだ。
「真理子の話では、樹里は自分のことより、そちらの方に、かなりショックを受けている様子です」
「そうだろうな」
樹里本人に落ち度はない。競技のルールに照らしても、危険な行為はいささかもなく、偶発的な事故といえるだろう。たとえ後方からの追突であるとはいえ、レースに身を投じるほどの者ならば、誰もが受け入れている範囲のレーシング・アクシデントに過ぎない。しかし、結果は重大だった。
「樹里のチームメートの方は、どうなんだ?」
「そちらの選手の症状も、決して軽くはないようです」
普通の生活には戻れても、レースへの復帰は難しいだろう、と再び渡辺の説明を、佐田は伝えた。
2005/4/3 10:11
December 2nd week (i) Without You [Tale 11]
「おや、こんな時間にめずらしい」
桂木が、バーのドアを開けて店内へ入ると、佐田が少し驚いたように顔を上げた。すぐに笑顔になり、いらっしゃい、と続ける。
「しばらく」
カウンターの右寄りの席に腰を下ろし、桂木は、佐田が手渡してくれた蒸しタオルを受け取った。もう陽は暮れたから、飲んでもいいだろう、と軽く言って笑う。
「早くから、店を開けてるんだな」
「五時から始めるようにしたんですけど、普段は八時ちかくまで、ほとんどお客さんはみえませんね」
元通り七時からに戻そうかと思案しているところだ、と佐田は説明した。何にするか、と尋ねる。桂木はビールを頼んだ。よければ圭介も飲んでくれ、と言う。
佐田は、冷凍室からよく冷えたグラスを取り出し、サーバーから丁寧にビールを注いだ。泡立ちを十分に整えて、桂木の前にコースターを敷き、その上にグラス置く。いただきます、と自分のためのグラスを桂木に示し、手早くビールを入れる。
「じゃ」
桂木は、軽くグラスを持ち上げた。ふたりはビールを口に運び、喉を湿す。グラスをカウンターに戻し、桂木は佐田に、タバコはあるか、と訊いた。
「タバコ、吸っていたましたか?」
「ずいぶん前に止めたんだけどね。ちょっと吸ってみたくなっただけさ」
桂木は、ビールをもうひと口飲み、佐田が差し出した、たくさんの種類のタバコを入れたバスケットから、比較的軽いものを選んで、ひと箱取り上げた。封を切っている桂木の手許に、佐田が店の名前が入ったマッチを置く。
「久しぶりだと、うまいな」
深く吸い込み、桂木は、時間をかけて煙をゆっくりとはき出した。
「やめられなくなりますよ」
佐田は、自分もタバコくわえ、火をつけながら笑った。カウンターの内側の流し台に両手をつき、どうかしたのか、と真面目な表情になって、桂木に尋ねかけた。
「本社の方に用事があって、午後から行って来たんだ」
「そうか」
「こっちまで戻ってきたら、この時間だから、ここがやっているかと思ってね」
桂木は、灰皿にタバコの灰を落とし、
「樹里は、その後、どうなんだろう」
なにか聞いているか、と続けた。
桂木が、バーのドアを開けて店内へ入ると、佐田が少し驚いたように顔を上げた。すぐに笑顔になり、いらっしゃい、と続ける。
「しばらく」
カウンターの右寄りの席に腰を下ろし、桂木は、佐田が手渡してくれた蒸しタオルを受け取った。もう陽は暮れたから、飲んでもいいだろう、と軽く言って笑う。
「早くから、店を開けてるんだな」
「五時から始めるようにしたんですけど、普段は八時ちかくまで、ほとんどお客さんはみえませんね」
元通り七時からに戻そうかと思案しているところだ、と佐田は説明した。何にするか、と尋ねる。桂木はビールを頼んだ。よければ圭介も飲んでくれ、と言う。
佐田は、冷凍室からよく冷えたグラスを取り出し、サーバーから丁寧にビールを注いだ。泡立ちを十分に整えて、桂木の前にコースターを敷き、その上にグラス置く。いただきます、と自分のためのグラスを桂木に示し、手早くビールを入れる。
「じゃ」
桂木は、軽くグラスを持ち上げた。ふたりはビールを口に運び、喉を湿す。グラスをカウンターに戻し、桂木は佐田に、タバコはあるか、と訊いた。
「タバコ、吸っていたましたか?」
「ずいぶん前に止めたんだけどね。ちょっと吸ってみたくなっただけさ」
桂木は、ビールをもうひと口飲み、佐田が差し出した、たくさんの種類のタバコを入れたバスケットから、比較的軽いものを選んで、ひと箱取り上げた。封を切っている桂木の手許に、佐田が店の名前が入ったマッチを置く。
「久しぶりだと、うまいな」
深く吸い込み、桂木は、時間をかけて煙をゆっくりとはき出した。
「やめられなくなりますよ」
佐田は、自分もタバコくわえ、火をつけながら笑った。カウンターの内側の流し台に両手をつき、どうかしたのか、と真面目な表情になって、桂木に尋ねかけた。
「本社の方に用事があって、午後から行って来たんだ」
「そうか」
「こっちまで戻ってきたら、この時間だから、ここがやっているかと思ってね」
桂木は、灰皿にタバコの灰を落とし、
「樹里は、その後、どうなんだろう」
なにか聞いているか、と続けた。
