2008/7/10 23:45
人生を変える一言 近況
体重95.0kg!
…とはいえ、あまり喜べる数字ではないんですよ。
以前に書いた、友人の死を引きずってて、食事の量がガタ減りしたのが主因ですから。
そもそも運動意欲もなく、やることといえばマタイ受難曲をかけっぱなしにしての読書三昧。数は相当読みましたが、ほとんどが頭の上を通り過ぎただけ。
先週などは、仕事から帰宅するとマタイ受難曲かけっぱなしにして布団のうえで大の字になっていることしかできず。
…このままじゃやべえなあ、パターン的にそろそろ「アレ」が来るだろ。
そんなことを思ってたら、やってきました「アレ」が。
「もう死ぬしかないな」という所謂「希死念慮」です。
先週の金曜、職場を休まざるを得ず、布団の上で「早く死なないと。どうやって死のうか。体面なんかいまさらどうでもいいか。腹をかっさばいてとか思ったが、カミソリで頚動脈を切るのが一番手っ取り早いんだよな実は」ずっとずっと、どう死のうか、そればかりを考えてるんですよ。
…本当なら病院に叩き込んで拘束衣を着せて閉じ込めたほうがいいくらいの状態です。
ひとまず精神安定剤と睡眠薬を飲んで一眠りして気を落ち着かせよう。
うつ暦が長くなると、セルフで医者みたいなことを考えることもできます。
…3時間くらい眠ったでしょうか。横を見たとき、うず高く積みあがっている本の山の中で一冊の本が目に入りました。
「なぜ生きる」1万年堂出版
後半、突然親鸞聖人の言行録っぽくなりましたが、まあそれなりに読んだ。で、次に本の山へ目をやると、今度はフランクルの「それでも人生にイエスと言う」春秋社が目に入ってきました。アウシュヴィッツ収容体験を持ち、「夜と霧」が世界的ベストセラーの精神医。そういや長いこと積ん読だった。これ、最期にすっかと。
昭和21年、終戦直後に行った3回の講演の記録集。
1回目のタイトル「生きる意味と価値」にドキリとした。そして「生きる意味と価値について語るということは、こんにち、これまでにもまして、なくてはならないことになってきているといえるでしょう」
…人間って、いつも同じことを迷ってんだなあ。先日も「生きる意味が分からないという若者が増えている」という内容の記事が配信されていた。
講演の中盤で「自殺の問題」「自殺の四つの理由」というサブタイトルが嫌でも目に飛び込んできた。頷きながら読んでいると、「人生の意味を問う」に対するコペルニクス的大転換をフランクルは行った。すなはち、
「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うのではなく、「人生は私になにを期待しているか」と問うのだと。
そして「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っている。私たちは生きる意味を問うてはならない。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起している。私たちは問われる存在である」の部分で、たっぷり30分ほど考えさせられた。アタマの中がグラグラと揺れ、しまいには煮立ってきた。
そして、二つ目の講演録「病いを超えて」で、私は決定的な文章と邂逅した。
「意識して死に赴いていくというのは、運命の贈り物に違いないと考えました。いまや運命は、私にも意識して死に赴いていくことを許したのです。私は、もう一度自分の闘争心を試すことを許されたのです」
この部分を何百回繰り返し読んだだろうか。黙読し、声を出して読み、がばと跳ね起きて正座をしながら、まるで読経のように、繰り返し繰り返し読み続けた。
時を忘れて、足のしびれも忘れ、いつの間にか涙を流しながら、それでもひたすら声を出して読み続けた。
…オレも、もう一度、自分の闘争心を試しても、いいのだろうか?
誰に問うわけでもなくつぶやいた。答えは、自分の中にしかない。そして既に、自分の中で心は決まっていた。目を閉じると、死んだ友人が頷いてくれた。
頭の中の濃い霧は晴れ、窓の外からは心地よい空気が部屋に入ってくる。
いつの間にか、朝になっていた。「その部分」までの82頁を8時間近くかけて読んだことになる。おそらく「その部分」は数時間読み続けていたのだろう。読書百回というレベルをはるかに超えてはいた。そこからラストまで一気呵成に読んだ。
自分の中の希死念慮は、跡形もなく消え去っていた。
ミルクたっぷりのアイスコーヒー一杯とタバコ3本。
もう一度、自分の闘争心を試してやる。勝負だ。
…とはいえ、あまり喜べる数字ではないんですよ。
以前に書いた、友人の死を引きずってて、食事の量がガタ減りしたのが主因ですから。
そもそも運動意欲もなく、やることといえばマタイ受難曲をかけっぱなしにしての読書三昧。数は相当読みましたが、ほとんどが頭の上を通り過ぎただけ。
先週などは、仕事から帰宅するとマタイ受難曲かけっぱなしにして布団のうえで大の字になっていることしかできず。
…このままじゃやべえなあ、パターン的にそろそろ「アレ」が来るだろ。
そんなことを思ってたら、やってきました「アレ」が。
「もう死ぬしかないな」という所謂「希死念慮」です。
先週の金曜、職場を休まざるを得ず、布団の上で「早く死なないと。どうやって死のうか。体面なんかいまさらどうでもいいか。腹をかっさばいてとか思ったが、カミソリで頚動脈を切るのが一番手っ取り早いんだよな実は」ずっとずっと、どう死のうか、そればかりを考えてるんですよ。
…本当なら病院に叩き込んで拘束衣を着せて閉じ込めたほうがいいくらいの状態です。
ひとまず精神安定剤と睡眠薬を飲んで一眠りして気を落ち着かせよう。
うつ暦が長くなると、セルフで医者みたいなことを考えることもできます。
…3時間くらい眠ったでしょうか。横を見たとき、うず高く積みあがっている本の山の中で一冊の本が目に入りました。
「なぜ生きる」1万年堂出版
後半、突然親鸞聖人の言行録っぽくなりましたが、まあそれなりに読んだ。で、次に本の山へ目をやると、今度はフランクルの「それでも人生にイエスと言う」春秋社が目に入ってきました。アウシュヴィッツ収容体験を持ち、「夜と霧」が世界的ベストセラーの精神医。そういや長いこと積ん読だった。これ、最期にすっかと。
昭和21年、終戦直後に行った3回の講演の記録集。
1回目のタイトル「生きる意味と価値」にドキリとした。そして「生きる意味と価値について語るということは、こんにち、これまでにもまして、なくてはならないことになってきているといえるでしょう」
…人間って、いつも同じことを迷ってんだなあ。先日も「生きる意味が分からないという若者が増えている」という内容の記事が配信されていた。
講演の中盤で「自殺の問題」「自殺の四つの理由」というサブタイトルが嫌でも目に飛び込んできた。頷きながら読んでいると、「人生の意味を問う」に対するコペルニクス的大転換をフランクルは行った。すなはち、
「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うのではなく、「人生は私になにを期待しているか」と問うのだと。
そして「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っている。私たちは生きる意味を問うてはならない。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起している。私たちは問われる存在である」の部分で、たっぷり30分ほど考えさせられた。アタマの中がグラグラと揺れ、しまいには煮立ってきた。
そして、二つ目の講演録「病いを超えて」で、私は決定的な文章と邂逅した。
「意識して死に赴いていくというのは、運命の贈り物に違いないと考えました。いまや運命は、私にも意識して死に赴いていくことを許したのです。私は、もう一度自分の闘争心を試すことを許されたのです」
この部分を何百回繰り返し読んだだろうか。黙読し、声を出して読み、がばと跳ね起きて正座をしながら、まるで読経のように、繰り返し繰り返し読み続けた。
時を忘れて、足のしびれも忘れ、いつの間にか涙を流しながら、それでもひたすら声を出して読み続けた。
…オレも、もう一度、自分の闘争心を試しても、いいのだろうか?
誰に問うわけでもなくつぶやいた。答えは、自分の中にしかない。そして既に、自分の中で心は決まっていた。目を閉じると、死んだ友人が頷いてくれた。
頭の中の濃い霧は晴れ、窓の外からは心地よい空気が部屋に入ってくる。
いつの間にか、朝になっていた。「その部分」までの82頁を8時間近くかけて読んだことになる。おそらく「その部分」は数時間読み続けていたのだろう。読書百回というレベルをはるかに超えてはいた。そこからラストまで一気呵成に読んだ。
自分の中の希死念慮は、跡形もなく消え去っていた。
ミルクたっぷりのアイスコーヒー一杯とタバコ3本。
もう一度、自分の闘争心を試してやる。勝負だ。
2008/7/13 22:06
投稿者:松山 灑落齋
2008/7/11 16:56
投稿者:桃李庵主人
こんにちは。
よい本に出会われたんですね。
>フランクルの「それでも人生にイエスと言う」
>>Trotzdem ja zum Leben sagen<<
どこかで聞いたことがあると思ったら・・・
「不定詞使えば主語を明示せずに『〜する』をタイトルにすることができる」
の例として挙げたことがあったんだ、私が昔。
まだ中身を読んだことはないのですが・・・。
最近カトリック信者の知人に「人間の尊厳」について
面倒な議論をふっかけられて非常に不愉快な思いをしたんですが、
彼は人間を物質的なものに還元する考え方は、
人間から尊厳を奪う、と信じているようでした。
つまり、神の存在を想定しないと人間の尊厳に根拠がなくなる、
と言いたいんでしょうか・・・。
私に言わせるとそういうのは単なる強迫観念です。
人間が物質に過ぎなかったと、かりに、したら、
それがどうしたと言うのでしょうww
もし事実ならば受け入れるしかないでしょ、そんなもんw
それを、「科学の方こそ間違いだ」とは今更言えないもんだから、
「科学と聖書は矛盾しない」ことを《証明》しようとする彼の必死さが痛かったです。
「生きる意味」についての議論もそれに似たところがあります。
実は人生に意味など無いのだ、と何かの方法で判明したとしても、
事実ならば受け入れるよりしょうがないわけです。
「もし意味がなかったら怖いから、あることに決めよう」(願望と事実の混同)
「意味がないってわかったらまずいから、この件について
深く追及するのやめよう・・・」(思考停止)
いずれもいけませんよね、これ。
実際にあろうがなかろうが、
意味のある生き方を探して生きようとする、
また、意味を見出そうとする人を尊重する、
そういうことができるのが人間のスゴイとこなんだ、
と小生は愚考するのです。
そういう意味では神が実際にいてもいなくても一向に気にしないんです、私はw
よい本に出会われたんですね。
>フランクルの「それでも人生にイエスと言う」
>>Trotzdem ja zum Leben sagen<<
どこかで聞いたことがあると思ったら・・・
「不定詞使えば主語を明示せずに『〜する』をタイトルにすることができる」
の例として挙げたことがあったんだ、私が昔。
まだ中身を読んだことはないのですが・・・。
最近カトリック信者の知人に「人間の尊厳」について
面倒な議論をふっかけられて非常に不愉快な思いをしたんですが、
彼は人間を物質的なものに還元する考え方は、
人間から尊厳を奪う、と信じているようでした。
つまり、神の存在を想定しないと人間の尊厳に根拠がなくなる、
と言いたいんでしょうか・・・。
私に言わせるとそういうのは単なる強迫観念です。
人間が物質に過ぎなかったと、かりに、したら、
それがどうしたと言うのでしょうww
もし事実ならば受け入れるしかないでしょ、そんなもんw
それを、「科学の方こそ間違いだ」とは今更言えないもんだから、
「科学と聖書は矛盾しない」ことを《証明》しようとする彼の必死さが痛かったです。
「生きる意味」についての議論もそれに似たところがあります。
実は人生に意味など無いのだ、と何かの方法で判明したとしても、
事実ならば受け入れるよりしょうがないわけです。
「もし意味がなかったら怖いから、あることに決めよう」(願望と事実の混同)
「意味がないってわかったらまずいから、この件について
深く追及するのやめよう・・・」(思考停止)
いずれもいけませんよね、これ。
実際にあろうがなかろうが、
意味のある生き方を探して生きようとする、
また、意味を見出そうとする人を尊重する、
そういうことができるのが人間のスゴイとこなんだ、
と小生は愚考するのです。
そういう意味では神が実際にいてもいなくても一向に気にしないんです、私はw

コメントありがとうございます。
「生きる意味」は生きながらで。孔子も天命を知ったのはずいぶんアトのほうでしたし。
まずは闘争心を燃やして、再び「生き抜く」こと。
挑戦して行きたいと思います。