2008/5/16 23:51
同性愛 分類なし
今週も、日々、自分の周りでも世の中でも様々なことが生じ、それらの事象を通じて僕の心も色々な反応を示した。できるだけ自分が感じたことを共有したいのだが、仕事の話はブログには掲載できないのでもどかしい。
さて、今日のトピックは同姓愛。
ご存知の方も多いと思うが、昨日、カリフォルニア州最高裁が4対3にて同姓婚を認める判決を下した。2003年にマサチュセッツ州が認めて以来、全米で2州目。
4年前に、同性愛カップルに結婚証明書を発行し、それに対し裁判所から無効判決を受けたサンフランシスコ市が、同性愛カップルやその権利団体とともに、州を相手取って訴訟を起していた。
もともと同州においては、civil union制度(日本語で何と訳すのだろう?)という、同性愛カップルにも「一般的な」夫婦とほぼ同等の権利を与える制度が存在していたのだが、それでは不十分であるとの認識に基づいていたとのこと。
具体的には、同最高裁の首席裁判官は、「カリフォルニア州憲法(注:米国各州は独自の憲法を有している。日本の都道府県とは異なり、米国における州の力は非常に強い)は結婚という基本的人権を「全ての」州民に保証するものと解釈されるべきであり、この権利は伝統や多数決といった理由により妨げられてはならないもの」とし、結婚を異性間のカップルに限定した州法は州憲法に違反すると判断した。
同性愛の話は、中絶の話と同様、米国内では非常にセンシティブなテーマであり、かつ、大統領選を含め政治的なアジェンダになるのが常だ。
人種のように見た目でわかることではないため、即ち、隠そうと思えば隠すことができるため、差別される側へのスティグマ(負の烙印)が大きいような気がする。
日本では、最近、同性愛者である芸能人の活躍が目覚しく、人々のパーセプション(見方・考え方)も変わりつつあるような気がする。
勿論、ここまで至る道は平坦なものではなかったであろうが、米国にいると、何と言うか、「権利への飽くなき闘争」と形容すべきものが、よりひしひしと肌身で感じることが多い。
例えば、留学中に、ゲイ・レズビアン部会(caucus)がきちんと公認され、積極的に活動していたし、講演の質疑応答時に大勢の目の前で、「私はレズである。あなたは、同性愛者の権利についてどう考えるか」といった単刀直入な質問をする人も何人か目にした。
僕自身はそういう感覚を今まで有したことがない。
だから、数年前にアメリカに来るまでは、同性愛者の人は「何となく」自分とは異質の存在のように感じていたし、「何となく」遠い存在のように感じていた。
しかし、アメリカで同性愛の人々が権利を主張する姿を目の当たりにした時、僕がそれまで「何となく」有していた感覚は、自分自身で何ら検証していない前提、即ちごくありふれた先入観に基づいていたものでしかないことを、ようやく実感した。
その僕が、今回の判決を知った時に抱いた直感は、
「素晴らしいな」
この一言で表現される。
人を愛することは、ある意味、生きる目的であり、そして生きている証であるような気がする。
愛することが、生きることの十分条件とは思わないが、必要条件であることは間違いない。
そうだとすれば、人に生きる権利を認めることは、人に愛する権利を認めることになる。
そこで、ヘテロの愛と同姓愛とに差異を設ける正当な理由は僕には見当たらない。
勿論、同性愛カップルの存在を認めることと彼(彼女)らの結婚を法的に認めることとは質的に全く異なるだろう。
それでは法的には認めるべきではないのだろうか?
異性間のカップルの間では、(結婚という法的ステータスを敢えて回避する)事実婚も見られるが、大抵のカップルは結婚という形式を選択する。
それは、やはり、僕らが社会で生きていく上で、その関係を世の中に示し、認められることを求めていることの現われなのだと思う。
そうであるとすれば、その気持ちについても、ヘテロの愛と同性愛とで差別化する必然性は感じられないのである。
P.S.
そういえば、全く関係ないのだけれど、先週の日曜日は母の日だった。
僕と妻は二人の母に花を贈った。
カードにはコメントを書かないといけない。
今更長々と書くのは気恥ずかしい。
やはり、「元気でな。」 この一言で十分なのかなと。
皆さんは何か贈られましたか?
2008/5/11 21:32
願掛け 分類なし
ごっ、よん、さん、にっ、いち。
ふぅ。
目の前の階段を上り切った後、息を整えながら、10歩程前へ進む。
左手の壁に刻まれたゲティスバーグ演説の最後のフレーズ
“GOVERNMENT OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE, FOR THE PEOPLE SHALL NOT PERISH FROM THE EARTH..”を一読。
いつも通り、右手を左胸にあて、リンカーン像に向かい目を閉じる。
そして、自分への誓いを心で唱えた後、友へのエールを送る。
今日でちょうど一週間が経つ。
先週末から毎日、自宅とリンカーン像との間を走って往復している。
あと一週間そうするつもりだ。
大切な友の勝負の日が目前に迫っている。
自分と向かい合い、もがいてきたプロセスを知るが故に、そんな友のために何もできない自分がもどかしい。
もっとも万全の準備をしているだろうから、問題はないだろうが。
ある願掛けをすることにした。
生来、僕はきちんとした願掛けということをしたことがない。
もちろん、初詣などでお願い事をすることはあるが、願い事が成就するために縁起を担いだことは記憶にない。
「あいつは必ずやり遂げるだろうから、俺の願掛けなど全く意味はない」とは思いつつも、何となくじっとしてはいられない。
大したことではないのだが、先週末から友の勝負が終わるまで、毎日、自宅とリンカーン像との間を走って往復することにした。
かつ、(自分でも何故だかよく分からないが、)絶対に他のランナーに抜かれない、という条件を付けている。
往復7キロなので、毎日走り慣れている人にとっては大したことないだろう。
ただ、毎日仕事や付き合いがある中で、早朝か晩に「必ず」走ることは、僕にとっては、何ともないこと、とは言えない。
当然雨が降る日も走ることとなる。
そしてそれよりも、条件を付けたが故に、1.5キロほどある直線で気合の入ったランナーと出会うとかなりしんどい。
多分、傍から見ると、僕は必死の形相で走っているだろう。
いずれにしても、学生時代に友とよく聞いていた歌をi-tune storeで何曲か購入し、i-podを手にしつつ、「絶対に大丈夫だ」と心の中で繰り返しながら走る。
とある曲のフレーズ。
「自分の限界がどこまでかを知るために僕は生きてるわけじゃない」
自分で壁を作らない限り、限界はないんだ。
そんなことを地球の反対側にいる友に語りかけつつ、走る。
リンカーン像を背にすると、そこにはワシントンモニュメントが、天に向かってそびえ立っている。
2008/5/8 22:58
雑感 〜ノースカロライナ・インディアナ予備選〜 分類なし
今週火曜日にノースカロライナ・インディアナ両州の予備選が行われた。
結果は、1勝1敗であるが、相対的に代議員数の割り当てが多い前者ではオバマ氏が10ポイント以上の差をつけて大勝したのに対し、後者ではクリントン氏が僅か2ポイント差で振り切った形になっている。
ここまで来ると、勝敗数ではなく、何人分の代議員を獲得できたか、すなわち、両者の差がどれだけ拡大或いは縮小したのか、という点が重要になってくる。
結果はみなさんご存知のとおり。
開票後の演説やその後の出演番組を見ていても、両者の表情には著しい違いがある。
覇気の有無。
報道を見聞きしていると、今回の予備戦後、民主党関係者からは、11月の本戦を視野に入れ、クリントン氏への撤退要求が急激に高まってきている。
陣営の側近が弱気なコメントをし、また、既に戦いは終わったという論調も強い。
しかし、そのような中でも、少なくとも現時点では、クリントン氏は最後まで戦うとコメントしている。
まだuncommitted のスーパー代議員がいることや、ミシガン・フロリダ州の問題が未解決であることをもって、まだ勝機はあると見ているのかもしれない。
「もし、そう思っていなかったら?」とふと思った。
負けると分かっていながら戦いに臨んでいるとしたら?
金も労力もかかるが、何より周囲からの視線に耐えることが非常に辛く感じるだろう。
さっさと徹底しろという視線。どうせ負けるのにという視線。
それでも是が非でもやり抜くと堅く自分に誓っているとすれば、それを支えるものが、自分が大統領候補として最も相応しいという信念にせよ、或いは単なるプライドにせよ、人間としての強さを感じる。
勿論、そんなクリントン氏の内面を知る由はないのだが。
2008/5/7 22:21
ある子供の瞳 分類なし
先日、とあるシンクタンク主催の食糧危機に関するLuncheonに出席。
ゲスト・スピーカーはWFP(国連世界食糧計画)の理事。
ワシントンでは、昼休みを利用し、シンクタンクや大学院によるセミナーがあちこちで開催される。
時宜を得たセミナーであり、大いに学ぶべきところがありそうだったので足を運んでみると、Luncheonなので、当然ながら「食糧」が置かれている。
そういえば、以前友人から、「数あるシンクタンク等の中でも、ここのシンクタンクが提供するランチは質が高い」と聞いたことを思い出す。
ビュッフェ形式なのだが、高級そうな肉や魚が美味しそうに所狭しと並べられている。
肉と野菜をそれぞれ少量とって口にすると確かに美味しい。
食べながら、手交されたプレゼン資料を読むためにパッケージから取り出すと、分厚い資料の表紙にカラー印刷された1人の子供と目が合った。
まだ3歳くらいにしか見えないその子供は汚い布を一枚身にまとい、物欲しげな目で見つめてくる。腹ペコの状態であることが一目瞭然だ。
僕も、あまり「食糧」を口にしておらず、空腹は満たされていなかったのだけれど、その瞬間、何となく食欲が減退し、食べるのを止めてしまった。
その後、会場はほぼ満員になった。
プレゼンの開始まで少し時間があったので、周りの人は皆もぐもぐと食べている。
会場の前面のスクリーンには、資料の表紙と同じ子供の顔がアップで映し出されている。
その子供の物欲しげな視線の先には、綺麗な服を身にまとい、楽しそうに歓談しながら、無料で支給される高級料理をたらふく食べている大人たちがいる。
別に良い子ぶるつもりはない。
偽善者となるつもりも毛頭ない。
ただ、食糧危機、即ち飢餓(HUNGER)のプレゼンの会場で、そのような子供の映像を前にして、もぐもぐ食べることに得体のしれない居心地の悪さを覚えた。
生きていく上で食事をすることは当然のことであるし、僕なぞは、エチオピアやカンボジアなどの超貧困地域を実際に目の当たりにした経験があるにも拘わらず、東京やワシントンにいる時はできるだけ美味しいものを食べたいと思うし、事実(予算の制約はあるものの)そうしてきた。
考えてみると、何の気兼ねもなく堂々と食べていられる人の方が(良い意味で)物事をきちんと割り切って考えているような気もするし、こんな居心地の悪さを感じるのは、自分が中途半端な同情を抱いている、たちの悪い人間である証なのではないかとも思った。
そんなことを感じながら、ようやく始まったプレゼンを聞きながら考えていたのは、恵まれた地域に住む人々(自分も含めて)のうちどれだけの人間が、どれほどの真剣さで喫緊の課題に取り組めるのだろうかということ。
そして、その取り組み方について改善の余地があるとすれば、どのようにすればよいのだろうかということ。
飢餓に限らず、イラク戦争でも気候変動でも何でも良いのだが、これらの問題が生み出す大きくかつ直接的なひずみは貧困国の国民(「支配者」層を除く)の生活という土俵において、大きな皺寄せとなって具現化するのが現実。
その一方で、問題の予防や解決をリードすべき先進国に住んでいると、それを実感することはなかなか難しい。これも現実。
Luncheonには、米国の政府関係者や国際機関職員の顔もちらほら。
非常に賢い人間であれば、たとえリアリティーを感じない状況においても、頭の中で情報と状況を整理し、的確な政策提言と政策決定ができるのかもしれない。
事実、世の中は(全てがそうとは言わないが)そういう人々が大勢いるのだろう。
ただ、リアリティーを感じない状況での政策提言と政策決定には時として危険が伴う。
命に直接関わる場合はなおさらだ。
社会人になってから、ずっと感じている。
ミクロとマクロのフィードバックの大切さ。
とは言え、いちいち考え込んでいても埒が明かないとも思う。
結局は、日頃からアンテナを高くそして広く張り、様々な経験を積み、様々な人に会うというプロセスを繰り返し、様々な切り口から物事を見ようとする訓練をしておくということなのだろう。
至極当然の帰結に落ち着いた。
2008/5/6 22:55
硬貨 分類なし
現在米国議会(下院)で、硬貨に関する法律が審議されている。
現在の資源価格の高騰を受け、硬貨の製造費用も高騰しているらしい。
因みに、米国造幣局(US Mint)によると、ペニー(1セント玉)及びニッケル(5セント玉)の製造費用がそれぞれ1.3セント、7.7セント。
共に額面金額を製造費用が上回っている(確か、日本でも1円玉は製造費用が1円以上だったと記憶しているが)。
法案の内容は、亜鉛と銅の合金で製造されているペニーを鉄(銅メッキ)で、ニッケルと銅の合金で製造されている5セント玉も鉄(ニッケルメッキ)で製造することを可能にするというもの。
額面価格を製造費用が上回る状況を改善するこの法案が通れば、今後10年間でペニーに関しては5億ドル、5セント玉に関しては6千万ドルの節約が可能になると見積もられており、まあそれはそれで良いことなのかなとも思ってしまいそうだが、果たしてどうなのだろうか。
日本では、年に一度、貨幣大試験というものを実施しており、これが通貨の信頼の維持に貢献しているのであるが、「原材料費が上がったから、はい、もっと安い原料で作ってみましょう」という考え方で果たして大丈夫なのだろうかと一抹の不安は覚える。
金属について詳しくはないのだが、今後、鉄の値段があがったら、その次はどの金属になるのだろうか。その場合、見た目は同じでも中身が異なる通貨が複数出回るわけだが、何らの問題もないのだろうか。
まあ、紙幣についても、年々改良されているわけで、特段の問題もなく流通しているから問題はないような気もするが。。。
それにしても、5セント玉は、路上駐車のメーターの足しになるが、ペニーは財布を重くするだけであまり価値を感じない。特にスタバの2ドル弱の買い物でもクレジットカードで済ます米国社会では、1セント玉に刻まれたリンカーン大統領も肩身が狭いような気がしてならない。
特段本件について強い意見はないのだが、現在の資源価格の高騰がこのような形でも日常生活に影響し得るのだなと、少し興味を持ったので紹介してみた次第。
2008/5/5 23:02
刑務所 分類なし
最近は米国経済の減速が衆目を集める対象となっているが、それと対応するように、連邦政府財政のみならず州政府財政も悪化している。
財政が悪化した州において、今、刑務所のあり方が問題となっているようだ。
端的に言えば、収容者の数が刑務所のキャパシティーを超過してしまい(収容率100%超)、新たな刑務所を新設する必要があるのだが、一方で財源が手当てできないために、早期に釈放することが検討されている。
既に幾つかの州では、公に宣言されているらしい。
「刑務所を増設する」というよりも「大学を増設する」と言う方が選挙民に受け入れ易いという事情もあるようだ。
これは非常に難しい問題だ。
財政的制約による理由から、収容者をどんどん外に出したとする。
中にはきちんと更生する者もいるだろうが、統計を見るとそう楽観視することはできない。
このように景気が悪化している中では、彼らが職を見つけることは益々困難になっているであろうから、再犯の確率は上がるだろう。犯罪率が上がれば、その分、企業の誘致はおろか、ビジネスチャンスは減少し、景気にも明らかにマイナスの影響が生じる。
加えて、再犯者が満員の刑務所へ戻って行けば、論理的には別の収容者を外に出す必要が生じるため、刑務所における収容期間は益々短くなっていくものと予想され、それが中長期的には犯罪へのインセンティブを高めることも考えられる。
そして、街は一層すたれ、犯罪の巣窟になるまでデフレスパイラルが続くかもしれない。
犯罪には予防と更生の両面が存在すると思う。
両者は複雑に絡み合っているので明確に分けて考えることは難しいが、教育水準と犯罪発生率は負の関係にあるだろうから、財政状況が逼迫している中で、刑務所ではなく教育施設に資金を投入すべきだという議論もある意味合理的だ。
無い袖は振れない、と諦め、2者択一の中で、エイヤッで物事を決めることも一つの手だが、他に解決策はないのだろうか。
俄かには僕の頭には妙案が浮かんでこない。
因みに我が国の刑務所の現状や予算は米国と比べてどのようになっているか。
世論調査によると、日本の治安を悪化していると考えている国民が多いようだ。そして、かつて日本の誇りの代名詞と位置付けられた治安もそのステータスは相当低下しているようだ。
まず、現状を概観してみる。
年間被収容者もここ数年で激増しており、刑務所の収容率も100%を超えている。
一方で、日本の財政状況は改善状況にあるとは言え、依然として先進国でも最悪の水準にあり、行政改革の一環として、歳出削減・公務員削減が断行されている。
このような厳しい状況の中で、日本政府としては、メリハリを付けた人的基盤や施設の整備に加え、民間活力を導入し、刑務所業務の民間委託やPFI手法の活用によりコスト削減を図って何とか対応している。
次に公表資料を基に刑務所を比較してみる。
日本を1とすると米国の値は、
・ 単位人口当たり犯罪発生件数 約2
・ 受刑者数 約20 (単位人口当たり受刑者数 約9)
・ (未決者も含めた)広義の受刑者数 約28
・ 刑務所職員数 約28 (職員1人あたり受刑者数 約0.6)
・ 予算額 約20 (被収容者1人あたり 約1.3)
このように日米間では大きな差異がある。
米国では日本に比し、明らかに多くの受刑者らが塀の中で生きていることになるので、収容期間を多少短くしても、さほど不合理ではないのではないか、と考えられなくもないが、僕は米国の刑事行政についての知見に乏しいのでここで明確に判断することはできない。
ただ、どうしても違和感を覚えることは、日本であれば、いかに財政的な制約があったとしても、刑事学的な視点から必要であると判断された政策は尊重されるであろうが、ここアメリカでは、州政府が公の場で「財政が逼迫しているので受刑者を早目に釈放します」とコメントできてしまうこと。
苦渋の決断ではあるとは思うが、このように言い放ってしまうと、他に選択肢があるのではないかと思わずうたぐってしまう。
最後に、誤解を招かないために。
ともするとこのような話をしていると治安の強化が前面に出て、あたかも犯罪者は塀の中に閉じ込めておけばよいといった極論が生じがちであるが、当然のことながら「更生」の視点を忘れることはできない。最も理想的なのは、できるだけ刑務所の運営やカリキュラムを可能な限り合理化し、受刑者に反省と再起の念を促すことによって、塀の中で過ごす期間をできる限り短縮し、社会にきちんと復帰させることであると思う。
(読者の皆さんの中に、日頃色々考えられている方がいらっしゃれば、何かの機会に教えていただけると幸いです。)
財政が悪化した州において、今、刑務所のあり方が問題となっているようだ。
端的に言えば、収容者の数が刑務所のキャパシティーを超過してしまい(収容率100%超)、新たな刑務所を新設する必要があるのだが、一方で財源が手当てできないために、早期に釈放することが検討されている。
既に幾つかの州では、公に宣言されているらしい。
「刑務所を増設する」というよりも「大学を増設する」と言う方が選挙民に受け入れ易いという事情もあるようだ。
これは非常に難しい問題だ。
財政的制約による理由から、収容者をどんどん外に出したとする。
中にはきちんと更生する者もいるだろうが、統計を見るとそう楽観視することはできない。
このように景気が悪化している中では、彼らが職を見つけることは益々困難になっているであろうから、再犯の確率は上がるだろう。犯罪率が上がれば、その分、企業の誘致はおろか、ビジネスチャンスは減少し、景気にも明らかにマイナスの影響が生じる。
加えて、再犯者が満員の刑務所へ戻って行けば、論理的には別の収容者を外に出す必要が生じるため、刑務所における収容期間は益々短くなっていくものと予想され、それが中長期的には犯罪へのインセンティブを高めることも考えられる。
そして、街は一層すたれ、犯罪の巣窟になるまでデフレスパイラルが続くかもしれない。
犯罪には予防と更生の両面が存在すると思う。
両者は複雑に絡み合っているので明確に分けて考えることは難しいが、教育水準と犯罪発生率は負の関係にあるだろうから、財政状況が逼迫している中で、刑務所ではなく教育施設に資金を投入すべきだという議論もある意味合理的だ。
無い袖は振れない、と諦め、2者択一の中で、エイヤッで物事を決めることも一つの手だが、他に解決策はないのだろうか。
俄かには僕の頭には妙案が浮かんでこない。
因みに我が国の刑務所の現状や予算は米国と比べてどのようになっているか。
世論調査によると、日本の治安を悪化していると考えている国民が多いようだ。そして、かつて日本の誇りの代名詞と位置付けられた治安もそのステータスは相当低下しているようだ。
まず、現状を概観してみる。
年間被収容者もここ数年で激増しており、刑務所の収容率も100%を超えている。
一方で、日本の財政状況は改善状況にあるとは言え、依然として先進国でも最悪の水準にあり、行政改革の一環として、歳出削減・公務員削減が断行されている。
このような厳しい状況の中で、日本政府としては、メリハリを付けた人的基盤や施設の整備に加え、民間活力を導入し、刑務所業務の民間委託やPFI手法の活用によりコスト削減を図って何とか対応している。
次に公表資料を基に刑務所を比較してみる。
日本を1とすると米国の値は、
・ 単位人口当たり犯罪発生件数 約2
・ 受刑者数 約20 (単位人口当たり受刑者数 約9)
・ (未決者も含めた)広義の受刑者数 約28
・ 刑務所職員数 約28 (職員1人あたり受刑者数 約0.6)
・ 予算額 約20 (被収容者1人あたり 約1.3)
このように日米間では大きな差異がある。
米国では日本に比し、明らかに多くの受刑者らが塀の中で生きていることになるので、収容期間を多少短くしても、さほど不合理ではないのではないか、と考えられなくもないが、僕は米国の刑事行政についての知見に乏しいのでここで明確に判断することはできない。
ただ、どうしても違和感を覚えることは、日本であれば、いかに財政的な制約があったとしても、刑事学的な視点から必要であると判断された政策は尊重されるであろうが、ここアメリカでは、州政府が公の場で「財政が逼迫しているので受刑者を早目に釈放します」とコメントできてしまうこと。
苦渋の決断ではあるとは思うが、このように言い放ってしまうと、他に選択肢があるのではないかと思わずうたぐってしまう。
最後に、誤解を招かないために。
ともするとこのような話をしていると治安の強化が前面に出て、あたかも犯罪者は塀の中に閉じ込めておけばよいといった極論が生じがちであるが、当然のことながら「更生」の視点を忘れることはできない。最も理想的なのは、できるだけ刑務所の運営やカリキュラムを可能な限り合理化し、受刑者に反省と再起の念を促すことによって、塀の中で過ごす期間をできる限り短縮し、社会にきちんと復帰させることであると思う。
(読者の皆さんの中に、日頃色々考えられている方がいらっしゃれば、何かの機会に教えていただけると幸いです。)
2008/5/4 15:19
報道のあり方 分類なし
4月30日のワシントン・ポストの一面に思わず目を覆いたくなるような写真が大きく掲載された。
バグダッドにおける米軍の爆撃により破壊された家の瓦礫の中から息絶える寸前の2歳の少女を父親が抱き上げる写真だ。
掲げられた少女の顔は天を向き、目は閉じられ、口からは血が流れ、完全に意識を失っているのがわかる。この少女は直後に病院で息絶えたとのこと。
その日の朝、僕は、このsensationalな写真を見て、えもいわれぬ感情を抱いたわけだが、ワシントン・ポスト紙の決意のようなものを感じたことも事実だ。
勿論、このような写真の掲載の仕方には賛否両論ある。
例えば、昨日の同紙の読者投稿欄には、3つの意見が掲載されている。
簡単に書くと、
@このような掲載の仕方は反戦・反米感情を増長させること以外何の目的もないばかりか、(写真を目にするであろう)子供たちにとって不適切だ。今後、子供たちがポスト紙を読む前に、親としてチェックする必要がある。
Aポスト紙は落ちるところまで落ちた。これほど残酷な写真は見たことがない。もしこの少女が自分の子供であった場合、あなた(ポスト紙)はそれでも掲載するのか。イラクから帰還する兵士の中には肉体的・精神的サポートを必要とせざるを得ない人々が多く存在する中で、彼らはどのような気持ちでこの写真を見るだろうか。
Bこのような写真を一面に敢えて掲載したポスト紙を賞賛する。安全な場所に住み、このような残虐な出来事に関係のない人々は、このような写真を毎日見るべきだ。ネオコンの人々は別として、我々は真実をしっかりと受け止めるべきだ。
どれもある一面から見れば、理に適った主張であり、理解しようと思えば理解できるものだ。人それぞれ立場が異なれば、意見が異なるのも当たり前で、どのような立場が一概に正しいのか論ずることは必ずしも有益なことではない。
ただ、自分がポスト紙の編集長であった場合、どのような判断を下しただろうか。
そんなことを考えてみる。
日本でも報道の自由は表現の自由の一形態として憲法上保障される権利ではあるが、僕は権利と表裏一体の義務が伴うのは当然のことと考えている。
義務を一言で表すのは難しいが、僕が思うところを簡単に記すと、報道の対象は真実でなければならず、報道の方法は、諸々の事情を考慮した結果、合理的なものでなければならない。
そして、一つ付け加えるとすれば、報道は国民を不当に誘導する(≒バイアスをかける)ものであってはならないが、国民を啓蒙し、時によっては国民のために警鐘を鳴らすものでなければならない。
最後の点について、更に踏み込んで言えば、報道は、国民が知りたいと思うことを(受動的に)知らせることに留まらず、国民が知るべきであると考えられることを(能動的に)知らせる義務を負っていると思う。
このことを通じて、国民は、自ら納得できるバランスの取れた判断を下すことが可能となると思う。
「国民が知るべきであると考えられること」には必然報道側の「判断」が介在せざるを得ないため、そこにある種のバイアスがかかることは回避できない。
そのバイアスが正当化されるには、報道側が信念に基づいて報道していることが必要条件であり、そしてそのバイアスが意義のあるものとなるためには、報道される側(国民)がその信念を理解する程度成熟している(高い意識を持っている)ことが必要条件である(報道側の意図を受け手側が理解していないと、受け手は情報の洪水に翻弄されるだけだ)。
ここで、アフガン、ソマリア等、イラク以外の紛争地域に係る報道のバランスの問題はさておき、ことイラク問題に関しては、その国民による受け止め方に対して、最近の大統領選と同様の側面が見られるような気がする。
すなわち、メディアにより依然として毎日のようにイラクに関する報道がなされてはいるため、頭では今何が生じているのか理解している人々は多いが、一方で開戦から5年以上が経過した今、人々はこのような報道に辟易としており、氾濫する情報を頭で理解するに留め、心への経路、すなわち感情へ転化するプロセスを無意識的に遮断している感がある。
大多数の米国民にとってみれば、自分自身の日常生活とは関係のないところで生じている問題であるが故に、彼らのモラル・意識が必然的に低下してくるのはある意味必然だろう。
(世論調査の一環として「イラク戦争を支持するか、それとも反対するか」という質問を投げかけられれば、それに対して明示的な回答(「反対」が多数)をするが、それをもってイラク戦争について米国民の意識が高いと結論付けることは拙速に違いない。)
ただ、そうは言っても、この地球上のどこかで、自分の国が起こした「戦争」で、自国の兵士のみならず、イラクの人々、特に民間人が数多く命を落としているという事実が厳然と存在する。
ここからは、僕の推測。
ポスト紙は、毎日のように、小規模の銃撃戦から自爆テロ、そして大規模なオペレーションに至るまで、イラクの状況を詳細に報じてきている(米国兵士やイラク人の犠牲者数も日々記載)。
ただ、このような報道努力にも拘わらず、これらの情報が、人々の知りたい情報から特段知りたいと思わない情報へと位置付けが変わってきている現状を憂い、警鐘を鳴らす必要性を感じたのではないか。
人々が心ではなく頭でのみ情報を処理する現状に問題提起したかったのではないか。
今回のポスト紙の写真掲載は、国民が知るべきことを本当の意味で知ってもらうための判断の結果であったと僕は思う。
バグダッドにおける米軍の爆撃により破壊された家の瓦礫の中から息絶える寸前の2歳の少女を父親が抱き上げる写真だ。
掲げられた少女の顔は天を向き、目は閉じられ、口からは血が流れ、完全に意識を失っているのがわかる。この少女は直後に病院で息絶えたとのこと。
その日の朝、僕は、このsensationalな写真を見て、えもいわれぬ感情を抱いたわけだが、ワシントン・ポスト紙の決意のようなものを感じたことも事実だ。
勿論、このような写真の掲載の仕方には賛否両論ある。
例えば、昨日の同紙の読者投稿欄には、3つの意見が掲載されている。
簡単に書くと、
@このような掲載の仕方は反戦・反米感情を増長させること以外何の目的もないばかりか、(写真を目にするであろう)子供たちにとって不適切だ。今後、子供たちがポスト紙を読む前に、親としてチェックする必要がある。
Aポスト紙は落ちるところまで落ちた。これほど残酷な写真は見たことがない。もしこの少女が自分の子供であった場合、あなた(ポスト紙)はそれでも掲載するのか。イラクから帰還する兵士の中には肉体的・精神的サポートを必要とせざるを得ない人々が多く存在する中で、彼らはどのような気持ちでこの写真を見るだろうか。
Bこのような写真を一面に敢えて掲載したポスト紙を賞賛する。安全な場所に住み、このような残虐な出来事に関係のない人々は、このような写真を毎日見るべきだ。ネオコンの人々は別として、我々は真実をしっかりと受け止めるべきだ。
どれもある一面から見れば、理に適った主張であり、理解しようと思えば理解できるものだ。人それぞれ立場が異なれば、意見が異なるのも当たり前で、どのような立場が一概に正しいのか論ずることは必ずしも有益なことではない。
ただ、自分がポスト紙の編集長であった場合、どのような判断を下しただろうか。
そんなことを考えてみる。
日本でも報道の自由は表現の自由の一形態として憲法上保障される権利ではあるが、僕は権利と表裏一体の義務が伴うのは当然のことと考えている。
義務を一言で表すのは難しいが、僕が思うところを簡単に記すと、報道の対象は真実でなければならず、報道の方法は、諸々の事情を考慮した結果、合理的なものでなければならない。
そして、一つ付け加えるとすれば、報道は国民を不当に誘導する(≒バイアスをかける)ものであってはならないが、国民を啓蒙し、時によっては国民のために警鐘を鳴らすものでなければならない。
最後の点について、更に踏み込んで言えば、報道は、国民が知りたいと思うことを(受動的に)知らせることに留まらず、国民が知るべきであると考えられることを(能動的に)知らせる義務を負っていると思う。
このことを通じて、国民は、自ら納得できるバランスの取れた判断を下すことが可能となると思う。
「国民が知るべきであると考えられること」には必然報道側の「判断」が介在せざるを得ないため、そこにある種のバイアスがかかることは回避できない。
そのバイアスが正当化されるには、報道側が信念に基づいて報道していることが必要条件であり、そしてそのバイアスが意義のあるものとなるためには、報道される側(国民)がその信念を理解する程度成熟している(高い意識を持っている)ことが必要条件である(報道側の意図を受け手側が理解していないと、受け手は情報の洪水に翻弄されるだけだ)。
ここで、アフガン、ソマリア等、イラク以外の紛争地域に係る報道のバランスの問題はさておき、ことイラク問題に関しては、その国民による受け止め方に対して、最近の大統領選と同様の側面が見られるような気がする。
すなわち、メディアにより依然として毎日のようにイラクに関する報道がなされてはいるため、頭では今何が生じているのか理解している人々は多いが、一方で開戦から5年以上が経過した今、人々はこのような報道に辟易としており、氾濫する情報を頭で理解するに留め、心への経路、すなわち感情へ転化するプロセスを無意識的に遮断している感がある。
大多数の米国民にとってみれば、自分自身の日常生活とは関係のないところで生じている問題であるが故に、彼らのモラル・意識が必然的に低下してくるのはある意味必然だろう。
(世論調査の一環として「イラク戦争を支持するか、それとも反対するか」という質問を投げかけられれば、それに対して明示的な回答(「反対」が多数)をするが、それをもってイラク戦争について米国民の意識が高いと結論付けることは拙速に違いない。)
ただ、そうは言っても、この地球上のどこかで、自分の国が起こした「戦争」で、自国の兵士のみならず、イラクの人々、特に民間人が数多く命を落としているという事実が厳然と存在する。
ここからは、僕の推測。
ポスト紙は、毎日のように、小規模の銃撃戦から自爆テロ、そして大規模なオペレーションに至るまで、イラクの状況を詳細に報じてきている(米国兵士やイラク人の犠牲者数も日々記載)。
ただ、このような報道努力にも拘わらず、これらの情報が、人々の知りたい情報から特段知りたいと思わない情報へと位置付けが変わってきている現状を憂い、警鐘を鳴らす必要性を感じたのではないか。
人々が心ではなく頭でのみ情報を処理する現状に問題提起したかったのではないか。
今回のポスト紙の写真掲載は、国民が知るべきことを本当の意味で知ってもらうための判断の結果であったと僕は思う。
2008/5/3 23:15
アドレナリン 分類なし
ワシントンDCには、プロスポーツ・チームが一通り揃っており、気軽に試合を観戦することが可能だ。
ただ、どの試合も僕が経験したボストンやNYに比べると盛り上がりがいまいちだ。
ワシントンの都市としての性格上、人の出入りが頻繁で、「故郷」として位置付ける人々が少ないからなのかもしれない。
それと、何となく人が洗練されているというか上品な気がする。
ボストンに居た時は、どのスポーツを観戦しに行ってももの凄い盛り上がり様だった(特にレッドソックスとヤンキースの試合の時は、「暴徒」が結構いて危険な雰囲気すら漂う)。
先日も、シカゴ・カブスの福留孝介選手の観戦も兼ねて、出来て間もないNationals(ワシントンを本拠地とする大リーグのチーム)の球場(National Ball Park)を見学してきた。しかし、ホームランによる本拠地チームのサヨナラ勝ちであったにも拘わらず、それほど観客が盛り上がる感じでもなく、淡々と家路についているようであった。
阪神甲子園球場や千葉マリンスタジアムの外野席でのあの盛り上がりをここワシントンで経験することは無理かなと思っていた。
が、そうではなかった。
NBAのプレーオフに地元Wizardsが今年も進出。
3年連続であのレ・ブロン・ジェームズ率いるクリーブランドCavaliersと対戦。
過去2年は一回戦で敗退している。
2勝3敗で迎えた第6戦。
負ければ第1ステージ敗退が決まる試合を昨日観戦してきた。
これまでNBAに関しては何度も観戦しているが、プレーオフ観戦は初めてだ。
しかも生レ・ブロンが見られる。
逸る気持ちを抑えつつ、会場に到着。
入場口では、いつもは淡々とチケットをチェックするだけの係員から、白いタオルとTシャツを受け取る。
席に着くと、超満員の会場が白一色で埋め尽くされている。
Wizardsのユニフォームの色に皆が合わせている。
早速、スーツを脱ぎ、Tシャツ着用。
劇的な選手入場の後、ジャンプボールで弟1クォーターが始まる。
直ぐにいつもと会場の様子が違うことに気付く。
異様な雰囲気だ。
皆絶叫モード。
シュートが決まると会場中の白いタオルが舞う。
まさに、白い旋風。
防御時には、会場が割れんばかりの「DEFENSE」の声。そしてレ・ブロンがボールを持つ度に大ブーイング。
気付くと、自分も全開モード。
絶叫で喉が枯れんばかりのいきおい。
ここワシントンでもアドレナリンが分泌される瞬間はあるが、スポーツ観戦でここまで分泌したのは久しぶりだ。
残念ながら試合は弟2クォーター以降の失速により、大敗を喫し、第2ステージへは進めなかったが、貴重な高揚感を味わうことができた。
ただ、負ければ今シーズン最後となる試合であっただけに盛り上がったのは必然とも言えるわけで、普段から「馬鹿になれる賢さ」をワシントニアンがもう少し備えていてもいいのではないかと思う次第である。
2008/4/30 23:23
裁判員制度 分類なし
Adrian FentyというDC市長がいる。
1970年生まれの若干37歳ながら、ワシントンDCの行政を一手に引き受けている。
そのフェンティ市長が、昨日、終日裁判所にいたとのこと。
陪審員として裁判所に召喚されたためである。
米国司法制度の専門家ではないので詳細は十分に把握していないが、大まかに言えば、米国では市民の中から無作為抽出で選出された者が、対象となる裁判の約3ヶ月前に陪審員として出廷を命ずる旨の召喚状を受け取る。
指定された日に出廷すると同じく召喚状を受け取った人たちがいる。
彼ら全てが陪審員として裁判に参加するわけではなく、更なる選定プロセスがある。
通常50〜100人程度の「潜在的」陪審員が召喚されプールを構成し、その中から各事件につき通常12人程度が名前を呼ばれ正式に陪審員となる仕組み。
ワシントンポスト紙によれば、昨日陪審員として召喚されたフェンティ市長は、同日発生した発砲事件の報告を警察から受け、ランチタイムとして解放される時間は式典での演説等をこなしながらも、陪審員の義務を終日果たしたとのこと。
結局、彼は、陪審員として選ばれずに終わったとのことだが、何より僕が驚いたのは、市長(DCは州ではないので市長と呼ばれるが、州知事と同レベルの存在)という超多忙の地位にありながらも、陪審員を務めるのは市民として当然であるという価値観がアメリカでは十分に浸透しているという点。
司法における真実発見は市民から成る陪審によってこそ可能であるという考えがここアメリカでは「常識」であり、陪審員による裁判を受ける権利は憲法で保障された権利なのである。いきおい、陪審員として仕える市民の責任も重いものと理解されている。
日本も今月所要の政令が制定され、来年5月から裁判員制度が始まる。
国民の司法参加を実現する同制度が提案されてからかれこれ7年近くになるが、ついに陽の目を見る。
司法の世界では、2年前に法テラスが開設されるなど、その国民へのアウトリーチ活動には僕も関心の目を注いでいる。
僕自身、妻が弁護士ということもあり、恐らく平均的な日本人よりは多少なりとも司法を身近に感じてきたと思っている。
勿論、裁判所に足を運び裁判を傍聴したことは数える程しかないけれど、守秘義務に抵触しない範囲で妻から耳学問として司法を習ってきたし、友人に多くの法曹がいる。
そうは言っても、これまで大きなトラブルに巻き込まれたこともないし、それほど大きなトラブルを起こしたこともないため、「当事者」として裁判所を訪れたことはない。いきおい、司法が自分に身近な存在とはなかなか思えない。
みなさんも同じではないだろうか?
そのような中で、裁判員制度が開始されるということは非常に良い試みだと僕自身は思っている。
裁判員制度の是非を巡り、司法に携わる人々の中には「法律のことをよく知らない『一般人』に任せておけるか」といった思いはあるだろうし、国民(というかメディア)の側からも、象牙の塔に篭っている裁判官がまともな判断ができるのかという声もあるだろう。
ただ、僕はこういう感情的に過ぎる意見に関心はない。
僕が思うのは、司法が国民にとってより身近な存在になることによって、端的に言えば、これまで司法に全く関係のなかった、そして関心のなかった人々が、実際に裁判所に足を運び、事実認定及び量刑の判断プロセスに参加することを通じて、人の一生を左右し得るようなとてつもなく重い責任を伴うコミットメントを行うことが、非常に意義深いものではないかということ。
裁判員制度の下では、よほどの理由がない限り、裁判員として指定されれば、その義務を履行しなければならない。罰則もある。
これは、誰もが他者の人生に向かい合わなければいけない状況が半ば強制的に作り出されることを意味する。
ケースによっては、自分とは全く異なる状況に置かれた他者を目の前にするだろうし、人の人生を左右してしまうような判断のプロセスに関わることを(自分ひとりではないにしても)苦痛に感じることもあるだろう。
裁判所によれば、裁判員には可能な限り「負担」をかけないようにするとのことだが、間違いなく「責任」は重い。
そのような中で、何故、このような事が起きてしまったのか、この人はこれまでどのように生きていたのだろうか、そして今どのように感じているのだろうか、更には今後どのように生きていくのだろうか、そんなことを否が応でも考えざるを得なくなる。
他者へ関心を抱き、なおかつコミットメントをすることは時としてエネルギーがいることであるが、(自分を含め)国民一人ひとりがこの裁判員としての「責任」を果たす過程において成熟していくのではないか、そんな期待を抱いている。
2008/4/27 23:53
命の価格 分類なし
今日からワシントン・ポストで5日間にわたり食料に関する特集が組まれる。
食料といっても料理のことではなく、食糧危機に関するものだ。
第1回目の今日は、食料価格が高騰する仕組みを分かりやすく記載している。
食料の輸出制限、中・印等の新興市場国における肉食普及に起因する穀物需要増、天災、バイオ燃料指向がもたらすトウモロコシ需要増、燃料価格の高騰、ドル安等が誘引となった投機マネーの穀物市場への流入等々、いくつかの主だった原因を挙げ、これらが複合的に絡んでいるとする。
特段目新しいことは記されていないのであるが、食料価格の高騰に喘いでいる数人の話が別途簡潔に書かれている。
みな最貧層に属する人達だ。
その中で、モーリタニアに住む43歳の女性の未亡人の話に触れている。
2人の子供を抱える彼女は、世界に10億人存在するといわれる毎日1ドル以下で生活する人々の1人。小麦価格の高騰により、パン食を諦め、より安価なソルガム(もろこし)に頼ることに。3人で1日50セントに抑えないといけないことから、朝食は抜き。昼食は茶。夕食に汁状のソルガムを食べる。このままだといつまで生き続けられるか分からないという。
世界に、一日2ドル以下、ないし1ドル以下で生活している人々の数というのは、様々なところで耳にするが、ふと思うことがある。
それは、「命の価格」が算出できてしまうという不正義。
この女性の家庭のケースだと、一日1人20セント弱で生きていることになる。
どう考えても上のメニューを見れば、ギリギリの生活。
ここで話を極端に単純化する。
今後も食料価格が高騰し続け、生命維持の観点から必要最低限の食料価格が、彼女の金銭的キャパシティーを越えた場合、例えばそれが仮に1人50セントだとすれば、彼女及び子供たちは、そのたった50セントを賄えないために、命を落とすことになる。
逆に言えば、50セントを支払うことさえできていれば、彼女(及び子供)の人生は1日(ないし数日)延び得たと考えられる。
すると、余命をどのように設定するかにもよるが、理論上、「命の価格」が計算できてしまうのだ。
勿論、この種の話は、飢餓に限った話ではない。
例えば、救命病棟で「今この手術をすれば助かる。ただしこの手術には10億円かかる」と言われ、不幸にも死を受け入れざるを得ない場合、その人の命の価格も理論上10億円以下と判断できる。
恐らく同様なケースは探せばたくさんあるだろう。
ただ、価格が価格だけに、そして何より、このような人々の存在は稀有なものではなく、この地球上に夥しい数溢れているが故に、考えれば考えるほど受け入れがたい奇異な感じが湧いてくる。
もちろん、現実は非常に複雑で、その解決が一筋縄でいくわけがない。
ただ、そこでは、優しさや思いやりといった、「役に立たない」と専門家には一笑に付されてしまうようなものが、原動力になるしかないのではないか、と感じざるを得ない。
「世界がもし100人の村だったら」を再度読んでみる。
自分がいかに恵まれているのかを再度認識する。
そして、レイモンド・チャンドラーによる小説におけるセリフ
“If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.” (「強くなければ生きていけない。優しくなれなければ生きている資格がない」)を思い出す。
自分は人に優しくできているのだろうかと問うてみる。
最後にWFP(国連世界食糧計画)のHPを読んでみる。
知らないこと、していないことがたくさん書いてある。
自分が恥ずかしくなってくる。



