2008/5/16  23:51

同性愛  米国社会


今週も、日々、自分の周りでも世の中でも様々なことが生じ、それらの事象を通じて僕の心も色々な反応を示した。できるだけ自分が感じたことを共有したいのだが、仕事の話はブログには掲載できないのでもどかしい。

さて、今日のトピックは同姓愛。

ご存知の方も多いと思うが、昨日、カリフォルニア州最高裁が4対3にて同姓婚を認める判決を下した。2003年にマサチュセッツ州が認めて以来、全米で2州目。

4年前に、同性愛カップルに結婚証明書を発行し、それに対し裁判所から無効判決を受けたサンフランシスコ市が、同性愛カップルやその権利団体とともに、州を相手取って訴訟を起していた。
もともと同州においては、civil union制度(日本語で何と訳すのだろう?)という、同性愛カップルにも「一般的な」夫婦とほぼ同等の権利を与える制度が存在していたのだが、それでは不十分であるとの認識に基づいていたとのこと。

具体的には、同最高裁の首席裁判官は、「カリフォルニア州憲法(注:米国各州は独自の憲法を有している。日本の都道府県とは異なり、米国における州の力は非常に強い)は結婚という基本的人権を「全ての」州民に保証するものと解釈されるべきであり、この権利は伝統や多数決といった理由により妨げられてはならないもの」とし、結婚を異性間のカップルに限定した州法は州憲法に違反すると判断した。

同性愛の話は、中絶の話と同様、米国内では非常にセンシティブなテーマであり、かつ、大統領選を含め政治的なアジェンダになるのが常だ。
人種のように見た目でわかることではないため、即ち、隠そうと思えば隠すことができるため、差別される側へのスティグマ(負の烙印)が大きいような気がする。

日本では、最近、同性愛者である芸能人の活躍が目覚しく、人々のパーセプション(見方・考え方)も変わりつつあるような気がする。
勿論、ここまで至る道は平坦なものではなかったであろうが、米国にいると、何と言うか、「権利への飽くなき闘争」と形容すべきものが、よりひしひしと肌身で感じることが多い。

例えば、留学中に、ゲイ・レズビアン部会(caucus)がきちんと公認され、積極的に活動していたし、講演の質疑応答時に大勢の目の前で、「私はレズである。あなたは、同性愛者の権利についてどう考えるか」といった単刀直入な質問をする人も何人か目にした。

僕自身はそういう感覚を今まで有したことがない。
だから、数年前にアメリカに来るまでは、同性愛者の人は「何となく」自分とは異質の存在のように感じていたし、「何となく」遠い存在のように感じていた。

しかし、アメリカで同性愛の人々が権利を主張する姿を目の当たりにした時、僕がそれまで「何となく」有していた感覚は、自分自身で何ら検証していない前提、即ちごくありふれた先入観に基づいていたものでしかないことを、ようやく実感した。

その僕が、今回の判決を知った時に抱いた直感は、
「素晴らしいな」
この一言で表現される。

人を愛することは、ある意味、生きる目的であり、そして生きている証であるような気がする。
愛することが、生きることの十分条件とは思わないが、必要条件であることは間違いない。
そうだとすれば、人に生きる権利を認めることは、人に愛する権利を認めることになる。
そこで、ヘテロの愛と同姓愛とに差異を設ける正当な理由は僕には見当たらない。

勿論、同性愛カップルの存在を認めることと彼(彼女)らの結婚を法的に認めることとは質的に全く異なるだろう。
それでは法的には認めるべきではないのだろうか?

異性間のカップルの間では、(結婚という法的ステータスを敢えて回避する)事実婚も見られるが、大抵のカップルは結婚という形式を選択する。
それは、やはり、僕らが社会で生きていく上で、その関係を世の中に示し、認められることを求めていることの現われなのだと思う。
そうであるとすれば、その気持ちについても、ヘテロの愛と同性愛とで差別化する必然性は感じられないのである。


P.S.
そういえば、全く関係ないのだけれど、先週の日曜日は母の日だった。
僕と妻は二人の母に花を贈った。
カードにはコメントを書かないといけない。
今更長々と書くのは気恥ずかしい。
やはり、「元気でな。」 この一言で十分なのかなと。
皆さんは何か贈られましたか?



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