2008/7/2 22:28
眼の力 日常生活
ワシントンに来て以来、毎日、必ず、これまで一度も会ったことのない人々との新たな出会いがある。
毎日訪れる初対面の瞬間に、僕が意識して見ようとするのは、相手の眼。とりわけ眼の奥。
そして意識して感じようとするのは、相手の眼力(めぢから)。
力が強い人もいれば弱い人もいる。
一点に集中している人もいれば分散している人もいる。
一見穏やかだが底からメラメラと燃えるような力を放っている人もいれば、一見ギラギラしているけれど底では霞んでしまっている人もいる。
この街において、自分は幾多の人々に出会ってきた。
中には、グローバルな影響力を行使するような人もいるけれど、眼力というのは、必ずしも肩書きや収入とは明確な相関関係がない、というのが僕の印象だ。
勿論、米国乃至世界の歴史に大きな足跡を残してきた人達の中には、その業績に相応しいと思わず納得してしまうような眼力を持っている人もいるが、やはり必ずしもそうとばかりは言えない。
逆に、市井の一人であっても、その眼の力に思わず感銘を受けざるを得ない人もいる。
どのような人にも心や体のバイオリズムは存在するわけで、一度会ったその瞬間の「眼」だけに基づいてその人となりを判断するつもりは毛頭ない。
ただ、様々な人生背景を有する人間が集まるこの街において、時として他人の思考回路が理解できないこともある中で、人の眼が発する力だけは比較的嘘がないように思えることが多い。
そのような中、僕が個人的に接して感銘を受けるのは、絶対的に力強くて、かつ、決してブレることなく視点が定まっていて、なおかつ、優しさのベールに包まれてはいるけれど、中には「火」というよりも「炎」が存在するような眼。
今日偶然目にしたテレビ番組にアフリカの大地でUNHCRの職員として働く女性が出演していた。
司会者から、「プロフェッショナルであるということはどのようなことを指すと思いますか」と問われた彼女の答えは、
― 自分に常に疑問を投げ掛けられる人間であること
― 自分が属する集団の意識を高められる人間であること
― 永久に終わることのない「道」の上を、一歩でも前に進もうと常に意識していること
僕は、その眼力に感銘を受けてきた人たちをふと思い浮かべつつ、彼らは「プロフェッショナル」なのかもしれないと思った。
毎日訪れる初対面の瞬間に、僕が意識して見ようとするのは、相手の眼。とりわけ眼の奥。
そして意識して感じようとするのは、相手の眼力(めぢから)。
力が強い人もいれば弱い人もいる。
一点に集中している人もいれば分散している人もいる。
一見穏やかだが底からメラメラと燃えるような力を放っている人もいれば、一見ギラギラしているけれど底では霞んでしまっている人もいる。
この街において、自分は幾多の人々に出会ってきた。
中には、グローバルな影響力を行使するような人もいるけれど、眼力というのは、必ずしも肩書きや収入とは明確な相関関係がない、というのが僕の印象だ。
勿論、米国乃至世界の歴史に大きな足跡を残してきた人達の中には、その業績に相応しいと思わず納得してしまうような眼力を持っている人もいるが、やはり必ずしもそうとばかりは言えない。
逆に、市井の一人であっても、その眼の力に思わず感銘を受けざるを得ない人もいる。
どのような人にも心や体のバイオリズムは存在するわけで、一度会ったその瞬間の「眼」だけに基づいてその人となりを判断するつもりは毛頭ない。
ただ、様々な人生背景を有する人間が集まるこの街において、時として他人の思考回路が理解できないこともある中で、人の眼が発する力だけは比較的嘘がないように思えることが多い。
そのような中、僕が個人的に接して感銘を受けるのは、絶対的に力強くて、かつ、決してブレることなく視点が定まっていて、なおかつ、優しさのベールに包まれてはいるけれど、中には「火」というよりも「炎」が存在するような眼。
今日偶然目にしたテレビ番組にアフリカの大地でUNHCRの職員として働く女性が出演していた。
司会者から、「プロフェッショナルであるということはどのようなことを指すと思いますか」と問われた彼女の答えは、
― 自分に常に疑問を投げ掛けられる人間であること
― 自分が属する集団の意識を高められる人間であること
― 永久に終わることのない「道」の上を、一歩でも前に進もうと常に意識していること
僕は、その眼力に感銘を受けてきた人たちをふと思い浮かべつつ、彼らは「プロフェッショナル」なのかもしれないと思った。



