2008/7/4  19:20

「独立記念日」に「独立」ということについて思うこと(前半)  米国政治

今日は7月4日。
アメリカ独立記念日(Independence Day)だ。
232年前の今日、イギリスに対する独立宣言が公布された。

国際社会において、「独立=independence」というと、国家主権(=sovereignty)に関する「狭義の」独立を指すことが多い。
「独立記念日」を祝うことは意義深いことだとは思いつつも、僕としては、本来「独立」とは、もう少し広い意味で捉える必要があるのではないかと考えている。

ここで「国」の独立について述べる前に、「個人」にとっての独立とは何か、という点に言及してみることにしたい。

みなさんにとって、独立すること、とは何だろうか。

金銭的な独立だろうか?
それとも会社経営の独立だろうか?
それとももう少し精神的なものだろうか?

色々な意味での「独立」が観念され得るが、僕がこれから使う「独立」という言葉は、もう少し形而上的かつ抽象的な概念を指す。

それは、社会という関係の中で「個を確立していく過程」

個人の人生においては、成人式、入社式、結婚式、或いは子供の誕生、といった節目がある。
人によっては、これらの節目節目で個が確立されるスピードに加速がかかることもしばしば見られるところである。
しかし、敢えて個を確立する「過程」と定義したように、僕にとって、「独立」とは、ある瞬間に達成されるものではなく、完全無欠な神でもない限り、人生を終えるまで追求し続けるべき「プロセス」なのである。

人は、生まれた瞬間は完全なるdependence(=依存)の状態にある。
周囲の環境、とりわけ親に依存し、社会の恩恵を享受しつつ、時とともに、徐々に個を確立していく。

個を確立していく過程で、人は社会からの恩恵を享受するのみならず、その一員として、社会へ積極的に関与していく義務を負う。
何故なら、その社会は持続的に発展していくことが期待されているからだ。

大雑把に書いてしまったが、詰まるところ、僕は、個々人がindependence(=独立)を追求することにより、その結果として社会における他者とのinterdependenceが生み出されるものと考えている。
ただし、ここで言及するinterdependenceとは、「もたれ合い」という受身のものではなく、もっと能動的な「支え合い」という関係を指している。

多少の脱線を恐れずに書いてしまうと、「人」という字は、一方が他方を支えているようにも見えるし、お互いが背中合わせでもたれ合っているようにも見えるが、interdependenceとはそういったものではなく、Humanの頭文字である「H」という字のように、一人ひとりがしっかりと地に足をつけつつも(=個がある程度確立されつつも)互いに積極的にengage(=関与)することによりもたらされる、より安定的な関係ないし状態として捉えている。

元来、人は個性、すなわち、その人独自の長所や短所を有している。
しかし、interdependenceが成り立つ状況では、それぞれの主体が個を確立していく過程にあるという点では共通しており、そして、その確立の程度に大きな差異はない。
その意味で各主体は、「対等」な存在として位置付けられる。

このような状況では、相互に対するrespect(=敬意)が生まれる。
respectはinterdependenceを更に強化し、その強化されたinterdependenceが更なるrespectを生み出すことになる
このサイクルが継続された場合の最終的な成果物、すなわち最高の形が、bond(=絆)であると僕は考えている。
この関係が実現される時、個々の主体は、究極的にかけがえのない存在になる。

要すれば、independenceとは、ともすれば他者との関係を断ち切り「独り立ちする」というseparation(=隔離)という行為が伴うことを想起させるが、僕の中では、independenceとは、むしろ他者へのengagement(=関与)という行為を伴うものとして位置付けられている。
多分に逆説的ではあるが。


<続く>


※ 徒然なるままに書いたら長くなってしまったので、後半部分は明日掲載します。


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ポトマック川に架かる橋の上から。白い塔はワシントンモニュメント。
雨が断続的に降っており天気は良くない。


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警察がいるにもかかわらず、ドライバーは路上に駐車して花火見物。



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