2008/7/6 22:55
前へ進むということ 米国大統領選
先月、民主党大統領候補が事実上決定して以来、メディアによる大統領選の報道の仕方も少し落ち着いてきた感がある。
ただ、マケイン氏、オバマ氏ともに、夏の党大会、来るべき本選へ向けて着々と地固めを進めている。
そのような中、先週月曜日、モンタナ州インディペンデンス(=「独立」の意)という町において、オバマ氏が、”patriotism(=愛国心)”に関し、30分間にわたるスピーチを行った。
クリントン氏との大接戦を制した後ということもあり、一時見られた“オバマ熱”は落ち着いており、観客が異常な盛り上がりを見せることはなかったものの、僕としては、3月に彼が人種について語って以来の立派なスピーチであると感じた。
(興味のある方はhttp://www.barackobama.com/tv/ を参照下さい)
最近、彼の愛国心について、一部から疑問が呈されていたこと(特に、国民的英雄であるマケイン氏との比較において)に応えたものだが、吐露される彼の心情が直球のように僕の心のミットに納まる。
僕が個人的にいつも感じる彼の特長は、
他の政治家の言葉が、“H to H”すなわち、Head to Head(頭から頭へ)で伝わるのに対し、
彼の言葉は、同じ“H to H”であっても、それがHeart to Heart(心から心へ)で伝わる点にある。
我が国においても、政治家に限らず、経営者でも、教師でも、親でも、オバマ流H to Hのように、「心で語れる」人間が少しでも増えていくことを期待したい。
少し話が脱線した。
「愛国心」という言葉を発した瞬間に「保守」、場合によっては「右寄り」といった安易なレッテル張りが行われてしまう我が国とは異なり、この国では、「愛国心」という言葉が人々を統合する役割を果たすことに若干複雑な羨望の気持ちを感じながらこのスピーチを聞いた。
スピーチの詳細は割愛するが、
このような言葉を織り交ぜつつ、彼にとっての「愛国心」を訥々と語り続ける。
その中で、彼の語るある一節が心に残った。
オバマ氏は、成長するにつれて、この国の不完全性(imperfections)について気付き始める。それは、人種間闘争であり、Watergate事件に見られる政治腐敗であり、ミシシッピデルタ等に見られる極度の貧困であった。
ただし、それでも、アメリカが世界の中で最も偉大な国であると認識するに至った。
何故か。
それは、この国の活力、多様性、自由の価値がこれらの不完全性に優越すると彼自身が思うに至ったからという理由もある。
ただそれだけではない。
それは、彼自身が、この国が偉大である所以は、その完全性にあるのではなく、より良い国になることができると(人々が)信じていることにある、と思うに至ったからでもある。
以上のようなことを内容とする一節だった。
「憲法で読むアメリカ史」(阿川尚之著(PHP新書))を最近読んだ時にも思ったのだが、アメリカという国は、さほど長い歴史は有していないものの、その建国以来の社会を前へ進める力には驚嘆せざるを得ない。
そこには、ある法則が存在するように感じる。
たとえとしては必ずしも適切ではないが、ヘーゲルの弁証法哲学に似ているところがある。
正・反・合のアウフヘーベン。
どの時代、どのイッシューにおいても、この国には様々な見方をする人間が存在してきた。
そして、大抵の場合、賛成と反対という相容れない二つの立場による徹底的な議論を通じて、物事が解決されてきた。
時として、妥協の産物が、更なる社会の火種となり、あるいは停滞を招くこともあった。
しかし、大局的に見れば、そこには単に物事を解決しようとする意思を超えて、それにより社会をより高い次元へと前進させようとする意思が常に存在してきたのではないかと思えてしまう。
勿論、時代背景によって振り子が左右に振れることはあったので、アメリカの社会が直線的に成熟してきたとは思わない。
しかし、その道がジグザグであったとしても、歴史を振り返れば、常に前方へ向かおうとする意思に導かれてきたように思えてならない。
衝突を通じて前進するダイナミクス。
我が国とアメリカとではお国柄が違うと言ってしまえばそれまでだが、見習うべき点も多いと思う。
特に政治。
片方がむやみやたらにNOを発するだけであればそこに前進するための力は生じない。
他方で、もう片方が自らの考え方に固執し過ぎてもそこに前進するための力は生じない。
いずれにしても、理念を示さないままの衝突は迷走以外の何物も生み出さない。
政治の世界に党利党略はつき物であるが、きちんと互いの理念を示し、interactiveで生産的な衝突が必要な気がしてならない。
残念なことに、今の我が国の政治状況は、アメリカのメディアからも、行き詰まりが見られるとの謗りを免れていない。
ただ、災い転じて福となすではないが、政治の更なる成熟という観点からは、やり方次第では好機へと転化することも可能ではないかと個人的には思っている。
ただ、マケイン氏、オバマ氏ともに、夏の党大会、来るべき本選へ向けて着々と地固めを進めている。
そのような中、先週月曜日、モンタナ州インディペンデンス(=「独立」の意)という町において、オバマ氏が、”patriotism(=愛国心)”に関し、30分間にわたるスピーチを行った。
クリントン氏との大接戦を制した後ということもあり、一時見られた“オバマ熱”は落ち着いており、観客が異常な盛り上がりを見せることはなかったものの、僕としては、3月に彼が人種について語って以来の立派なスピーチであると感じた。
(興味のある方はhttp://www.barackobama.com/tv/ を参照下さい)
最近、彼の愛国心について、一部から疑問が呈されていたこと(特に、国民的英雄であるマケイン氏との比較において)に応えたものだが、吐露される彼の心情が直球のように僕の心のミットに納まる。
僕が個人的にいつも感じる彼の特長は、
他の政治家の言葉が、“H to H”すなわち、Head to Head(頭から頭へ)で伝わるのに対し、
彼の言葉は、同じ“H to H”であっても、それがHeart to Heart(心から心へ)で伝わる点にある。
我が国においても、政治家に限らず、経営者でも、教師でも、親でも、オバマ流H to Hのように、「心で語れる」人間が少しでも増えていくことを期待したい。
少し話が脱線した。
「愛国心」という言葉を発した瞬間に「保守」、場合によっては「右寄り」といった安易なレッテル張りが行われてしまう我が国とは異なり、この国では、「愛国心」という言葉が人々を統合する役割を果たすことに若干複雑な羨望の気持ちを感じながらこのスピーチを聞いた。
スピーチの詳細は割愛するが、
「私は、この(大統領選の)キャンペーンにおいて、決して他人の愛国心に疑問を投げかけることはしない。しかし、自分の愛国心に疑問が投げかけられる場合黙って見過ごすつもりもない。」
「愛国心は、特定の政党や政治思想が独占するものではない。」
「私にとっての愛国心とは、単なる地図上の場所や特定の人々への忠誠を超えたものを意味する。それはこの国が掲げる理想への忠誠である。」
「この国の偉大な本質の存在を当たり前のこととして捉えることは安易なことだ。これらが得られた経緯、すなわち歴史を子供たちに教えていくことは我々の責務である。」
このような言葉を織り交ぜつつ、彼にとっての「愛国心」を訥々と語り続ける。
その中で、彼の語るある一節が心に残った。
オバマ氏は、成長するにつれて、この国の不完全性(imperfections)について気付き始める。それは、人種間闘争であり、Watergate事件に見られる政治腐敗であり、ミシシッピデルタ等に見られる極度の貧困であった。
ただし、それでも、アメリカが世界の中で最も偉大な国であると認識するに至った。
何故か。
それは、この国の活力、多様性、自由の価値がこれらの不完全性に優越すると彼自身が思うに至ったからという理由もある。
ただそれだけではない。
それは、彼自身が、この国が偉大である所以は、その完全性にあるのではなく、より良い国になることができると(人々が)信じていることにある、と思うに至ったからでもある。
以上のようなことを内容とする一節だった。
「憲法で読むアメリカ史」(阿川尚之著(PHP新書))を最近読んだ時にも思ったのだが、アメリカという国は、さほど長い歴史は有していないものの、その建国以来の社会を前へ進める力には驚嘆せざるを得ない。
そこには、ある法則が存在するように感じる。
たとえとしては必ずしも適切ではないが、ヘーゲルの弁証法哲学に似ているところがある。
正・反・合のアウフヘーベン。
どの時代、どのイッシューにおいても、この国には様々な見方をする人間が存在してきた。
そして、大抵の場合、賛成と反対という相容れない二つの立場による徹底的な議論を通じて、物事が解決されてきた。
時として、妥協の産物が、更なる社会の火種となり、あるいは停滞を招くこともあった。
しかし、大局的に見れば、そこには単に物事を解決しようとする意思を超えて、それにより社会をより高い次元へと前進させようとする意思が常に存在してきたのではないかと思えてしまう。
勿論、時代背景によって振り子が左右に振れることはあったので、アメリカの社会が直線的に成熟してきたとは思わない。
しかし、その道がジグザグであったとしても、歴史を振り返れば、常に前方へ向かおうとする意思に導かれてきたように思えてならない。
衝突を通じて前進するダイナミクス。
我が国とアメリカとではお国柄が違うと言ってしまえばそれまでだが、見習うべき点も多いと思う。
特に政治。
片方がむやみやたらにNOを発するだけであればそこに前進するための力は生じない。
他方で、もう片方が自らの考え方に固執し過ぎてもそこに前進するための力は生じない。
いずれにしても、理念を示さないままの衝突は迷走以外の何物も生み出さない。
政治の世界に党利党略はつき物であるが、きちんと互いの理念を示し、interactiveで生産的な衝突が必要な気がしてならない。
残念なことに、今の我が国の政治状況は、アメリカのメディアからも、行き詰まりが見られるとの謗りを免れていない。
ただ、災い転じて福となすではないが、政治の更なる成熟という観点からは、やり方次第では好機へと転化することも可能ではないかと個人的には思っている。



