2007/12/2 15:04
聖徳太子非実在説 二つ目の法隆寺 歴史
法隆寺は607年聖徳太子が建立したとされている。
ただ、現存の法隆寺が当時の姿のまま残されていたとされる法隆寺の主張に学会は否定的である。
2004年の年輪年代測定法により法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されている木材は668年から685年に伐採されている事が確定しおり、現存する法隆寺は大凡持統朝時代の再建だろうと言われており、私もそう思う。
ただし、五重塔の心柱の用材だけは594年の伐採と推定されており、再建されたとはいえそれ以前にも法隆寺が存在しいた事もまた確定されている。
ただ、私はこの二つの法隆寺が同じ物だとは思っていない。
蘇我馬子(聖徳太子)が崇峻天皇兄弟を祀る為に建てた法隆寺は一度焼失しているのです。
乙巳の変にて蘇我入鹿(聖徳太子)を暗殺した中大兄皇子は蘇我蝦夷(聖徳太子)邸を取り囲み絶望した蝦夷は火を放ち自殺した。
この建物がズバリ「法隆寺」であり、これが法隆寺焼失の真相と考える。
その後再建されているが、それは同じ処に建てられた別の法隆寺であり、誰かが別の用途で建てた物なのです。
では誰が何の為に法隆寺を再建したのか?
長引かせましたが、これで決着つけます。(爆)
法隆寺が再建されたのは持統天皇の時代と言われている。
この時代は再建前と建築様式が違い「非再建論」はこれを論拠としているが、あくまで「再建」である以上以前の形式に拘るのは寧ろ自然な事であろう。
再建後の法隆寺も以前と同じような建物であり、何より飛鳥時代を代表する人物を祀るのだから当然と言えば当然。
そう、再建された法隆寺で祀られているのは崇峻天皇兄弟ではない。
飛鳥時代を代表する人物聖徳太子=蘇我馬子、蝦夷、入鹿なのです。
そして再建した人物とは、再建された持統朝に突然頭角を現し、その後の日本を裏から牛耳る藤原氏の事実上の始祖藤原不比等、この人以外有り得ません。
藤原不比等は持統朝において最初っからその地位を約束されていた訳ではない。
一般には親(中臣鎌子)の地盤を受け継いだとイメージされがちだが、乙巳の変以降鎌子は一旦歴史の表舞台から消えているし、天智vs天武の戦いもあり、藤原氏(中臣氏)にとっては不遇の時代であった。
ただ、それでも藤原氏が日本の貴族社会に君臨できたのは鎌子が蘇我氏を抹殺したからであり、藤原氏としては蘇我氏を祀らなければならない。
これは日本人特有の「怨霊信仰」という形であり、祀らなければ祟られるが、祀れば一族の繁栄に繋がるという世界では変わった考えであり、日本人以外には理解出来ないかも知れない。
(世界史では抹殺してそれで終わり)
蘇我氏が崇峻天皇を祀ったのもそれが理由であり、その蘇我氏を抹殺した藤原氏もまた蘇我氏を祀らねばならないのです。
聖徳太子信仰は聖徳太子(蘇我氏滅亡)の死後直ぐ生まれたと言うよりは、法隆寺を再建した藤原不比等が始りだと思っている。
無論乙巳の変以降、それに関った中大兄皇子など信仰はあったと思うが、大々的に広まったのは不比等の頃だと思ってます。
あるいは不比等が伸し上がっていく為に蘇我氏を祀らねば周りを納得させる事が出来ず、その為の「再建」とも思われます。
不比等はその後日本書紀編纂において、蘇我氏の善の部分を聖徳太子とし称え信仰させる事で、自ら(藤原氏)を蘇我氏の怨霊から守りそれが藤原氏の繁栄に繋がると考えたのです。
これが聖徳太子の正体です。
ただ、現存の法隆寺が当時の姿のまま残されていたとされる法隆寺の主張に学会は否定的である。
2004年の年輪年代測定法により法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されている木材は668年から685年に伐採されている事が確定しおり、現存する法隆寺は大凡持統朝時代の再建だろうと言われており、私もそう思う。
ただし、五重塔の心柱の用材だけは594年の伐採と推定されており、再建されたとはいえそれ以前にも法隆寺が存在しいた事もまた確定されている。
ただ、私はこの二つの法隆寺が同じ物だとは思っていない。
蘇我馬子(聖徳太子)が崇峻天皇兄弟を祀る為に建てた法隆寺は一度焼失しているのです。
乙巳の変にて蘇我入鹿(聖徳太子)を暗殺した中大兄皇子は蘇我蝦夷(聖徳太子)邸を取り囲み絶望した蝦夷は火を放ち自殺した。
この建物がズバリ「法隆寺」であり、これが法隆寺焼失の真相と考える。
その後再建されているが、それは同じ処に建てられた別の法隆寺であり、誰かが別の用途で建てた物なのです。
では誰が何の為に法隆寺を再建したのか?
長引かせましたが、これで決着つけます。(爆)
法隆寺が再建されたのは持統天皇の時代と言われている。
この時代は再建前と建築様式が違い「非再建論」はこれを論拠としているが、あくまで「再建」である以上以前の形式に拘るのは寧ろ自然な事であろう。
再建後の法隆寺も以前と同じような建物であり、何より飛鳥時代を代表する人物を祀るのだから当然と言えば当然。
そう、再建された法隆寺で祀られているのは崇峻天皇兄弟ではない。
飛鳥時代を代表する人物聖徳太子=蘇我馬子、蝦夷、入鹿なのです。
そして再建した人物とは、再建された持統朝に突然頭角を現し、その後の日本を裏から牛耳る藤原氏の事実上の始祖藤原不比等、この人以外有り得ません。
藤原不比等は持統朝において最初っからその地位を約束されていた訳ではない。
一般には親(中臣鎌子)の地盤を受け継いだとイメージされがちだが、乙巳の変以降鎌子は一旦歴史の表舞台から消えているし、天智vs天武の戦いもあり、藤原氏(中臣氏)にとっては不遇の時代であった。
ただ、それでも藤原氏が日本の貴族社会に君臨できたのは鎌子が蘇我氏を抹殺したからであり、藤原氏としては蘇我氏を祀らなければならない。
これは日本人特有の「怨霊信仰」という形であり、祀らなければ祟られるが、祀れば一族の繁栄に繋がるという世界では変わった考えであり、日本人以外には理解出来ないかも知れない。
(世界史では抹殺してそれで終わり)
蘇我氏が崇峻天皇を祀ったのもそれが理由であり、その蘇我氏を抹殺した藤原氏もまた蘇我氏を祀らねばならないのです。
聖徳太子信仰は聖徳太子(蘇我氏滅亡)の死後直ぐ生まれたと言うよりは、法隆寺を再建した藤原不比等が始りだと思っている。
無論乙巳の変以降、それに関った中大兄皇子など信仰はあったと思うが、大々的に広まったのは不比等の頃だと思ってます。
あるいは不比等が伸し上がっていく為に蘇我氏を祀らねば周りを納得させる事が出来ず、その為の「再建」とも思われます。
不比等はその後日本書紀編纂において、蘇我氏の善の部分を聖徳太子とし称え信仰させる事で、自ら(藤原氏)を蘇我氏の怨霊から守りそれが藤原氏の繁栄に繋がると考えたのです。
これが聖徳太子の正体です。
2008/2/10 2:16
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2007/12/16 12:01
投稿者:あかひで
ごめん、あまり詳しくないのですが、劉禅の場合彼自身が祀っていたのであり、勝者である魏はそれを認めていたに過ぎません。
日本史の特異な点は勝者であり最高権力者である者が率先して祀っている事です。
世界史の場合「根絶やし」は基本ですが、その根絶やしした者たちを権力者が祀っていた形跡はありません。
無論日本史でもほんとは「根絶やし」が其本、ただ形式としては「禅譲」となっており、時の権力者たちはその怨霊を弔う為積極的に祀っている、ここが易姓革命の国中国との違いです。
日本史の特異な点は勝者であり最高権力者である者が率先して祀っている事です。
世界史の場合「根絶やし」は基本ですが、その根絶やしした者たちを権力者が祀っていた形跡はありません。
無論日本史でもほんとは「根絶やし」が其本、ただ形式としては「禅譲」となっており、時の権力者たちはその怨霊を弔う為積極的に祀っている、ここが易姓革命の国中国との違いです。
2007/12/11 0:14
投稿者:おーるど
むかしは中国でも、根絶やしにしたのではなく、滅ぼした相手の祖先を祀るために、一族の誰かを生かしていたのではないでしょうか?
2007/12/11 0:11
投稿者:おーるど
>(世界史では抹殺してそれで終わり)
吉川英二の「三国志」の最後のほうに、滅ぼされた蜀の皇帝・劉禅が、祖先を祀るために生かされていたと書かれていたような。。。
吉川英二の「三国志」の最後のほうに、滅ぼされた蜀の皇帝・劉禅が、祖先を祀るために生かされていたと書かれていたような。。。
2007/12/11 0:03
投稿者:おーるど
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』福澤諭吉の項より。
>現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、1984年(昭和59年)11月1日の新紙幣発行に際して、最初の大蔵省理財局の案では、十万円札が聖徳太子、五万円札が野口英世、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった
>現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、1984年(昭和59年)11月1日の新紙幣発行に際して、最初の大蔵省理財局の案では、十万円札が聖徳太子、五万円札が野口英世、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった
2007/12/5 16:51
投稿者:しんまこ
やはり一万円札は「聖徳太子の顔」が一番合っています。
2007/12/3 19:15
投稿者:あかひで
一万円札は聖徳太子、それも昔のあの聖徳太子像が妥当でしょうね。
福沢諭吉じゃ完全に格下。(笑)
ま、超インフレになって十万円札が出来たら復活してもらいましょう。
福沢諭吉じゃ完全に格下。(笑)
ま、超インフレになって十万円札が出来たら復活してもらいましょう。
2007/12/3 13:48
投稿者:しんまこ
そのうち蘇我の馬子・蝦夷・入鹿の誰かが一万円札になって出てくるんでしょうか?
その前に、いつ「聖徳太子はいませんでした」と世間に広がるんだろうか?
気になる。。。。w
その前に、いつ「聖徳太子はいませんでした」と世間に広がるんだろうか?
気になる。。。。w
2007/12/2 17:48
投稿者:あかひで
高句麗が文化的に日本より先進国だったかどうかは判りませんが(笑)
正確には「隋」ですが主に百済から流れてきた建築様式の中で尺度だけが高句麗式だったのは事実みたいです。
再建された時期は既に「唐尺」の時代でしたが、あえて「高麗尺」で再建されたとしてもおかしな話しではないでしょう。
壁画を書いたのが誰かまでは判りません。(笑)
正確には「隋」ですが主に百済から流れてきた建築様式の中で尺度だけが高句麗式だったのは事実みたいです。
再建された時期は既に「唐尺」の時代でしたが、あえて「高麗尺」で再建されたとしてもおかしな話しではないでしょう。
壁画を書いたのが誰かまでは判りません。(笑)
