2008/6/24 13:29
展覧会レポ Emily Kame Kngwarreye 文化・芸術
消えた・・・orz
途中まで書きかけてたのに、
いきなりポンコツAOLが落ちて、
この記事の下書き ぜーんぶ消えてもうた。
もうぐれたい(涙)。
グズってても仕方ないので、
頑張ってもう一回書きます。
久々お届けするのは展覧会レポ!
アボリジニの天才画家、
Emily Kame Kngwarreye展@国立新美術館です。
オーストラリアの先住民族アボリジニのアートと言えば、
昨年のシドニー滞在期間中にも
Circular Quayの現代美術館で開催された
Paddy Bedford展、
NSW州立美術館の地階に設置されている
アボリジニ・アート 常設コーナーなどで
見たことがあるんですが
誤解を恐れずに告白すると、
当時は そこまで強い興味が持てなかったし、
何より 西洋美術の系譜とは何ら関係を持たない
彼らの作品が、
かの地のインベーダーの手になる”美術館”に
納められていること自体に違和感を覚え、
なんとなく消化不良のまま 今日まで来てしまいました。
・・・てなことを言うと、
「また 細かいこと ゴチャゴチャ言い出しやがって」と
怒られるかもしれないのですが、
実際、今回のEmily Kame Kngwarreye展についても、
似たような内容の批判がネット上に
散見されるわけであります。
(たとえば、
西洋絵画との比較というtermでしか
Emilyの絵画を捉えることが出来ない
企画者側の発想の貧困さへの批判、あるいはまた、
西洋美術との対比という手段を用いて
彼女の絵を賛美することにより、
建国間もない オーストラリアという国の文化的地位を高め、
更には同化政策という 忌まわしい過去さえも
清算しようとしているのではないか・・・という憶測、
などなど)
当然ながら、 こうした事柄を考察するために
延々ネットサーフィンを続けていこうものなら、
必然的に 我が国 日本が抱える問題にも
目を背けることが出来なくなってくるわけで。。。
■もう こうなってくると
「精神的に参ってきたから 見に行かない」という
結論になっても おかしくはなかったんですが、
釘付けになっちゃったのが この1枚

Emilyが 死の間際に描いたアクリル画、
「無題 (アルハルクラ)」。
大きな刷毛によって置かれた、この白の美しさよ。
これを とある美術番組で見て以来、
もう どうにもこうにも
「ちょっと行ってみて 自分の目で確かめてこにゃならん!」
という気になってしまったのです。
結果として ホンット見に行ってよかったんですけども。
■もういっちょ

「カーメ、夏のアウェリエ」 1991年の作。
繰り返される 鮮やかな点描。
トップの カーマイン・イエローは
眩しい陽光か、新しい命か。。
作者のEmily Kngwarreyeは、1910年ごろ誕生。
他のアボリジニの人々同様、
白人入植者による農場労働の強要や、
養女に迎えた混血の娘を 同化政策によって
収容所に連れ去られるという苦難を経験します。
70年代に入ると
バティック(ろうけつ染め)の制作を始めますが、
その才能を発揮したのは1990年代、
Emily御年80歳にしてアクリル画を制作し始めてからのこと。
アボリジニ文化(殊にDreamingと呼ばれる、
アボリジニ特有の世界観)という
強いバックボーンを保持しつつも
自由闊達で変幻自在なスタイルを持つEmilyの絵画は、
瞬く間に世界中で評価されるようになります。
その後 亡くなるまでの8年間で
幅8mを超える巨大な作品も含めて3000点もの絵画を
制作したのですから、そのパワーたるや驚異的としか
言い様がありません。
Emilyの画業は、その始まりこそ
バティックや ボディペインティングに見られる、
所謂 線描の上に行儀良く配置される点描、
赤茶・黒・黄・白の配色・・・という、
「いかにも」な作品が多いのですが、
じきに そうした 慣習的決まりごとからの
逸脱が始まります。
背景の線を凌駕する、
鮮やかな点描のシンフォニーのような作品。
隣り合った点描の境界が曖昧になり
やがて複数の色面同士の競演へと変貌した作品。
一転、その鮮やかな色彩が消え、
簡潔なストライプのみで表現された作品。
そして、死期の2週前に描かれた、
幅広の刷毛で描かれた 故郷(アルハルクラ)の絵。。。
会場となった 国立新美術館の巨大で近代的な空間を
ものともせず、設置されているEmilyの作品たちの持つ
力強さには ただただ圧倒されました。
特に 初期の黄色い長いバティックの展示
(空から 光か何かが舞い降りてくるようだった)、
大地の創造を描いた 4枚パネルからなる緑鮮やかな作品、
そしてこの記事冒頭の写真、あの1枚ね。
うまく言葉が見つからないんだけど、
ちゃんと物事が「見えてる」人の作品だなぁと。。。
もう凄いの一言だわ。
企画者の人が
「西洋美術とは何ら接点がなかった
Emilyの作品が持つ近代性は奇跡的だ」
とか なんとか言っちゃった気持ちも
まぁ 少しはわかるんだよな。。
恐らく彼が言わんとしている 本当のところは、
世間一般のステレオタイプにある
プリミティブ・アートだとか、工芸品だとか
そういった枠組みを、
いかにEmilyの作品が楽々と越え、
Universalな力を獲得しているか。。。
ってところなんだろうと思います。
複雑な背景を出自に持つ人であるだけに、
見れば見るほど 考えさせられる展覧会ではありましたが、
オーストラリアのあの赤い大地に、
じかにキャンバス地を広げて 座り、
黙々と、ニコニコと、絵の具を置き続けた
Emilyの姿を想うにつけ、
私という人間は まぁなんとちっぽけなのだろうと、
月並みな言葉が口をついて 出てしまう、
そんな今日この頃だったりするのです。

「絵を描くことは好きだよ。お金が貰えるからね。
そして それを皆に分けることが出来る。」
「私が描くのは 全てのもの。whole a lot、全てのものだよ」
Emily Kame Kngwarreye 展。
国立新美術館にて7月28日まで開催中。
休館は火曜だから要注意ね。是非是非!
途中まで書きかけてたのに、
いきなりポンコツAOLが落ちて、
この記事の下書き ぜーんぶ消えてもうた。
もうぐれたい(涙)。
グズってても仕方ないので、
頑張ってもう一回書きます。
久々お届けするのは展覧会レポ!
アボリジニの天才画家、
Emily Kame Kngwarreye展@国立新美術館です。
オーストラリアの先住民族アボリジニのアートと言えば、
昨年のシドニー滞在期間中にも
Circular Quayの現代美術館で開催された
Paddy Bedford展、
NSW州立美術館の地階に設置されている
アボリジニ・アート 常設コーナーなどで
見たことがあるんですが
誤解を恐れずに告白すると、
当時は そこまで強い興味が持てなかったし、
何より 西洋美術の系譜とは何ら関係を持たない
彼らの作品が、
かの地のインベーダーの手になる”美術館”に
納められていること自体に違和感を覚え、
なんとなく消化不良のまま 今日まで来てしまいました。
・・・てなことを言うと、
「また 細かいこと ゴチャゴチャ言い出しやがって」と
怒られるかもしれないのですが、
実際、今回のEmily Kame Kngwarreye展についても、
似たような内容の批判がネット上に
散見されるわけであります。
(たとえば、
西洋絵画との比較というtermでしか
Emilyの絵画を捉えることが出来ない
企画者側の発想の貧困さへの批判、あるいはまた、
西洋美術との対比という手段を用いて
彼女の絵を賛美することにより、
建国間もない オーストラリアという国の文化的地位を高め、
更には同化政策という 忌まわしい過去さえも
清算しようとしているのではないか・・・という憶測、
などなど)
当然ながら、 こうした事柄を考察するために
延々ネットサーフィンを続けていこうものなら、
必然的に 我が国 日本が抱える問題にも
目を背けることが出来なくなってくるわけで。。。
■もう こうなってくると
「精神的に参ってきたから 見に行かない」という
結論になっても おかしくはなかったんですが、
釘付けになっちゃったのが この1枚
Emilyが 死の間際に描いたアクリル画、
「無題 (アルハルクラ)」。
大きな刷毛によって置かれた、この白の美しさよ。
これを とある美術番組で見て以来、
もう どうにもこうにも
「ちょっと行ってみて 自分の目で確かめてこにゃならん!」
という気になってしまったのです。
結果として ホンット見に行ってよかったんですけども。
■もういっちょ
「カーメ、夏のアウェリエ」 1991年の作。
繰り返される 鮮やかな点描。
トップの カーマイン・イエローは
眩しい陽光か、新しい命か。。
作者のEmily Kngwarreyeは、1910年ごろ誕生。
他のアボリジニの人々同様、
白人入植者による農場労働の強要や、
養女に迎えた混血の娘を 同化政策によって
収容所に連れ去られるという苦難を経験します。
70年代に入ると
バティック(ろうけつ染め)の制作を始めますが、
その才能を発揮したのは1990年代、
Emily御年80歳にしてアクリル画を制作し始めてからのこと。
アボリジニ文化(殊にDreamingと呼ばれる、
アボリジニ特有の世界観)という
強いバックボーンを保持しつつも
自由闊達で変幻自在なスタイルを持つEmilyの絵画は、
瞬く間に世界中で評価されるようになります。
その後 亡くなるまでの8年間で
幅8mを超える巨大な作品も含めて3000点もの絵画を
制作したのですから、そのパワーたるや驚異的としか
言い様がありません。
Emilyの画業は、その始まりこそ
バティックや ボディペインティングに見られる、
所謂 線描の上に行儀良く配置される点描、
赤茶・黒・黄・白の配色・・・という、
「いかにも」な作品が多いのですが、
じきに そうした 慣習的決まりごとからの
逸脱が始まります。
背景の線を凌駕する、
鮮やかな点描のシンフォニーのような作品。
隣り合った点描の境界が曖昧になり
やがて複数の色面同士の競演へと変貌した作品。
一転、その鮮やかな色彩が消え、
簡潔なストライプのみで表現された作品。
そして、死期の2週前に描かれた、
幅広の刷毛で描かれた 故郷(アルハルクラ)の絵。。。
会場となった 国立新美術館の巨大で近代的な空間を
ものともせず、設置されているEmilyの作品たちの持つ
力強さには ただただ圧倒されました。
特に 初期の黄色い長いバティックの展示
(空から 光か何かが舞い降りてくるようだった)、
大地の創造を描いた 4枚パネルからなる緑鮮やかな作品、
そしてこの記事冒頭の写真、あの1枚ね。
うまく言葉が見つからないんだけど、
ちゃんと物事が「見えてる」人の作品だなぁと。。。
もう凄いの一言だわ。
企画者の人が
「西洋美術とは何ら接点がなかった
Emilyの作品が持つ近代性は奇跡的だ」
とか なんとか言っちゃった気持ちも
まぁ 少しはわかるんだよな。。
恐らく彼が言わんとしている 本当のところは、
世間一般のステレオタイプにある
プリミティブ・アートだとか、工芸品だとか
そういった枠組みを、
いかにEmilyの作品が楽々と越え、
Universalな力を獲得しているか。。。
ってところなんだろうと思います。
複雑な背景を出自に持つ人であるだけに、
見れば見るほど 考えさせられる展覧会ではありましたが、
オーストラリアのあの赤い大地に、
じかにキャンバス地を広げて 座り、
黙々と、ニコニコと、絵の具を置き続けた
Emilyの姿を想うにつけ、
私という人間は まぁなんとちっぽけなのだろうと、
月並みな言葉が口をついて 出てしまう、
そんな今日この頃だったりするのです。
「絵を描くことは好きだよ。お金が貰えるからね。
そして それを皆に分けることが出来る。」
「私が描くのは 全てのもの。whole a lot、全てのものだよ」
Emily Kame Kngwarreye 展。
国立新美術館にて7月28日まで開催中。
休館は火曜だから要注意ね。是非是非!
2008/6/24 20:25
投稿者:もりを
2008/6/24 16:53
投稿者:サマー
また素敵なアーティストに出会えたね。そしてThanks for sharing!!
最後の作品名はなんていうのかな?黒い布地の上に無造作に紐を置いたみたいに見えるけど、なんか好きです。
最後の作品名はなんていうのかな?黒い布地の上に無造作に紐を置いたみたいに見えるけど、なんか好きです。









いつもコメントありがとう♪
最後の1枚、作品名載せるの忘れてた(汗)
Big Yam Dreamingという作品で、95年制作だそうです。これ、たて291.1cm、横801.8cmの巨大なアクリル画なんだけど、なんと2日で仕上げたらしいよ。凄いよねぇ。。モチーフはEmilyが自らが司ると信じている、地底に絡まるヤムイモのrootsや、大地のひび割れを表したものらしい。知らないで見ると「抽象画」って皆思うけど、アボリジニの人たちにしてみると、ちゃんと見えてるモノを描いてるんだってところが面白いよね。