2008/8/20  22:30

友へ  分類なし

Uコリント人への手紙 13章13節
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

友人達に対して、どういう言葉贈りたいですか?と聞かれたなら、私はこの御言を贈りたいです。
物や地位や名誉や、人が欲しがる様々なものがありますが、それらが必ずしもその人を助けるとは限りません。
むしろそれらによって苦しむことの方が多いかもしれません。
しかし、主イエス様の恵み、それはまさに神様の愛であり、神の霊である聖霊の助けがあることの方がずっと必要なのです。
多くの友人達、また出会った人々に、こんな時代だからこそ、この御言を贈りたいと思うのです。
悩みや試練に出会った時、どうか主の恵みが覆ういますように。
苦しみで崩れそうになった時に、どうか神様の愛が支えてくださり、そこを通りぬける知恵と力を与えられますように。
悲しむ者と共に悲しみ、喜びを共に喜んでくださる聖霊が、いつも励ましてくださいますように。
このブログを読んでくださっている皆さんに、この御言を贈ります。

2008/8/19  17:28

たとえ闇があっても  分類なし

イザヤ書 60章2−3節
見よ。闇が地をおおい、
暗闇が諸国の民をおおっている。
しかし、あなたの上には主が輝き、
その栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光のうちを歩み、
王たちはあなたの光に照らされて歩む。


この地上には暗闇があります。
人の罪の渦巻くところは、まさに暗闇でしょう。
イザヤ書は預言の書ですが、この光とは神様の栄光の光であると同時に、イエス様のことさしています。
イエス様は、一人一人の魂を罪から解放するために来てくださいました。
罪を赦すために来てくださいました。
それを受け取るなら、この世のどんな暗闇も恐れることはありません。
私たちは弱さのゆえに闇に負けるものですが、絶対に勝つことができるイエス様を信じていくなら、この人生には光があふれるでしょう。
闇を恐れるのではなく、そこから救ってくださるお方がいるということを信じていきましょう。

2008/8/18  22:46

希望は主に  分類なし

ヘブル書 10章23−24節
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。


人が不安になるのは、不確かなものに期待するときです。
不確かなものとはなんでしょか。
それは自分です。
私たちに真実なる約束をしてくださり、希望を与えてくださるのは神様ご自身です。
この小さな私が確かなのではありません。
確かさの根本は神様にあります。

神様はこのような人間に、様々なことを託してくださいました。
この地上のあらゆるものを治めるように託してくださいました。
しかし人間は、それを自分の私利私欲のために用いようとします。
そうするとそこには不安定さや不確かさがでてきます。
一生懸命にやる人だってたくさんいるじゃないかといわれるかもしれません。
勿論それは大切なことです。
ただ、その一生懸命の土台をどこにおいているかで違ってくるのです。

真実なら神様に土台を置いて、自分にではなく神様の与えてくださる希望を胸に歩む時、そこには揺ぎ無い喜びがあります。
人間はちょっと油断するとすぐに横道にそれてしまいます。
ですから、私たちは毎日聖書に尋ねていくことが必要なのです。

2008/8/17  18:02

欺きは自分に返る  分類なし

詩篇 120編3−4節
欺きの舌よ。
おまえに何が与えられ、
おまえに何が加えられるのか。
勇士の鋭い矢、
それに、えにしだの熱い炭火だ。


人が嘘や欺きの言葉を全く言わないということはないでしょう。
誰でもそういうことはあると思います。
しかしそういう欺きの言葉を吐くことは、誰でもない自分自身を痛めることになります。
偽り(欺き)は、相手を損なうばかりでなく、自分に返ってくるものです。
一つの偽りから、とんでもなく大きな問題になってしまうこともたくさんあります。
それが人の命にまで関わるようなことになることもあるでしょう。
そこまでいかなくても、信頼を失ったり、友人を失ったりすることもあります。

神様は偽りを嫌われます。
誰であろうと、偽りは、いう人の心をゆがめてしまうからではないでしょうか。
私たちを愛してくださる神様は、私たちが自分で自分を損ねることをとても悲しまれます。
人間ですから偽りを言ってしまう時があるかもしれません。
その時には、聖なるイエス様に告白し正していただこうではありませんか。

2008/8/16  20:47

御翼の陰に  分類なし

詩篇 63編6−8節
ああ、私は床の上であなたを思い出し、
夜ふけて私はあなたを思います。
あなたは私の助けでした。
御翼の陰で、私は喜び歌います。
私のたましいは、あなたにすがり、
あなたの右の手は、私をささえてくださいます。


床の上、夜更けて・・・一日の終わりにその日の様々を思い返すものです。
今日はあんなことがあったなとか、あのことはどうなのかな?とか、そういう思いめぐらすことは、夜一人になった時に頭の中を巡ることがあります。
そんな時に神様を思えることは幸いです。
あんなことがあったけれども、あれもこれも神様の恵みだったな〜と思えたら、様々なことが感謝になります。
神様の御翼の陰に隠されているように、困難から守られていることを思うと、喜び賛美せずにはおられません。
そのように一日を終わることができること、また振り返ることができるなら、魂は平安の中に住まうことができます。
神様の平安とはそういうことではないでしょうか。

2008/8/15  21:14

本当の神  分類なし

イザヤ書 46章10節
わたしは、終わりの事を始めから告げ、
まだなされていない事を昔から告げ、
「わたしのはかりごとは成就し、
 わたしの望む事をすべて成し遂げる」と言う。


神様は、この宇宙を創造し人間を創造されました。
動物も植物も、水も光も全て主の業です。
人間は傲慢になり、なんでも自分達が知っているかのように錯覚します。
しかし本当に全てを御存知なのは、神様お一人です。
聖書では、その唯一なる絶対の神様に従うことを示しています。
これ以上に確かなお方が他にいるでしょうか?

人間は長い歴史の中で、多くの神を作ってきました。
様々な宗教があり、様々な偶像信仰があります。
しかし本当に全てを造られたのは、唯一の神です。
これを決して忘れてはならないと思います。
このお方を信じ歩む道は確かです。

2008/8/14  21:28

心低く  分類なし

マルコによる福音書 9章35節
イエスはお座りになり、十二弟子を呼んで、言われた。「誰でも人の先に立ちたいと思うなら、みんなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

誰でも人は、他者の下にいたいとは思いません。
そのことにどのくらいの思い入れをもっているかは個人差があると思いますが、多かれ少なかれ他者から尊敬されたいし、上の位置にいたいと思うのではないでしょうか?
十二弟子達もそれは同じでした。
イエス様と一緒にいながら、誰が一番上かを論じあっていたのです。
それに対してイエス様はこの節のようにお話されました。
人の上に立つということは、本当はとても苦労なことですし、犠牲を払う覚悟がなければ人の上には立てません。
ただ威張り散らして横柄に振舞って権力を誇示するものを、誰が尊敬し敬うでしょうか?
たとえ見えるところ従っていても、それは心からではありません。
本当に人に先んじる者になりたいと思うなら、自分を捨てて心から仕えていく人になれば、回りの人はおのずとその人をリーダーとしていくでしょう。
人間には信頼関係というのが、とても大きな要素として必要なのです。
信頼関係は、力の関係ではありません。
単に力だけある人(お金とか権力とか地位など)を上にするのは、する側の保身です。
しかし本当にこの人に任せたい!と思うのは、その人の持っている人間性、人格そのものに信頼できるかどうかなのではないでしょうか。
上に立つことだけを目当てとしている人は、心を忘れます。
イエス様がそのようにされたように、私たちも神様を信頼し、弱い者に心を向けられる者でありたいですね。

2008/8/13  20:27

信じて祈る  分類なし

マルコによる福音書 9章23−24節
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」


悪霊に憑かれた子供の親がイエス様のところにやってきます。
この子を救って欲しいと頼みますが、イエスの業に対して「もし、おできになるなら、私たちを哀れんでください」と頼みます。
そこでイエス様はこの節の言葉を言われます。
この子の父親は自分のお願いを遠慮してそのように言ったのかもしれません。
私たちも祈る時に、「神様、もしこうしていただけるなら」とか「神様にこのようにお願いするのはどうかと思うのですが」などと祈っていないでしょうか?
全能なる神様に向って「もし、おできになるなら」と言ってないでしょうか?
神様は全てを成すお方です。
私たちの祈りが、本当に神様を信じて祈るなら、主はその祈りに答えられます。

すぐに自分の間違いに気づき悔い改めたこの父親の子は癒されます。
イエス様は意地悪でこのように問いかけられるのではありません。
本当に信じるか!と私たちの曖昧さを正されるのです。
聞く前から私たちがどうしてほしいかなどは、とっくにイエス様には分かっておられます。
けれでも口できちんと告白していくことは、自分自身にとっても確認する大切な順番なのです。
「もし、おできになるなら」などといわないで、信じて祈りましょう。

2008/8/12  20:13

主の元に留まる  分類なし

詩篇 57編2−3節
私はいと高き方、神に呼ばわります。
私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。
神は、天からの送りで、私を救われます。
神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。
神は恵みとまことを送られるのです。


神様は、ご自分への信頼を寄せる者を必ず守られるお方です。
心から主に信頼し、主の名を呼ぶ者を決して見捨てられません。
その人が道からそれるようなことがあっても、力強い御手を持って正しい方向へと導いてくださるお方です。
私たちが敵対する者に向うときに、自分の力でいくなら負けてしまうかもしれません。
しかし神様の名を呼ぶものを、必ず救ってくださる神様は、それに打ち勝つ知恵と主の業をされます。
それが時には自分の負けのように見えるようなことがあるかも知れませんが、神様の業というのは人間の知恵では測り知れない深いものなのです。

ですから私たちは神様の元に留まり続けなければなりません。
一番安心な場所なのですから、時々外れるようなことがあっても必ずそこに戻っていきましょう。

2008/8/11  20:07

命  分類なし

マルコによる福音書 8章35−36節
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしを福音のために命を失う者はそれを救うのです。
人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。


自分で命を救おうと思う者は失い、命を福音のために失う者は命を得るのです。
これはどういうことでしょうか。
命というのは自分でどうにかなるものではありません。
私たちに命を与えられた神様は、この命を支配されておられます。
支配というと何か悪く聞こえるかもしれませんが、本当に絶対的なお方が造られたものは、そのお方が支配しているというのは当然の話ですね。
よく聞くことですが、自分の命は自分のものだから勝手にして良いのだと思っている人がいます。
しかし命を支配しておられる方がいることを認識したなら、決して自分の命を粗末には考えられません。
それは同時に他者の命をも軽く考えることなど絶対にできないことです。
神様がご支配されることを人の手で完成させようとしてはいけないのです。
自分で得ようとする者は、それを失うのです。
むしろ神様のために捧げていくなら、神様はその命を素晴らしく用いてくださるのです。
一人一人の命がどれほど大切であるかを一番知っておられるのは、造られた神様なのですから。

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