2008/4/28 19:16
時代の徒花か永遠のアイコンか 「ファクトリー・ガール」 映画
2006年 米 ジョージ・ヒッケンルーパー監督
これもトレーラーを見て、ちょっと面白そうだと心に引っかかっていた作品。
「ファクトリー」というのはアンディ・ウォーホルがNYに構えていたスタジオのことで、このスタジオに集うアーティストおよびアーティスト気取りの様々な人間の中で、ウォーホルのミューズとして一瞬注目を集め、そして消えたイーディ・セジウィックの伝記映画を渋谷シネマライズにて鑑賞してきた。
この映画館ではこの前「非現実の王国で」というヘンリー・ダーガーという埋もれた絵物語作家の人生をたどるドキュメンタリーを観たのだが、トレーラーが非常に興味をそそったので引っ張られていったものの、稀にみる大爆睡映画で久々の大外れだった。(題材としては面白そうなのに料理の腕が揮わなさ過ぎた)
今回も伝記モノゆえにいくらか不安はあったものの(なんせ主演がシエナ・ミラーだし…)、60年代アンダーグラウンド・カルチャーを垣間見るだけでも悪くはなさそうに思われ、「アイム・ノット・ゼア」を観る前に、ディランとも恋愛関係にあったイーディの伝記を見て、こちらでのディランの描かれ方をチェックしておくのも一興だ、というノリで観てきた次第。
結論から言うと、面白かった。
ガイ・ピアースがアンディ・ウォーホルを演じるというのもなかなか興味深かったし(実際、うまかった。雰囲気が出ていたと思う)、「ロック・スター」と呼ばれるカリスマ的なスター、つまりボブ・ディランにヘイデン・クリステンセンが扮しているというのも、ハマっていて非常に良かった。ある種のカリスマ性がちゃんとスクリーンから漂ってきた。
アバタで東欧移民の子で、常に白髪のカツラを被った異形の人・ウォーホルに対して、ユダヤ系で詩人の魂と革命家の情熱を併せ持ち、鋭い審美眼と批評精神に満ち、気まぐれで傲慢ながら特別な人の持つオーラを快いほどに漂わせるロック・スター(ディラン)の対比は残酷な程で、随所に制作サイドのポップ・アートに対する斜めな目線が感じられるのも興味深い。たとえばやたらにタバコを吸いつつ無意味な会話がダラダラと繰り返されるだけのウォーホルの前衛映画が再現され、(むろんシエナ扮するイーディが主演)それがパリで拍手喝采を浴びるシーンなど、監督や脚本家が暗に「ね、こんなもん、拍手喝采に値しないと思わない?」と言っているような気がしたのはワタシだけだろうか。また倣岸な名士であるイーディの父がウォーホルに、「君は芸術家というよりも印刷屋だ」と言うシーンも、当時の無理解な大人の代表意見というよりも、脚本家が自らの見解を代弁させてみた、という色合いが濃いように感じのはうがちすぎだろうか。
ワタシ自身はポップ・アートに対してどうこうというのはない。好きでもないし嫌いでもない。今は既成のアートとして確立してしまっているので、そういうものなのよね、というだけである。が、60年代、70年代のNYがアングラ・カルチャーの母体としての役割を大きく担っていたのはとても興味深いところ。ディランがNYのアングラ・カルチャー・シーンでいかに絶大な影響力を持つカリスマだったかということも、この映画でその片鱗が伺える。
ガイ・ピアース演じるウォーホル
対するウォーホルは容貌にも健康にも自信がなく、マザコンで、巨大なコンプレックスから自己顕示欲を育てた人なのだろうが、そういう雰囲気をガイ・ピアースがとてもよく出していた。突如「ファクトリー」にやってきたディランの存在感と輝きに圧倒され、隠花植物のようにヘドモドと彼への追従を口にする屈折したウォーホル。その痛いばかりのコンプレックス。独特のしゃべり方もよく研究していたと思うけれど、ピアースの演じるウォーホルを見ていると、ウォーホルが心酔したというカポーティを思い出す。カポーティも本人がしゃべるのを見聞したわけではないので、あくまで映画「カポーティ」や「Infamous」を観た印象なのだけど。
美術学校を中退してNYに出てきたイーディがパーティでウォーホルと出会い、彼の「ファクトリー」に出入りするようになった頃は、さして作品が売れていず、なかなか評価されない自分にウォーホルが苛立ちを感じていた時期のようだ。NYに出てきたばかりのイーディはブルネットのロングヘア。ファクトリーに出入りするようになり、ショートカットのブロンドヘアに変身し、忽ち「魅惑のアイコン」となるのだが、パーティで彼女を見初めたウォーホルが「なんて素敵な子なんだ」というセリフにうぅ〜む、と些か引くものを感じた。どこが素敵なのかパっと分からなくて(笑)
イマイチ華がないシエナ
伝記映画につきものの苦しさとしては、シエナ・ミラー扮するイーディから、本物がふんだんに放っていただろう輝きもカリスマ性も感じられないという事があるのだが、これはシエナが演じるとわかっているからには折込済みで観ないといけない。ワタシも無論、そこらへんはちゃんと折り込んで鑑賞したものの、う〜ん。彼女は相変わらずプロポーションは抜群なので、イーディ・ルックはサマになっており、短いワンピースやニットからスーっと長いタイツの脚が伸びてブーツを履いて歩く姿など確かに似合っていた。
そう、体はとても綺麗なのだけど、ね。何か見ていて釘付けにならざるを得ないような存在の輝きみたいなものをシエナが放てないので、輝いている時期のイーディはうわべをなぞっただけのような雰囲気だった。
が、クスリに溺れ、仕事がなくなり、無軌道な生活の末に火事に遭い、親からの仕送りも絶たれて落ちぶれ果て、周囲に誰もいなくなったイーディの無残な姿を演じる時のシエナはまさにピッタリ。そして、故郷の病院でドラッグ中毒を抜くために療養中の彼女がインタビューを受け過去を追想するという形で映画は流れていくのだが、この療養中の素顔のイーディにも、シエナはハマっていたと思う。目化粧の厚い特徴的なメイクやブロンドのショート・ヘアではなくなったイーディが、ほんの数年前の過去を振り返る時、随分昔の事を回想してでもいるような錯覚にこちらが陥るほどの地味で老け気味なその素顔。人生のミッドな時期と、それを過ぎてしまった時期との落差を一目で表現するのに、シエナの地味な素顔は効果的だったと思う。そうか、シエナをチョイスしたのはそのプロポーションと、イーディの後半の人生に説得力を持たせるためであったか。納得。

歴史浅いアメリカの中での由緒ある家に生まれてしまったイーディ。だが、由緒ある名家というのは大抵、問題が多いもの。彼女も倣岸不遜な父から近親相姦の危険に晒される少女時代を送り、8人兄弟の中で父に追い込まれて自殺した兄もいるなど、父の性格が及ぼす波紋に揺られる複雑な家庭に育ち、情緒不安定で精神病院とはつかず離れずの関係だった。そんな女性が急にスポットライトを浴びてしまうとどうなるのか。普通に生きててもなかなかバランスが取れないのに、時代のアイコンなどに祭り上げられてしまっては、もう、人生の綱渡りも極まって、そのままバランスをとりつづけるなど奇跡に近くなってしまうだろう。楽しい事を追い求めているうちにいつしか擦り切れてしまう人生。

ウォーホルは彼女に魅了されたが、同時に名家の出で印象的なルックスの彼女を自分の仕事のために利用した様子も映画には描かれている。彼女のツテで上流階級に作品が売れたり、常に耳目を集める彼女を傍らにおく事でファクトリーとウォーホルも注目を集めながら、実験映画のようなその映画に何本出てもイーディにはいっこうに出演料が支払われなかったり、麻薬付けになってモデルの仕事もなくなり、窮迫したイーディが悪態をつきに現れると「あともう何年かすればホラー映画に声がかかるよ」と冷たく突き放すウォーホル。このホラー映画云々のセリフはキツい。
チヤホヤと使える時にはおだてて、だめになるとさっと手を引く周辺人物の中に、ヴォーグの編集長といえばこの人、ダイアナ・ヴリーランドもいる。60年代の青春の象徴としてヴォーグ誌にイーディを登場させたダイアナだが、クスリ漬けから抜けられぬとみるや、にこやかにキッパリと契約を切ってしまう。ダイアナ・ヴリーランドを演じるイレーナ・ダグラス、とても雰囲気が出ていた。ワタシのイメージするダイアナにドンピシャリだった。この人こそは今も昔もファッション誌の世界で最大の伝説的カリスマ編集長。興味深い人物だ。
イレーナ・ダグラスのダイアナ・ヴリーランド 非常にそれらしかった
また、出会った瞬間に恋に落ち、ウジウジしたウォーホルとは正反対のカリスマオーラでイーディを魅了したボブ・ディラン(映画ではロック・スター、ビリー)は、イーディの前で散々ウォーホルをコケにし(彼の映画に出ると言ってファクトリーに来るシーンはミモノ)俺と一緒に来い、と言うのだが、イーディはそこでディランについていく事をためらってしまう。このためらいが仇となり、ディランはそれ以降イーディを見捨ててしまうのだ。その後タバコの火の不始末で家事を起こした彼女のニュースが新聞に載ると「どうにかしてやりたいが、もう、どうすることもできない」とキッパリと切ってしまうディラン。冷たい。しかしカッコいい。
じっと厳しく人や物事を見ていて、あるところで「これはもうダメだ」と見定めると容赦なくスパっと切ってしまう男である、という雰囲気をヘイデン・クリステンセンがよく出していた。
その冷淡さ、傲慢ささえどこか眩しいのだ。
とてもカリスマな雰囲気が出ていたヘイデンのディラン
「ジャンパー」ではちょっと外した模様だけど、ここでは非常に魅力的な人物像を作っていた。ロマンティックなラブシーンも良かったし、オードリーの「ティファニー」の時のスチール写真が好きだというイーディに、「あの写真が好きなだけで、君は映画も観てないし原作も読んでないだろ?」と即座に喝破するディランの鋭さ。また「ファクトリー」でウォーホルのカメラに向かいながら彼のアートを辛らつに皮肉るシーンなども、らしさが炸裂していて小気味よかった。先見的で皮肉屋だが、きっちりと本質を見ていて、しかるべき時には情熱家でもある、と。かなりタイプだな、この手のキャラクター。この映画を見ていたらなんだかディランという人物にいっそう興味が沸き、「アイム・ノット・ゼア」もひとしお楽しみになった。
ほんの数年の間に天国と地獄を味わうイーディ。だが、本人のセリフにもあるとおり、誰が悪いわけでもない。彼女が自ら選んでしまったことなのだ。それは彼女自身の弱さがもたらした破滅である。麻薬からどうしても抜けられなかった事が致命傷だった。しかし、どうしてもドラッグやパーティに流れて常に楽しい事を追っていなければじっとしていられないようなそのメンタリティは、幼少期の家庭環境と無縁ではないのだろう。夭折する人はじっとしていられないのだ。人の何倍もの速さで人生を消費し尽くしてしまうさだめにあるから。
あぶなっかしいところのある、ちょっといいところのお嬢さんが魔界に足を突っ込んで、結局は人生をボロボロにしてしまいました、というよくあるお話ではあるのだが、いろいろな事柄が過不足なく描かれていて、脚本が良く、キャラクターがきっちりと描かれていたこと、60年代という時代色がウォーホルの「ファクトリー」を筆頭によく表現されていたため、最初から最後まで興味深く見終えた。
同じく有名人として世に出ても、生き残る人間は狡猾で、タフで、非情で、計算高い。
名声に取り巻かれてもてはやされ、持ち上げられつつ、適度にその中に浸りながら溺れずに自分を保ち、さらにはそれをハンドリングしていかれる能力などというのは余程限られた人間にしか与えられないギフトだろう。ある程度の悪徳に身を沈めても、手を染めても、決定的なところまで流れていってしまわない。程ほどの加減をしながら、その経験を肥やしに作品世界に昇華していくのである。そして、それが出来ない人間は竜巻のように訪れた名声の罠にはまって堕ちていくしかない。生まれたままの魂で、剥き出しの世の中に手放しで出てしまったイーディ。
その失墜は最初から予期されていたことでもあったのだ。
彼女は時代の徒花だったのか、それとも時を超越したアイコンになったのか…。
Edie Sedgwick in person
シエナ演じるイーディを見ていると、どうしてもご本人の姿を見たくなる。そう思っているとエンドタイトルでちゃんとそういう要求にも応えてか、本人のスチール写真が登場する。同じように化粧をしていても、ヘアスタイルを作っていても、やはり本物のイーディには画面に映っただけで人を捉える何かがあるように感じた。シエナもがんばっていたのだけど、「夭折する人間に特有の輝き」を体現するなんて至難の技。だってシエナって、そこそこ長生きしそうなのだもの。
これもトレーラーを見て、ちょっと面白そうだと心に引っかかっていた作品。
「ファクトリー」というのはアンディ・ウォーホルがNYに構えていたスタジオのことで、このスタジオに集うアーティストおよびアーティスト気取りの様々な人間の中で、ウォーホルのミューズとして一瞬注目を集め、そして消えたイーディ・セジウィックの伝記映画を渋谷シネマライズにて鑑賞してきた。
この映画館ではこの前「非現実の王国で」というヘンリー・ダーガーという埋もれた絵物語作家の人生をたどるドキュメンタリーを観たのだが、トレーラーが非常に興味をそそったので引っ張られていったものの、稀にみる大爆睡映画で久々の大外れだった。(題材としては面白そうなのに料理の腕が揮わなさ過ぎた)
今回も伝記モノゆえにいくらか不安はあったものの(なんせ主演がシエナ・ミラーだし…)、60年代アンダーグラウンド・カルチャーを垣間見るだけでも悪くはなさそうに思われ、「アイム・ノット・ゼア」を観る前に、ディランとも恋愛関係にあったイーディの伝記を見て、こちらでのディランの描かれ方をチェックしておくのも一興だ、というノリで観てきた次第。
結論から言うと、面白かった。
ガイ・ピアースがアンディ・ウォーホルを演じるというのもなかなか興味深かったし(実際、うまかった。雰囲気が出ていたと思う)、「ロック・スター」と呼ばれるカリスマ的なスター、つまりボブ・ディランにヘイデン・クリステンセンが扮しているというのも、ハマっていて非常に良かった。ある種のカリスマ性がちゃんとスクリーンから漂ってきた。
アバタで東欧移民の子で、常に白髪のカツラを被った異形の人・ウォーホルに対して、ユダヤ系で詩人の魂と革命家の情熱を併せ持ち、鋭い審美眼と批評精神に満ち、気まぐれで傲慢ながら特別な人の持つオーラを快いほどに漂わせるロック・スター(ディラン)の対比は残酷な程で、随所に制作サイドのポップ・アートに対する斜めな目線が感じられるのも興味深い。たとえばやたらにタバコを吸いつつ無意味な会話がダラダラと繰り返されるだけのウォーホルの前衛映画が再現され、(むろんシエナ扮するイーディが主演)それがパリで拍手喝采を浴びるシーンなど、監督や脚本家が暗に「ね、こんなもん、拍手喝采に値しないと思わない?」と言っているような気がしたのはワタシだけだろうか。また倣岸な名士であるイーディの父がウォーホルに、「君は芸術家というよりも印刷屋だ」と言うシーンも、当時の無理解な大人の代表意見というよりも、脚本家が自らの見解を代弁させてみた、という色合いが濃いように感じのはうがちすぎだろうか。
ワタシ自身はポップ・アートに対してどうこうというのはない。好きでもないし嫌いでもない。今は既成のアートとして確立してしまっているので、そういうものなのよね、というだけである。が、60年代、70年代のNYがアングラ・カルチャーの母体としての役割を大きく担っていたのはとても興味深いところ。ディランがNYのアングラ・カルチャー・シーンでいかに絶大な影響力を持つカリスマだったかということも、この映画でその片鱗が伺える。
対するウォーホルは容貌にも健康にも自信がなく、マザコンで、巨大なコンプレックスから自己顕示欲を育てた人なのだろうが、そういう雰囲気をガイ・ピアースがとてもよく出していた。突如「ファクトリー」にやってきたディランの存在感と輝きに圧倒され、隠花植物のようにヘドモドと彼への追従を口にする屈折したウォーホル。その痛いばかりのコンプレックス。独特のしゃべり方もよく研究していたと思うけれど、ピアースの演じるウォーホルを見ていると、ウォーホルが心酔したというカポーティを思い出す。カポーティも本人がしゃべるのを見聞したわけではないので、あくまで映画「カポーティ」や「Infamous」を観た印象なのだけど。
美術学校を中退してNYに出てきたイーディがパーティでウォーホルと出会い、彼の「ファクトリー」に出入りするようになった頃は、さして作品が売れていず、なかなか評価されない自分にウォーホルが苛立ちを感じていた時期のようだ。NYに出てきたばかりのイーディはブルネットのロングヘア。ファクトリーに出入りするようになり、ショートカットのブロンドヘアに変身し、忽ち「魅惑のアイコン」となるのだが、パーティで彼女を見初めたウォーホルが「なんて素敵な子なんだ」というセリフにうぅ〜む、と些か引くものを感じた。どこが素敵なのかパっと分からなくて(笑)
伝記映画につきものの苦しさとしては、シエナ・ミラー扮するイーディから、本物がふんだんに放っていただろう輝きもカリスマ性も感じられないという事があるのだが、これはシエナが演じるとわかっているからには折込済みで観ないといけない。ワタシも無論、そこらへんはちゃんと折り込んで鑑賞したものの、う〜ん。彼女は相変わらずプロポーションは抜群なので、イーディ・ルックはサマになっており、短いワンピースやニットからスーっと長いタイツの脚が伸びてブーツを履いて歩く姿など確かに似合っていた。
そう、体はとても綺麗なのだけど、ね。何か見ていて釘付けにならざるを得ないような存在の輝きみたいなものをシエナが放てないので、輝いている時期のイーディはうわべをなぞっただけのような雰囲気だった。
が、クスリに溺れ、仕事がなくなり、無軌道な生活の末に火事に遭い、親からの仕送りも絶たれて落ちぶれ果て、周囲に誰もいなくなったイーディの無残な姿を演じる時のシエナはまさにピッタリ。そして、故郷の病院でドラッグ中毒を抜くために療養中の彼女がインタビューを受け過去を追想するという形で映画は流れていくのだが、この療養中の素顔のイーディにも、シエナはハマっていたと思う。目化粧の厚い特徴的なメイクやブロンドのショート・ヘアではなくなったイーディが、ほんの数年前の過去を振り返る時、随分昔の事を回想してでもいるような錯覚にこちらが陥るほどの地味で老け気味なその素顔。人生のミッドな時期と、それを過ぎてしまった時期との落差を一目で表現するのに、シエナの地味な素顔は効果的だったと思う。そうか、シエナをチョイスしたのはそのプロポーションと、イーディの後半の人生に説得力を持たせるためであったか。納得。
歴史浅いアメリカの中での由緒ある家に生まれてしまったイーディ。だが、由緒ある名家というのは大抵、問題が多いもの。彼女も倣岸不遜な父から近親相姦の危険に晒される少女時代を送り、8人兄弟の中で父に追い込まれて自殺した兄もいるなど、父の性格が及ぼす波紋に揺られる複雑な家庭に育ち、情緒不安定で精神病院とはつかず離れずの関係だった。そんな女性が急にスポットライトを浴びてしまうとどうなるのか。普通に生きててもなかなかバランスが取れないのに、時代のアイコンなどに祭り上げられてしまっては、もう、人生の綱渡りも極まって、そのままバランスをとりつづけるなど奇跡に近くなってしまうだろう。楽しい事を追い求めているうちにいつしか擦り切れてしまう人生。
ウォーホルは彼女に魅了されたが、同時に名家の出で印象的なルックスの彼女を自分の仕事のために利用した様子も映画には描かれている。彼女のツテで上流階級に作品が売れたり、常に耳目を集める彼女を傍らにおく事でファクトリーとウォーホルも注目を集めながら、実験映画のようなその映画に何本出てもイーディにはいっこうに出演料が支払われなかったり、麻薬付けになってモデルの仕事もなくなり、窮迫したイーディが悪態をつきに現れると「あともう何年かすればホラー映画に声がかかるよ」と冷たく突き放すウォーホル。このホラー映画云々のセリフはキツい。
チヤホヤと使える時にはおだてて、だめになるとさっと手を引く周辺人物の中に、ヴォーグの編集長といえばこの人、ダイアナ・ヴリーランドもいる。60年代の青春の象徴としてヴォーグ誌にイーディを登場させたダイアナだが、クスリ漬けから抜けられぬとみるや、にこやかにキッパリと契約を切ってしまう。ダイアナ・ヴリーランドを演じるイレーナ・ダグラス、とても雰囲気が出ていた。ワタシのイメージするダイアナにドンピシャリだった。この人こそは今も昔もファッション誌の世界で最大の伝説的カリスマ編集長。興味深い人物だ。
また、出会った瞬間に恋に落ち、ウジウジしたウォーホルとは正反対のカリスマオーラでイーディを魅了したボブ・ディラン(映画ではロック・スター、ビリー)は、イーディの前で散々ウォーホルをコケにし(彼の映画に出ると言ってファクトリーに来るシーンはミモノ)俺と一緒に来い、と言うのだが、イーディはそこでディランについていく事をためらってしまう。このためらいが仇となり、ディランはそれ以降イーディを見捨ててしまうのだ。その後タバコの火の不始末で家事を起こした彼女のニュースが新聞に載ると「どうにかしてやりたいが、もう、どうすることもできない」とキッパリと切ってしまうディラン。冷たい。しかしカッコいい。
じっと厳しく人や物事を見ていて、あるところで「これはもうダメだ」と見定めると容赦なくスパっと切ってしまう男である、という雰囲気をヘイデン・クリステンセンがよく出していた。
その冷淡さ、傲慢ささえどこか眩しいのだ。
とてもカリスマな雰囲気が出ていたヘイデンのディラン
「ジャンパー」ではちょっと外した模様だけど、ここでは非常に魅力的な人物像を作っていた。ロマンティックなラブシーンも良かったし、オードリーの「ティファニー」の時のスチール写真が好きだというイーディに、「あの写真が好きなだけで、君は映画も観てないし原作も読んでないだろ?」と即座に喝破するディランの鋭さ。また「ファクトリー」でウォーホルのカメラに向かいながら彼のアートを辛らつに皮肉るシーンなども、らしさが炸裂していて小気味よかった。先見的で皮肉屋だが、きっちりと本質を見ていて、しかるべき時には情熱家でもある、と。かなりタイプだな、この手のキャラクター。この映画を見ていたらなんだかディランという人物にいっそう興味が沸き、「アイム・ノット・ゼア」もひとしお楽しみになった。
ほんの数年の間に天国と地獄を味わうイーディ。だが、本人のセリフにもあるとおり、誰が悪いわけでもない。彼女が自ら選んでしまったことなのだ。それは彼女自身の弱さがもたらした破滅である。麻薬からどうしても抜けられなかった事が致命傷だった。しかし、どうしてもドラッグやパーティに流れて常に楽しい事を追っていなければじっとしていられないようなそのメンタリティは、幼少期の家庭環境と無縁ではないのだろう。夭折する人はじっとしていられないのだ。人の何倍もの速さで人生を消費し尽くしてしまうさだめにあるから。
あぶなっかしいところのある、ちょっといいところのお嬢さんが魔界に足を突っ込んで、結局は人生をボロボロにしてしまいました、というよくあるお話ではあるのだが、いろいろな事柄が過不足なく描かれていて、脚本が良く、キャラクターがきっちりと描かれていたこと、60年代という時代色がウォーホルの「ファクトリー」を筆頭によく表現されていたため、最初から最後まで興味深く見終えた。
同じく有名人として世に出ても、生き残る人間は狡猾で、タフで、非情で、計算高い。
名声に取り巻かれてもてはやされ、持ち上げられつつ、適度にその中に浸りながら溺れずに自分を保ち、さらにはそれをハンドリングしていかれる能力などというのは余程限られた人間にしか与えられないギフトだろう。ある程度の悪徳に身を沈めても、手を染めても、決定的なところまで流れていってしまわない。程ほどの加減をしながら、その経験を肥やしに作品世界に昇華していくのである。そして、それが出来ない人間は竜巻のように訪れた名声の罠にはまって堕ちていくしかない。生まれたままの魂で、剥き出しの世の中に手放しで出てしまったイーディ。
その失墜は最初から予期されていたことでもあったのだ。
彼女は時代の徒花だったのか、それとも時を超越したアイコンになったのか…。
シエナ演じるイーディを見ていると、どうしてもご本人の姿を見たくなる。そう思っているとエンドタイトルでちゃんとそういう要求にも応えてか、本人のスチール写真が登場する。同じように化粧をしていても、ヘアスタイルを作っていても、やはり本物のイーディには画面に映っただけで人を捉える何かがあるように感じた。シエナもがんばっていたのだけど、「夭折する人間に特有の輝き」を体現するなんて至難の技。だってシエナって、そこそこ長生きしそうなのだもの。
2008/5/1 1:15
投稿者:kiki
2008/4/30 21:13
投稿者:acine
http://acine.exblog.jp
http://acine.exblog.jp
おぉ〜! もう見られたのね。kikiさん!
私もコレ気になってたんだけど、シエナだしな〜・・・
まぁ廻ってきたら考えようと思ってました。
シエナってどんな映画に出ても、スタイル良くても、華やかさにどうも
欠けるよね〜。そういう存在感がない分、監督は使いやすいのかな〜?
某雑誌でも、自分をよく知ってるメイク美人ということで、確か
藤原美智子さんに褒められてました。決して美人でもない分、物凄く
よく自分を知ってて、自分の演出方法を理解してるって。
個人的には女優は華やかさがあるか、とっても個性的か、
圧倒的演技力がある・・・そのどれかが好き(笑)
私もコレ気になってたんだけど、シエナだしな〜・・・
まぁ廻ってきたら考えようと思ってました。
シエナってどんな映画に出ても、スタイル良くても、華やかさにどうも
欠けるよね〜。そういう存在感がない分、監督は使いやすいのかな〜?
某雑誌でも、自分をよく知ってるメイク美人ということで、確か
藤原美智子さんに褒められてました。決して美人でもない分、物凄く
よく自分を知ってて、自分の演出方法を理解してるって。
個人的には女優は華やかさがあるか、とっても個性的か、
圧倒的演技力がある・・・そのどれかが好き(笑)

そこそこ面白い映画でしたわよ。まぁ、ワタシ的には楽しめたって感じ。
なんせシエナだから、どうしようかなぁとも思ったんだけど渋谷だから
行っとこうか、と。新宿だったら行ってないな、多分(笑)
これ、かなり限られたところでしか公開してないのね。
だからDVDになってからでもいいんだろうと思うけれど。
シエナは華がないの、本当にね。だからピークの時よりもそれが退潮した
後のイーディには持って来いだったようにも思います。監督もそれが
狙いで彼女を使ったんだなとハタと膝をたたいたりして。
ヘイデンの演じるロックスター・ビリーがちょっと良かったわ。