2008/8/21  7:20

五雑組  分類なし

江戸時代の日本には多くの漢籍が多量に入っていた様です。徳川幕府は鎖国政策を採ってはいたが、長崎だけには窓口が有って、ここは最先端の知識や技術を知る上で重要な場所で有ったのです。日本人の知的指向は想像以上のものが有って、例えば、漢籍を舶載してくれば木箱毎(漢籍は木箱に入っていた)購入したと言う。ただ禁書は混じって無いかの事前チェックは有った様です。

「五雑組」は現在の日本では殆ど省みられませんが、日本に舶載されると「和刻本」が公刊(寛文元年)され、多くの人の知的要求に応えたのです。面白い事に、本家の中国清代には
禁書になっていて、その理由は有名な「四庫全書」の編纂時に内容をチェックされ、清朝には好ましからぬ内容が有ると判断された為と言う。一部では焚書も有ったと友人が話してくれましたが、現在では公刊されていて大学図書館で見た事が有ります。

さて五雑組は中国明朝時代の進士合格者「謝肇浙1567年〜1624」の随筆集で、内容は天、地、人、物、事の五行説を基に雑事を書いている。知識は豊富で異事奇聞、仏寺、動植物、山川、物産、異俗、薬物、楽曲、天文暦数、官制、芸文、書画技法、等に及ぶから、これが公刊されると、日本の「倭漢三才図絵」等にも色々と提供されたのです。中国の官僚は中国全土を転々とした漂泊の一生で有った様で(任地に永いと不正が起きる)この見聞が五雑組に生きているので有ろう。

友達同士のお喋りをする為の話題提供には適した本の様で、「ホラ話」をするにも良い様です。現代から理解すれば荒唐無稽のお話で有っても、当時としては先端の知識では有ったのだろう。中国滞在中には、私もこの五雑組の中から「小話」を抜き出して話を切り出したもの有る。

さて東海道中膝栗毛の著者でった十返舎一九も、この五雑組を読んでいた様で、その著書「万祥廻船往来」の中で引用しているのです。例えば、五雑組の「緒言に言う」等は地部の「波浪」からの引用でも有る様です。戯作者でも有った十返舎一九では有ったのですが、和漢の書籍を多く漁っていたのです。


五雑組の現代語訳は、東洋文庫におさめられ岩城秀夫訳注で刊行されています。また中国古典文学大系55巻(平凡社)でも読む事が出来る様です。なお五雑組を「五雑俎」と書く者もいる様ですが、正しくは五雑組です。中国唐朝に「段成式」著の「酉陽雑俎ユウヨウザッソ」が有り、これも東洋文庫(平凡社刊)におさめれていますが、少し紛らわしいのです。

2008/8/20  7:49

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」  日本文化史

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写真は「門脇俊一筆」の「おかけ参」抜け詣での部分図です。

徳川幕府が朱子学の振興を意図し「寛政異学の禁」を公布し、「書籍出版取締令」出したのは寛政2年(1790年)だったと言われる。これに依って「山東京伝」等が手鎖50日の刑を受けたのは早くも翌年(寛政3年3月)だった。松平定信が行った「寛政の改革」以前の安永とか天明期の江戸文学は、狂歌、川柳、黄表紙、洒落本等は軽妙な機智とか、洒落等が多く、庶民には腹が捩れる程にお笑いが氾濫していたのです。

この笑いは出版取締令によって壊滅し、新たに変わって純粋までに笑いを求めた滑稽本が誕生したので有る。これが十返舎一九の東海道中膝栗毛で有って、初編は享和2年(1802年)で有った。東海道膝栗毛の内容は「時事的な問題を一切排除した」お笑い一辺倒のもので、読者は「弥次さん、喜多さん」が道中で巻き起こす、野卑で好色で粗忽者が巻き起こす騒動に腹を抱えて笑いば良かったのです。

東海道中膝栗毛はナント初編から20年間もベストセラーを続け、旅が終ったのは文化6年(1809年)だった。弥次さん、喜多さんも(作者の十返舎一九)お疲れになった事だろう。しかし、このロングセラーに依って、弥次さん、喜多さんの名は国民的英雄となって、平成の現在でも「シテ」と「ワキ」で知られるのです。

十返舎一九の本名は「重田貞一」と呼び、明和2年(1765年)に、駿河国(静岡県)に生まれている。父親は微禄の士で八王子千人同心で有った。後には大阪に行き材木商の入り婿になり、傍ら浄瑠璃作者としても腕を磨いていたらしい。理由は不明だが離縁され江戸に出て、有名な「蔦屋重三郎」の居候等していたと言う。江戸でも入り婿に入ったらしいが、何故か離縁(遊び過ぎとも)されていて、この後に東海道中膝栗毛が始まるのです。

ここに平安時代より始まる「往来物」と言うジャンルが有って、この往来物とは「庭訓往来」に代表される教育物で有って、十返舎一九もこれに手を染めている。「萬祥廻船往来」と言われる物がそれで有る。萬祥廻船往来の中には「海船太平の御代にあいて風雨の難なく大洋を渉る光景を著し、初学の児童に与えるもの也」と有るから、教育関係にも関心が有った様です。


東海道膝栗毛はお笑い本ですが、十返舎一九その者は「性格は真面目で神経質」で、割と気難しい人だったと言われる。放浪の後に辿りついた晩年は、稿料も有って穏やかな生活だったと言う。

2008/8/19  8:18

日本人(倭人)は越国(中国江南)からやって来た  日本文化史

中国は黄帝(三皇五帝の一人だが伝説上の人物)以後、近代に到るまで騒乱の歴史と言っても過言では無いだろう。自ら中華人と名乗る者達が黄河流域に農地を切り開き、文明を開化してもやがては、北方の遊牧民族に侵攻され荒廃し、再び立ち上がると言う繰り返しの歴史で有った。中華人の強みは広大な土地もさる事ながら、自らが発明した文字(漢字)が有って、この文字(ペン)が剣より強かった事に依るだろう。

江戸時代の本居宣長著「古事記伝」に依れば「東夷(倭人)は天性が柔順で有る」等の記述が見えるが、これは恐らく中国後漢時代の辞典である「説文解字」からの引用で、倭の意味は「順皃、人に従え、委の声」からのヒントを得たかも知れない。その解釈でも間違えは無いが、倭人とは中国からの見下した意味の一方的な言葉で有って、背が曲がったチビ助が正解で有ろう。倭の文字はニンベンに委のツクリで有るが、この委の文字はノギヘンに女と言う字から成り立っていて、ノギヘンは「実った穀物は背を曲げている」意で、例えば女は男にくらべて小柄で有る等に考えても良いだろう。

さて魏志倭人伝は中国の漢朝時代に、朝鮮半島に存在した漢の植民地(成立は前108年)であった帯方郡の郡役所役人が倭国に出張が有って、その時の見聞を基に書いたもので有ろう。倭国への上陸地点は肥前国松浦に有った「未盧国」で有ったと思うのです。

この未盧国は「山海に沿っていて草木茂盛し、行くに前人を見ず、魚鰒(アワビ、フグ)を捕まえ、水深浅となく、みな沈没してこれをとる」と有って、この未盧国は山が海辺に迫り、平地が少なく、農耕には適しない地域で有った。つまり海洋民達(海人)に適した国で有って、これは中国江南地方(越地方)からやって来た人々の国だったのです。

中国の紀元前二世紀中葉には、呉楚七国の乱(紀元前154年)が有って、江南地域に前漢の支配が及ぶと漢民族の南下が始まって、呉国とか楚国の人々はそれに押し出される様にして難民化したので有る。難民は潮流とか季節風に助けれて日本列島に辿り着いたのです。呉とか楚の人々は「髪も結わず断髪にして、身体には入れ墨をして海に潜り、魚貝類を捕る」等はまったく倭人(未盧人)と同じ暮らし振りだったのです。彼等は又、船舶文化(技術)を持っていて、後には海賊(倭寇)として活躍した「松浦党」としての集団に成長しているのです。要するに権力には逆らう事も無く迎合し、海と言う舞台で自由に活躍した一団では有ったのです。その意味では、本居宣長の「倭」と言う意味は有っているかも知れない。

魏志倭人伝には多くの国々が書いて有るのだが、ナント呼べば良いか分からない国名も有って、卑弥呼の邪馬台国の所在も不明です。私は卑弥呼の国は本州に有ったと思うのです。大和朝廷の成立は、これら多くの国々の「何れかが発展」したと考えている。


中国側の主張に依れば、押し出された越人は海南島から広東省、福建省の沿岸地帯から、舟山列島及び朝鮮半島南部、そして九州から瀬戸内まで及んでいると言う。

2008/8/18  7:32

魏志倭人伝に見る渡海時の「持衰ジサイ」とは  日本文化史

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三国志と後漢書の「倭人伝」によれば、日本海の往来時には「持衰ジサイ」と呼ぶシャーマン的な者が一人乗っていて、航海の安全と無事を祈ったらしい。図は後漢書の列伝73からの複写で、3行目の中頃にその事が書いて有ります。句の切れ目に入れる(。)の句点が有りませんので読み難いのですが、下記に意訳する。

渡海の往来には、常に一人の男性をして、頭を梳らず虱も去らせず、衣服も垢にまみれたままで、肉を食べず婦人も近づけず、喪主(の様な)にさせる。これを持衰と言う。もしも渡海者が無事で目的地に着けば、皆で共同してその者に生口及び財物を与えるが、もし暴風雨にあうとか、渡海者が病気になれば、その者を殺してしまう。これは持衰がその謹みを怠ったからで有る。

魏志倭人伝に依れば、倭国には良田が無く海物を食べて自活し、船に乗って南北に交易す、と有って、海に生きる人々でも有った様です。佐賀県の吉野ケ里遺跡は卑弥呼のクニでは有りませんが、この集団(クニ)も交易を生活手段としていた様です。

もしも九州地方から朝鮮半島に渡海するので有れば、泳いでは行けないから、必ず舟が必要で、その舟とはどの様な舟なのか、現在でも古代史の謎の様です。人間が漁労で生活するので有れば、何か「人間が浮くと言う」道具が必要で有って、恐らく浮揚具(例えば瓢箪とか獣皮)等を考え出したかも知れない。又、筏とか丸木を利用するのが自然で有ろう。これらが発展すればやがては「刳り舟」を考え出し、それは後に構造船にもつながるのだろう。又、船を漕ぐ為の櫓櫂や、風力を利用する為の帆の有無の考察が必要で有るだろう。

日本の文化は「朝鮮半島」を経由して移入したのですが、それは向こうから一方的に流れ込んで来たのでは無く、我々日本人が必要に応じて文化の取捨選択をして受け入れたのです。この文化の取捨選択の為には朝鮮半島(約200km)まで、命がけで渡海する必要が有って、舟(船)とか航海技術が必要で有ったのです。もちろん古代社会で有るから神の力が必要で有り、ここで「持衰」の誕生が有るわけです。


「生口」とは恐らく奴婢なので有ろう。倭人伝には海人(アマ人)の姿が見える様ですが、風俗習慣には中国の「越人」を彷彿させるのです。又、衰とは「喪服」を言うから持衰は喪服を着たので有ろう。

2008/8/13  7:59

孔子家語「苛政猛於虎也」  中国社会史

論語と並んでよく読まれ儒書に、孔子とその弟子達の言行及び事績等を記したものに「孔子家語」が有る。この孔子家語は、平安時代には既に持ち込まれたらしく、日本見在書目録に見られるのです。後には徳川家康も足利学校に命じて、この孔子家語を刊行したと言う。日本人にはかなり読まれた本らしい。(多くの訳書が有ります)

この孔子家語には、日本人なら誰でも知っている「苛政猛於虎也」が有って、これを意訳すれば「酷い政治は虎よりも猛々しい」となるのでしょうか。(注:暴虎とも)猛は「たけし」と読んでも良いし、はげしい、とかむごたらしい、と読んでも良いだろう。どちらでも間違えでは有りません。

意訳
孔子一行が斉の国に行こうとして、泰山の麓に差し掛かると、いかにも悲しげな女の泣き声がするのです。孔子は車から身を乗り出し、泣き声に耳を澄ましていたが、あの泣き声はただ事では無いと言う。弟子の子貢をやって泣いている女にわけを訊ねたら、女はこの様に答えたと言う。

昔、舅がトラに喰い殺され、次に夫が喰い殺されました。今度は又息子までが喰い殺されてしまいました。

子貢が「何故こんな危ない土地に住んでいるのですか?」と聞いたら、ここは「税金が安いのです」との答えで有った。子貢がかえって、この事を報告すると、孔子が語って曰く、「皆も良く覚えているが良い。重税は暴虎より恐ろしいものだよ」

この話は孔子が語ったと言われるのだが、どうやら後世の偽作で有るらしい。後漢の大学者で有った「王粛」と言う者が、孔子十二代の「孔安国」の名を借りて、孔子ならこの様に言うだろうと諸本から材料を得て、偽作したと言う。従って、専門家のよる孔子家語の評判は良くないのですが、一般人にとっては孔子を知るには便利であるし、人生の処世訓の知恵が得られるから、偽作に関わらず広く読まれたのであろう。

「苛政は虎より猛々しい」とは、現在の世の中にも当てはまる様で、70歳にならんとしている老人からも、否応無く税金を取り立てるのは如何なものか。無駄を無くし、且つ経済成長を目指す事が重要かとおもうのです。無駄を無くすと質素倹約とは違えますので、為念。

2008/8/12  9:51

陽明学者「熊沢蕃山」  日本文化史

熊沢蕃山(1619年〜1691)は江戸時代前期の儒学者で、生まれは京都で有った。父は福島正則の家臣で、正則が信濃の川中島に配された後も、正則に忠節を尽くしたと言う。蕃山は岡山県の池田光政に仕えたが、修学の未熟を悟り「中井藤樹」に学び、学成ってからは再び池田光政に仕官して、3000石の番頭に抜擢されている。儒学者として実際の藩政に関わった例外的なもので有る様です。

江戸時代初期の儒学者として政治に参加し「経世済民」を実践したのだが、晩年(69歳)は茨城県の古河市に禁固され不遇な一生に終わってしまった。遺骸は「鮭延寺」に葬られたと言うから、時間が有れば墓参に行って見たいと思っている。

さて熊沢蕃山は師の中井藤樹に陽明学を学んだと言う。その著書「集義和書」によれば「時去り、人位変われば、聖法と言えども用い難きもの也」が有名で有るが、この意味は「法と言うものは、聖人がその時その場所等の状況に応じ、一番ふさわしいものを作ったもので有る。従って時代や状況が変われば、聖法と呼ばれるものでも、もち得るに相応しく無いものも有る」と訳せば良いのだろう。この言葉は師の中井藤樹の「時、処、位」からヒントを得たかも知れない。そんな事は当たり前だと思うのですが、封建社会に有っては重い言葉では有るのです。

藩政に関わり治山、治水、飢饉対策等で功績が有って様ですが、徳川幕府の政策は伝統的に諸藩に土木工事を命じたり御用金の上納等を行ったから、諸藩の台所は火の車で有った。茨城県の水戸藩等も苦しかった様ですが、なにせ御三家なので親方日の丸で、苦しければ補助金等が出た様です。台所が苦しければ、そのしわ寄せは必ず農民に来るわけです。国家と言うのは恐ろしいもので、70歳に近い老人からも容赦なく税金を取り上げるのです。苛政は虎より酷いのです。霞が関には虎がウヨウヨしている様です。

熊沢蕃山の生涯は、晩年は不遇では有ったのですが、儒学者(陽明学者)としては、行動的で有り、政治に儒教的な理念を具体的に持ち込んで、ほぼ成功したかと思われるのです。晩年になって禁固されたとは言っても、悔いの無い一生だったかも知れない。日本にも偉い儒学者が居たのですね。

2008/8/11  15:43

中庸な生き方  日本文化史

中庸とは偏らない事を言うのであるが、具体的には、今ここに棒が有るとすれば棒の中央に居て、一方に片寄らない事を言うので有る。要はバランス感覚を言うので有るが、ここで庸とは恒常の意味で、永久不変に片寄らないと考えても良いだろう。

中庸を得た行為(人間の生き方)は何度繰り返しても、行き止まってしまう事は無いだろう。そして途中で変更する必要も無いだろう。それが宇宙空間の出来事で有れば、毎年繰り返す春夏秋冬に似て、月が地球を回り、そして地球が一年をかけて太陽を回る事に似ている。人間の世界にもこの宇宙の姿に似て、中庸な生き方のパターンが有るはずで、これが儒教的な生き方と言うのである。

この様な生き方を人生の模範とするならば、これを「礼」として敬ったのです。この礼から外れてしまうと悪になるわけです。一体この礼から外れると言う事は、どこから来るので有ろうか。儒教では人間の性質から来るのだと言う。そもそも人間の性質には、自然に備わった性質が有って、それを天然の性と言え、常に人間を中庸に導くのだと言われる。これを「理」と呼んでいる。

然しながら、すべての人々が必ずしも中庸を得ないのは、他の性質を持っているからで、それは肉体的相違から生来するもので、感覚とか欲望から来るのだと言う。それは偏りやすいもので、バランスを欠き悪に走るものだと言われる。つまり中庸を欠いた行為であるわけです。

それでは、我々は中庸を育てて行けば良いわけで有るが、人間は眠りから覚めた瞬間は、全てに欲望が無く中庸で有るはずで、時間が経つに従って偏った悪が出るわけです。従って、眠りから覚めた赤子の様に、清純無垢な心を自らつくり出さねば為らないが、これは仏教の禅に似ている。しかしながら仏教の様な「無」になってしまうのでは無く、精神を集中する事が必要で、これを「敬」と言うのです。

以上は朱子学からの受け売りで、恐らく万分の一も話してはいないだろう。また誤解が有るかも知れない。朱熹と言う人は儒教、仏教、道教、その他の中国哲学に精通し、広く深いものが有る様です。生半可な知識では追いつけ無い様です。従って、朱子学に近づかんとするならば、余程の覚悟(準備)と努力が無ければ、真の姿は掴めない様です。

2008/8/11  7:41

排仏論  仏教史

唐朝の韓愈(唐宋八家文の一人)の著に「原道論」が有って、「老仏」の考えは実生活になんらの効力も無いし、むしろ有害で有るとの主張が見えるのです。有名な「仏骨論」を時の皇帝に上表して、左遷の憂き目に有ったのはこの時で有る。

この仏骨論とは、法門寺の塔内に安置されて有った仏骨を、宮中に迎えて安置(三日間)すれば、その年は天下泰平で五穀豊穣と言う者が居て、これにカチンと来た韓愈が、平素の持論から身の危険も顧みず、憲宗に仏骨表を立てたので有る。勿論結果は左遷で有って命だけは助かったのです。(後に復帰出来た)

韓愈の主張する所を記せば次の様になるだろうか。(大意)

昔より(黄帝から三代まで、湯、文、武帝)皆長寿を得て、世の中は太平だったのですが、漢の明帝から仏教が入って来て、明帝は在位が僅かに18年でしか無く、その後は我国は乱れたのです。特に六朝(宋、斉、梁、陳、元、魏)以下の仏教崇拝の時になってからの、年代は僅かで有る。ただ梁の武帝だけは在位48年で、三度身を捨てて仏に施し崇拝する事が多かったのですが、結局は台城に餓死して国は滅亡した。仏を慕い福を求めるのはかくの如く禍を得るのです。死んだ身の骨を宮中に入れる等はもっての他で有る。、、、略

然しながら、この韓愈の主張は甚だ皮相面にだけ眼を向けているようです。確かに中国の、現実を重んじる国民性には適合するのだが、仏教の真髄には触れていない様な気がします。要するに「古典的な儒教」を強く推したもので有るのだろう。

古典的な儒教とは、太古の民は骨肉相食み情の趣くままに行動し、言わば禽獣に等しいものを嘆き、それで有るからこそ「一定の法則を示し、社会的な契約」をつくったわけです。これを「社会道徳」と言え、儒教の原点でも有るのです。極めて簡単な法則と契約で有って、誰でも守れる事かと思うのです。では人間は何故悪の道に踏め出すのだろうか。(続)

2008/8/10  8:13

燃えてしまった「法隆寺金堂壁画」  日本文化史

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私が大切にしてる物の一つが、この奈良法隆寺金堂の複製写真版仏画(6号壁)で有る。この仏画は昭和24年1月26日早朝に火災が有って、残念ながら焼損してしまった。火災の原因は、修理中の絵師が電気座布団のスイッチを切り忘れ、発火したものだと言う。

この金堂の歴史は古く1300年以上有って、そんな歴史の重みも一瞬の火災で消滅してしまったのです。昭和24年と言えば、日本人は敗戦の虚脱感が残っていて、人々は生きれる為に必死で有ったが、そんな虚脱感等を吹き飛ばす大きな出来事でもあった。

もちろん各マスコミはその文化財の損失に対し、連日の様に大騒ぎをして書き立てたと言われる。一般の人もこれに同調した事は言うまでも有りません。これを機会に翌年の昭和25年になると「文化財保護法」が制定されたのです。

写真は焼失前のもので、いつ頃からか額に入れて私の部屋に飾っていたのですが、阿弥陀浄土図の「脇侍観音菩薩」と言われる。(12面の壁に諸仏浄土図が画かれて有った)以前には切手にも使用されて多く出回った様です。複製画は現在、かなり汚れが目立っているから、近日中に綺麗にしなけばならないと思っている。

この画を見る度に思うのですが、観音様と言うのは女性なのか男性なのか良くわかりません。女性の持つ優しが見える様ですが、仏画としては洗練された様子が見られるのです。

2008/8/9  6:39

2008年8月8日午後8時北京オリンピック開催  中国社会史

中国が威信をかた北京オリンピックが始まった。予想どうりド派手な演出と花火だったようです。今日からは各国選手の競技が始まるのだが、地元の強みも有ってメダル獲得数は他国を圧倒するだろう。前のアテネ大会では、メダル獲得数が少ないと叱っていたようです。

さて北京は中国華北の平原に開けた都城で、その歴史は春秋戦国時代(前770年〜221年)に燕国と呼ばれた時期から始まっている。この平原には「薊アザミ」が咲き誇った様で、往古は薊城とも呼ばれた言う。その後、時代は変わって、朝鮮半島への橋頭保にもなって、いわゆる楽浪、帯方郡等の植民地経営の前線基地にもなった様です。その意味では倭国(日本)とも縁が有るわけです。

北京は明朝時代(永楽帝以後)は、中華人の国で有ったのですが、燕、遼、金、元、清時代は遊牧民族達の国家で有った。中国人が私に嘆くには、日本軍が来て「万里の長城」を内から破られたしまったと言う。それも悠久な歴史を持つ中国では、ホンの歴史の一コマかも知れませんから、やがては史書の上だけになるだろうと言って慰めている。

昨晩のオリンピック開会式には中国歴史を物語風に表現していましたが、その中には漢字をテーマとしたものが見られました。この文字の発明こそが中華文明を発展させたのです。先ほどの華北平原に侵入した遼は、契丹文字を漢字に真似て作ったし、元(蒙古文字)もしかりで、清も満州文字が有ったのですが、結局は中華の漢字には敵しなかったのです。さらに古くは匈奴の「西夏文字」も有ったのです。

この文字の発明と発展こそが、中国を何度も存亡の危機から救ったので有って、遊牧民族等は文字が無い為に(作ってみても完成度が低く国民に普及しない)、結局は国の永続が出来なかったのです。従って、漢字の発明と発展こそが、昨晩のオリンピックの源泉では有ると思うのです。

文字は朝鮮半島にも伝わったのですが、現在はすべてハングル文字に代わってしまい、漢字は古文献以外は跡形も無く消えています。日本には未だ残っていますが、漢字と共に片仮名や平仮名やローマ字も有って、この漢字以外の文字を使用できる日本国民は、島国で有って
も海外の文化を逸早く取り入れる有力な武器だと思うのです。

現在の中国では立派な工学関係書等が出版されているが、つい最近(’00年頃)まではなかなか見つからず、翻訳に苦労したもので有る。


ちなみに、ユニット(Unit)等はUnid Cost等で普段に使用されますが、日本人は直ぐに何であるかを理解するのです。しかし中国語でUnitを翻訳するのには苦労するのです。「単位」とか「装配」では通用しませんでした。しかし、多くの参考書が出版された現在では、直ぐに理解するのかも知れません。

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