2008/7/16  17:05

中国「北魏」の雲岡磨崖仏  中国社会史

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写真は昭和6年頃のもので「東洋史講座支那建築史雲岡磨崖仏群」よりの複写です。当時は、未だ広角レンズは無かったから、3枚をつなぎ合わせ一枚にしたのかも知れない。当時の撮影術(昭和初期頃)では、この磨崖仏群の全体像を俯瞰するには広過ぎた様です。

さて北魏は山西省大同(万里の長城の直ぐ内側)に首都を開いた遊牧民族で、鮮卑族の拓抜氏(タクバツシ)で有った。拓抜氏のこの城市は「平城」と呼び、日本の奈良の都「平城京」は、この平城をモデルにしたものと言われる。拓抜氏は乱世の「五胡十六国」を統一して、中国の北半分は占有した強国で、当時の東アジア諸国のモデル国でも有ったのです。いま道教を持ち出せば、又道教かと言われるかも知れないが、日本の皇室にも道教の影が有って「皇太神宮儀式帳」等にも見ることが出来るのです。

北魏(384年〜534)は明元帝の時には仏教を取り入れたのですが、太武帝の時には道教に心酔し仏教を徹底的に破壊したのです。やがて文成帝になると再び仏教を擁護し、武周山と言う場所の岩山に大石窟寺を開鑿したので有る。これが史上有名な「雲岡石窟寺群」で有る。

過日、我が故郷の「泉沢磨崖仏」をUPした事が有るが、規模に於いては遙かに及ばないので有ります。たしかに「泉沢磨崖仏」は平安初期に彫られた古いものでは有るのですが、比較とか勝負にはなりません。何度も言うが中国は国土も広く人も多いから、物量で見ると規模が圧倒的に違うのです。

雲岡磨崖窟群には、未だ行った事が無いが高さは七十尺程度有るらしい。魏の尺(モノサシ)は現在の日本の尺とほぼ同じらしいから、その大きさや規模の推定出来るだろう。磨崖窟は仏教初期の段階で見られる様ですが、この雲岡磨崖仏群も「敦煌」に見られる様にギリシャとかローマの影響も見られるらしい。さすれば日本の仏像等も微かながらギリシャやローマの影響を受けているのでしょうか。


「北魏書の釈老志」が、東洋文庫から出版されていますから、この時代の道教と仏教に関しては参考になる様です。



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