2008/7/18  8:34

韓愈(中唐の詩人)について  中国社会史

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私のブログ(伯楽相馬)を読んだ旧友が、「評注続文章規範ニ」の「雑文下韓文公」の複写を送ってくれたのでUPする。なお「韓愈」と「韓文公」は同一人物です。

旧友は当時(1993年頃)米国在住で大手の商社マン、こちらは中国滞在中で毎日が必死の戦いで有った。さる事情が有って、彼に英文ビジネスレターを出したら、ナント添削付きの返事が返ってきた。クヤシイからこちらも負けずに中文で出したのです。いま思えだせば、過去の遠い出来事で全ては水の如く流れ去っている。

さて折角のメールですから、韓愈について少し詳しく書こう。韓愈(768年〜824)は、中国では名文家として知られ、「李杜韓白」の一人として尊称されるのです。李は李白、杜は杜甫、韓は韓愈(韓文公)、白は白楽天を言うのです。私はここに柳宗元も入れるべきだと、中国人には強く主張している。

韓愈は三歳の時に両親が亡くなり、兄嫁夫婦に養育されたと言われる。兄は貧しい官吏で有ったらしいが、韓愈が七歳の頃より経書を読み、文を作り始めたと言う。殆ど独学で有ったと言われる。19歳(786年)の頃に都長安に出て官吏登用試験を受けるが、試験結果は全て不合格で、恐らく「伝手とか賄賂」が無かった為で有ろう。それでも6年後にはやっと下級試験に合格したのです。現在、大分県の教育委員会は大揺れの疑惑が持ち上がっているが、賄賂と伝手が無ければ合格できない仕組みは、往古から健在らしい。上級試験を何度受けても合格しないから、仕方なく下級の「国子監の教師」になっている。

実はこの国子監時代には暇が有って、十分な勉学に励む事が出来て、将来の為には大いに役立ったと言われる。貞元19年(803年)になると漸く「監察御史」に出世したのですが、その年に旱魃が襲ったらしく、監察御史の立場から都長官の「李実」の報告書に異議を立てたから、広東省の地方官に左遷されてしまったのです。その後も皇帝の怒りを買って左遷の憂き目に有った事度々で有った。仏教を宮中に迎えた時は「仏骨論」を論じ、この時も皇帝の怒りを買っている。

性は直情型で曲った事が大嫌いで有ったらしい。後の憲宗時代になると官界に復帰出来たのですが、部下の面倒を良くみたし権力におもねる事も無く、平素人と交わるに正直で有ったと言われる。又、孟子を非常に尊敬していたと言われるのです。

韓文公と有るが、韓愈が長慶4年(824年)に亡くなると「礼部尚書」を贈られて「文」と諡名(オクリナ)されたのです。又、韓愈の言葉に「上役が公平で無いからと言っても心配するな、、進学解」等も見られる様です。何れにしても韓愈が中国国民から信頼され、人気も有り、また公平な人で有る事が分かるのです。こんな官僚なら、現在の日本にも是非欲しいものです。やはり教育に問題が有るのでしょうか。


韓愈については、新唐書巻176及び旧唐書巻160に伝が立っています。



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