2008/10/1  8:38

吉田屋源兵衛日記―9「戊申戦争と商人の没落」  日本文化史

日本の近代化は、慶応4年9月8日(1868年)に明治と改元された事によって始まったが、江戸徳川家から京の天皇家へのバトンタッチでも有った。中国の故事に従いば「天の知らしめる革命」でも有った様です。千石船を運行し、物を右から左に移動させるだけで、有り余る程の財を築いた商人達では有ったが、この革命期を境にして没落してしまうのです。元を正せば富を生みだしたのは農民達の米では有ったのです。しかしながら武士層は「金弄り」を卑下し、それを商人達に任せたので有るが、商人達に金玉をつかまれて、結果的には武士層の凋落を招いたので有る。商人達の金蔵には大判小判が山と積まれたので有るが、戊申戦争時には、その金蔵に積まれた金銀は根こそぎ戦費として供出されたので有る。

今までは藩に寄生し、藩の庇護の本に発展したので有るから、藩の存亡に関わる一大事には金蔵を藩の為に開放するのは当然で有ると言う考えが重役方には有った様です。

八月朔日
先月17日より、鈴木本家及び吉田屋源兵衛両家が不調法を仰せ付けられ候のところ、今朝「谷十左衛門」に呼び出しの上に、ご免となる。両家の蔵の御封もご免と成る。


不調法とは恐らく、有り金残らず差し出さなかった事を言うので有ろう。ここで「ご免」とは許しを得た事では無く「お役目ご免」と言う意味で有り、廻船問屋として千石船を四海に走らせ隆盛を誇った者の最後としては哀れで有る。8月5日の条には「今夕に山上より池上ノ円蔵殿に移る」等と見えるから、恐らく「欠所払い」になったもので有ろう。明治維新を革命とするならば、革命とはとかく乱暴で荒っぽく迫力を伴っている様です。

この商人達の凋落には裏の話が有って、それは二宮仕法を相馬藩で実施し、成果を上げつつ有った農村復興に命を掛けた人々との軋轢で有った。つまり藩の方針は千石船による交易と二宮仕法の両輪で経済復興を図ったので有る。この二宮仕法派も大きな成果を出したので有るが、「農は国の元なり」で有って二宮仕法側から見れば、千石船派は面白からぬ存在では有ったのです。特に折角の農民達の米が、破船等で海に流す等は言語道断では有った様です。戊申戦争で官軍と講和を結んだのは、二宮仕法側でも有ったのです。


現在でも小学校等で時々見られる「二宮金次郎像」は、後に相馬藩(県)から明治政府に提出された伝記が、明治政府に気に入られ、あの様な二宮金次郎像が各地に建ったと言う。あの薪を背負い本を読む姿の原型は、アメリカだったかに有るらしい。近くの小学校校庭にも石造のものが有って、平成の現在でも健在です。



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