2008/10/4 8:14
江戸と江戸廻りの船(舟) 日本文化史
江戸時代中期以降の海上や河川は、重要な運輸交通路のとして利用されたが、明治になってからは、大型和船(千石船)は鉄道や飛脚等の発達によって、次第に主役の場を奪われてしまった。
いま慶応3年(江戸幕府の瓦解は翌年)の江戸で使用された船(舟)の数を調べたところに依れば(江戸船改高)1,484艙だったと言う。年間の税金は丁銭で1,474貫900文有ったと言われる。更に江戸廻りで使用された船(舟)の数は21,281艙で丁銀での、上がりは(税金)年間で8,445貫400文有ったと言われる。江戸時代には船には焼印を押して有るから、税金逃れ等は出来なかった様です。所轄は「川奉行」で有った。
さて江戸も大阪も平野部で有り海に面していて港湾が有り、河川が多く有るのだが、江戸で使用された船(舟)の種類はどの様なものが有ったのだろうか。各種史料類から拾って見たが、この他にも未だ有るかも知れない。
○屋形舟、、、物見遊山に使用される舟で、大小有るが大きな物は七間〜八間有ったと言われる。天和2年になると舟の大きさに決まりが出来たと言う。宝永3年頃は100艙有ったと言われるが、文化年間になると30艙程度になったらしい。
○日除舟、、、屋形舟の小型のもので、屋根に日除けが有るのでその様に言う。但し、物見遊山ばかりでは無く、個人の往来用(タクシー)としても使用したと言う。船頭は一人か二人で、柳橋から山谷堀まで一人300文で二人ならば400文だと言う。100艙ほど有ったと言われるが、簾を降ろし中が見えな様に禁止(天保年間より)されたと言う。言うまでも無く風俗取締で有る。
○猪牙舟(チョキ)、、、浅草見附の船宿だった「玉屋」、「笹屋」の発明だと言われるが、長吉と言う者の発明したからとも言え、又の名は「長吉舟」とも言われる。快速舟で有ったと言われるが屋根は有りません。柳橋から山谷堀まで148文だった。又の名を「山谷舟」とも呼んでいる。
○荷足舟、、、荷物を運ぶ専用舟を呼んだ。
○高瀬舟、、、元は京都の高瀬川を往来したもので、利根川筋には高瀬舟と言う300俵を積んだ大型帆船が往来したいたと言う。柳田国男著作には「門の前からほんの少し離れたところを何百と言う帆船が通ると言うのは、本当に新しい発見で有った」と有るから、大正時代頃までは鉄道と並んで健在でも有ったのだろう。高船舟と言う呼び名は全国的なもので有り、歴史的にはかなり古い様です。
○伝間造茶舟、、、茶舟は茶を運ぶ舟では無く、品川沖に停泊した千石船から荷物を倉庫(川岸に立ち並ぶ)に運ぶ舟で有った。大きさも大中小と有ると言う。但し、茶舟と言う呼び名は、舟の中で飲食(女性同伴)する目的の舟だったと言う説が有ります。
○押送舟、、、江戸日本橋の魚屋に鮮魚を届けた舟で舟足が速い。葛飾北斎の大きな富士山を背景にして懸命に櫓を漕ぐ舟が押送舟かと思われる。
○五大力、、、大小が有る。主に江戸廻りの海船で武蔵、伊豆、相模、安房、上総国で使用された船を言う。鰯商舟を言う場合も有る。
○茶舟、、、普通は荷物用で大中小が有る。利根川筋には「木下キオロシ茶舟」が有って、これは鹿島とか香取神宮等に詣でる時に使用したと言う。当然飲食が有ったと思われる。
○土舟、、、堀を浚う為の舟で、江戸の堀で浅い場所は年中堀浚いをしないと浅くなる。
○水舟、、、品川沖に停泊する千石船に水を売る舟で、更には深川方面は水が悪い場所で有ったから、ここにも水舟が入り売っていたらしい。
○肥舟、、、人糞は肥料として重要で有った。昭和30年代頃にも見た事が有る。
○平田舟、、、通舟の一種で、形状は平たくて長い。上州「平田舟」と言われるものも有る。
○渡し船、、、人と手荷物を乗せる河(川)を往来する舟で有る。
以上が、江戸と江戸廻りに使用した船(舟)で有るが、その他にも鬼怒川には「小鵜飼舟」と呼ばれる小舟が有ると、地方史に書いて有る。又「石舟」と呼ぶ石を運んだ舟も有った様です。驚いた事に湖沼等で「肥料にする藻」を刈る「藻舟」も有って、これにも税金を掛けたと言われる。明治以降になると利根川筋には「湯舟」と言う、船頭さんの為の風呂船が有ったらしい。
特殊な例としては、「田舟」とか「出水時の避難用舟」等も有った様ですが、未だ史料(資料)の見落としが有るかも知れない。
いま慶応3年(江戸幕府の瓦解は翌年)の江戸で使用された船(舟)の数を調べたところに依れば(江戸船改高)1,484艙だったと言う。年間の税金は丁銭で1,474貫900文有ったと言われる。更に江戸廻りで使用された船(舟)の数は21,281艙で丁銀での、上がりは(税金)年間で8,445貫400文有ったと言われる。江戸時代には船には焼印を押して有るから、税金逃れ等は出来なかった様です。所轄は「川奉行」で有った。
さて江戸も大阪も平野部で有り海に面していて港湾が有り、河川が多く有るのだが、江戸で使用された船(舟)の種類はどの様なものが有ったのだろうか。各種史料類から拾って見たが、この他にも未だ有るかも知れない。
○屋形舟、、、物見遊山に使用される舟で、大小有るが大きな物は七間〜八間有ったと言われる。天和2年になると舟の大きさに決まりが出来たと言う。宝永3年頃は100艙有ったと言われるが、文化年間になると30艙程度になったらしい。
○日除舟、、、屋形舟の小型のもので、屋根に日除けが有るのでその様に言う。但し、物見遊山ばかりでは無く、個人の往来用(タクシー)としても使用したと言う。船頭は一人か二人で、柳橋から山谷堀まで一人300文で二人ならば400文だと言う。100艙ほど有ったと言われるが、簾を降ろし中が見えな様に禁止(天保年間より)されたと言う。言うまでも無く風俗取締で有る。
○猪牙舟(チョキ)、、、浅草見附の船宿だった「玉屋」、「笹屋」の発明だと言われるが、長吉と言う者の発明したからとも言え、又の名は「長吉舟」とも言われる。快速舟で有ったと言われるが屋根は有りません。柳橋から山谷堀まで148文だった。又の名を「山谷舟」とも呼んでいる。
○荷足舟、、、荷物を運ぶ専用舟を呼んだ。
○高瀬舟、、、元は京都の高瀬川を往来したもので、利根川筋には高瀬舟と言う300俵を積んだ大型帆船が往来したいたと言う。柳田国男著作には「門の前からほんの少し離れたところを何百と言う帆船が通ると言うのは、本当に新しい発見で有った」と有るから、大正時代頃までは鉄道と並んで健在でも有ったのだろう。高船舟と言う呼び名は全国的なもので有り、歴史的にはかなり古い様です。
○伝間造茶舟、、、茶舟は茶を運ぶ舟では無く、品川沖に停泊した千石船から荷物を倉庫(川岸に立ち並ぶ)に運ぶ舟で有った。大きさも大中小と有ると言う。但し、茶舟と言う呼び名は、舟の中で飲食(女性同伴)する目的の舟だったと言う説が有ります。
○押送舟、、、江戸日本橋の魚屋に鮮魚を届けた舟で舟足が速い。葛飾北斎の大きな富士山を背景にして懸命に櫓を漕ぐ舟が押送舟かと思われる。
○五大力、、、大小が有る。主に江戸廻りの海船で武蔵、伊豆、相模、安房、上総国で使用された船を言う。鰯商舟を言う場合も有る。
○茶舟、、、普通は荷物用で大中小が有る。利根川筋には「木下キオロシ茶舟」が有って、これは鹿島とか香取神宮等に詣でる時に使用したと言う。当然飲食が有ったと思われる。
○土舟、、、堀を浚う為の舟で、江戸の堀で浅い場所は年中堀浚いをしないと浅くなる。
○水舟、、、品川沖に停泊する千石船に水を売る舟で、更には深川方面は水が悪い場所で有ったから、ここにも水舟が入り売っていたらしい。
○肥舟、、、人糞は肥料として重要で有った。昭和30年代頃にも見た事が有る。
○平田舟、、、通舟の一種で、形状は平たくて長い。上州「平田舟」と言われるものも有る。
○渡し船、、、人と手荷物を乗せる河(川)を往来する舟で有る。
以上が、江戸と江戸廻りに使用した船(舟)で有るが、その他にも鬼怒川には「小鵜飼舟」と呼ばれる小舟が有ると、地方史に書いて有る。又「石舟」と呼ぶ石を運んだ舟も有った様です。驚いた事に湖沼等で「肥料にする藻」を刈る「藻舟」も有って、これにも税金を掛けたと言われる。明治以降になると利根川筋には「湯舟」と言う、船頭さんの為の風呂船が有ったらしい。
特殊な例としては、「田舟」とか「出水時の避難用舟」等も有った様ですが、未だ史料(資料)の見落としが有るかも知れない。





