2008/5/12  10:42

西南西に進路を取れ!  旅行
今日は連れ合いに会うために姫路へ。
通常の出勤と同様に六時起きして準備。
6時40分過ぎに最寄り駅に行くバスの停留所に向かうべく大通りに出ると、
信号を隔てた先にあるバス停には発車時間の数分前にも関わらずバスの姿。
しかも発車してしまった…。
バスさん、あなた50分過ぎのバスじゃないですよね?
『君、犯人じゃないよね?』の要潤演じる宇田川警部補の如く、
間抜け極まりない台詞が思わず飛び出しそうになる。
ひょっとしたらお目当てのバスはまだ来ていないのかも。
宇田川の如くあきらめの悪い私はしばらくバス停に待機して、
目の前で走り去ったバスがホシである可能性を否定にかかる。
されど待てど暮らせどバスはやって来ず。
願望を見事裏切られて私は、宇田川同様、泣きたい気分。
10分以上も遅れてきたり、かと思えば発車時間より数分前に来て発車したり、
まったく阪神バスの時刻表は当てにならない。

気を取り直して別の路線のバス停に向かう。
ようやくバスには乗れたもののなんのかんので30分のロス。
この時間、『ロスタイム・ライフ』ならロスタイムに加算されるのかな?
しかし、思うのだけど、人生において本当にロスタイムなんて存在するのだろうか?
どの時間もその人の生を形作る掛け替えのない大切な時だと思うのだけど。
たとえ外見には停滞していたとしても、
それは次のステップに進むための準備の時間であるのかもしれないし、
立ち止まって来し方を振り返り新しい展望を描くための時間であるのかもしれないし。
ある時間を人生において「無駄」と切り捨てることは私にはできない。
個々の仕事には「無駄」という概念は存在すると思うのだ。
目的を達するために回り道になるもの、その仕事とは無関係のもの。
そうしたものは「無駄」という言葉でくくられて然るべきだろう。
たとえば、サッカーの試合におけるけがの治療時間等のプレーに関係ない時間とか。
しかし、人生というのは目的がはっきりしないものだ。
個々の分野での目的はたしかに立てられる。
立身出世とか家庭円満とか。
けれども、
人生は一つの目的で括るにはあまりにも膨大で、様々な側面を持ちすぎている。
立身出世という目的を以て人生に臨む人も、
家庭人や地域の住民という、仕事以外の場面での役割を否応なしに振られている。
もちろん、
その役をどう演じるか、熱演するか淡々と演じるかは個々人の自由であるのだけれど。
人生を貫く一つの目的が立てられない以上、「無駄」という概念とて立ちようがない。
仕事という場面で「無駄」とされることが、
家庭や趣味の世界という場面では「有用」ということは往々にしてあるのだから。
ふと思う。人生は壮大な麻雀もしくはトランプゲームなのではないかと。
すべての牌もしくはカードには意味があり、
作ろうとする役や手によって「無駄」であったり、「有用」であったりする。
けれど人生が麻雀やトランプゲームと違うのは、
「勝利」という一つの目的には縛られていないところだ。
一つの目的に縛られてはいないので、局面局面でいくつもの役(手)が要求される。
どの牌も等しく「有用」であり、
その人の人生という究極の「役」を作るために外せない要素なのだ。
そもそも人生とは常に現在進行形という「過程」の形でしか見られないもの。
功なり名遂げて悠々自適の人生も、
例えてみれば3ー0とリードしてストッパー藤川球児が登板する最終回に過ぎず、
試合自体にはまだ決着はついていない。
試合の結果はゲームセットになった瞬間に初めて出る。
だが、そのときプレーヤーはもうその場にはいない。
人生とはその人自身にとっては「結果」としてしか見ることはできず、
常に「過程」としてしか見ることができないものなのだ。
だからこそどれが「無駄」でどれが「有用」かなど判断のしようもない。
人生において「無駄」なものなどない。
自分自身の来し方を振り返ってもその思いを強くする。
あのドラマは洒落なのだろうけれど、
人生にロスタイムを見るという発想には、
最近はやりの行き過ぎた効率主義・合理主義を感じずにはいられない。

閑話休題。
バスとJR、山陽を乗り継いで姫路に到着したのは10時頃。
JRも山陽も遅れたので予定より到着は随分遅くなってしまった。
移動はちょうどラッシュアワーの時間帯。
すし詰めの満員電車に乗ることには慣れたけれど、
通勤・通学していく人たちを見ていると妙にのんびりとしてほっとするような気持ち。
たぶん、今日は仕事をしなくていいという解放感からなのだろうなあ。
だからこそ明日は我が身大事なのだけれども。

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