最近の作物 仕事
書評「中原昌也『ニートピア2010』(文藝春秋、2008年)」『論座』2008年6月号、朝日新聞社、pp. 324-325。
「ドゥルーズ」『哲学の歴史 第12巻 実存・構造・他者 【20世紀III】』責任編集 鷲田清一、中央公論新社、2008年、pp. 613-662。
「力能と「事象性の度合い」――スピノザ『デカルトの哲学原理』第一部定理7に関する覚書」『論集』26、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室、2008年、pp. 74-90。
「非人間主義の哲学――ピエール・モンテベロの仕事をめぐって」『死生学研究』第9号、東京大学大学院人文社会系研究科、2008年、pp. 82-96。
(翻訳)ピエール・モンテベロ「いかに自然を思考するか?――ドゥルーズの自然哲学」『死生学研究』第9号、東京大学大学院人文社会系研究科、2008年、pp. 60-81。
「ドゥルーズ/ガタリ研究・活用の現在」・「後書きに代えて」『ドゥルーズ/ガタリの現在』小泉義之・鈴木泉・檜垣立哉編、平凡社、2008年、pp. 698-717。
「マルブランシュ」『哲学の歴史 第5巻 デカルト革命 【17世紀】』責任編集 小林道夫、中央公論新社、2007年、pp. 459-505。
「リフの美学――『ZONE TRIPPER』に寄せて――」FRICTION『ZONE TRIPPER』(PASS RECORDS/P-VINE)ライナーノーツ、2007年12月5日発売。
「「お前はお前の踊りを踊れ」という、真っ当で過酷な要求」『ROCKS OFF』Vol.03、シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年12月16日発行、p. 155。
HPのURL:http://homepage.mac.com/izumisz/
なお、このブログ、Windows での閲覧の場合、レイアウトが崩れてしまうことがあります。Mac OSユーザー=マイノリティへのご理解を。
「ドゥルーズ」『哲学の歴史 第12巻 実存・構造・他者 【20世紀III】』責任編集 鷲田清一、中央公論新社、2008年、pp. 613-662。
「力能と「事象性の度合い」――スピノザ『デカルトの哲学原理』第一部定理7に関する覚書」『論集』26、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室、2008年、pp. 74-90。
「非人間主義の哲学――ピエール・モンテベロの仕事をめぐって」『死生学研究』第9号、東京大学大学院人文社会系研究科、2008年、pp. 82-96。
(翻訳)ピエール・モンテベロ「いかに自然を思考するか?――ドゥルーズの自然哲学」『死生学研究』第9号、東京大学大学院人文社会系研究科、2008年、pp. 60-81。
「ドゥルーズ/ガタリ研究・活用の現在」・「後書きに代えて」『ドゥルーズ/ガタリの現在』小泉義之・鈴木泉・檜垣立哉編、平凡社、2008年、pp. 698-717。
「マルブランシュ」『哲学の歴史 第5巻 デカルト革命 【17世紀】』責任編集 小林道夫、中央公論新社、2007年、pp. 459-505。
「リフの美学――『ZONE TRIPPER』に寄せて――」FRICTION『ZONE TRIPPER』(PASS RECORDS/P-VINE)ライナーノーツ、2007年12月5日発売。
「「お前はお前の踊りを踊れ」という、真っ当で過酷な要求」『ROCKS OFF』Vol.03、シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年12月16日発行、p. 155。
HPのURL:http://homepage.mac.com/izumisz/
なお、このブログ、Windows での閲覧の場合、レイアウトが崩れてしまうことがあります。Mac OSユーザー=マイノリティへのご理解を。
2008/5/11 2:57
おかしな二人組、大江健三郎/蓮實重彦 文学
『新潮』連載時に読んだ大江健三郎の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』を、遅まきながら単行本版で再読した。それをきっかけにして、共に『新潮』2008年1月号に掲載されていた、大江健三郎のエッセイ「星々と海底の潮の流れ」と蓮實重彦の評論「去年の暮れ、突然に――大江健三郎『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』」を読んだ。
前者においては、次作となるかも知れない「短かめの長編」が『荒地』の有名な詩行に喚起にされてのものであることが示唆されていて、心躍らされた。(矢作俊彦にも『舵をとり 風上に向く者』という題名の短編連作集があるが、大江健三郎は、もちろん深瀬基寛の訳から該当部分を引用している。前作と同様にその詩行から題名を取るとしたら、どの部分が選ばれるのだろうか。)
さて、一読してさらに興奮したのは、蓮實重彦の評論である。2007年9月2日付けのエントリーにおいて私は、「第四章 「アナベル・リイ映画」無削除版」はちょっと凄い。「「赤」の誘惑」どころの話ではない。」と書き、その感想には今でも変わりはないのだが、あたかも『「赤」の誘惑』に対抗して書かれたかのような小説に対して、正面からの読解を試み、この人にしか出来ない批評を提示している。私の力量では、いわゆるネタバレをしないようにして、それを紹介することは出来ないので、現物を読んで欲しいと思う。
四半世紀も前に蓮實重彦の『大江健三郎論』を驚きと戸惑いとを感じながら読んだことを今でもよく覚えているが、その後書きに書かれていたように、大江健三郎と蓮實重彦の関係はとても不思議なものである。ノーベル賞受賞後に柄谷行人と大江健三郎とは対談を行っているが、蓮實重彦/大江健三郎間にはそのようなものはあっただろうか。だが、そのような世俗的・文壇的な交わりとは別に、この二人の間には、それこそ<おかしな二人組>の関係が成立しているように思われてならない。
前者においては、次作となるかも知れない「短かめの長編」が『荒地』の有名な詩行に喚起にされてのものであることが示唆されていて、心躍らされた。(矢作俊彦にも『舵をとり 風上に向く者』という題名の短編連作集があるが、大江健三郎は、もちろん深瀬基寛の訳から該当部分を引用している。前作と同様にその詩行から題名を取るとしたら、どの部分が選ばれるのだろうか。)
さて、一読してさらに興奮したのは、蓮實重彦の評論である。2007年9月2日付けのエントリーにおいて私は、「第四章 「アナベル・リイ映画」無削除版」はちょっと凄い。「「赤」の誘惑」どころの話ではない。」と書き、その感想には今でも変わりはないのだが、あたかも『「赤」の誘惑』に対抗して書かれたかのような小説に対して、正面からの読解を試み、この人にしか出来ない批評を提示している。私の力量では、いわゆるネタバレをしないようにして、それを紹介することは出来ないので、現物を読んで欲しいと思う。
四半世紀も前に蓮實重彦の『大江健三郎論』を驚きと戸惑いとを感じながら読んだことを今でもよく覚えているが、その後書きに書かれていたように、大江健三郎と蓮實重彦の関係はとても不思議なものである。ノーベル賞受賞後に柄谷行人と大江健三郎とは対談を行っているが、蓮實重彦/大江健三郎間にはそのようなものはあっただろうか。だが、そのような世俗的・文壇的な交わりとは別に、この二人の間には、それこそ<おかしな二人組>の関係が成立しているように思われてならない。
2008/5/10 15:31
ベルクソンのドゥルーズ宛未公刊書簡三通 哲学
「貴兄がお送り下さった著作に対して、それを読む時間が出来てから御礼を申し上げようと思っておりました。名誉なことに貴兄が私に割いて下さった研究は、とても密度の濃いものですし、仕事で手一杯で、それをじっくりと読んで検討するためには先週まで待たねばなりませんでした。今でも表面的な仕方でしか出来ていませんが。読み返すつもりです。ですが、まずは、貴兄が私の哲学に対して描いて下さった<忠実な>肖像画がどんなに私の関心を引いたかということを、お伝えしたいと強く望むものです。」
ベルクソンがドゥルーズに宛てて送った未公刊書簡の冒頭である。年老いたベルクソンが、Le Begsonisme を送られたことに対してドゥルーズにお礼を述べている。この書簡を含むベルクソンのドゥルーズ宛未公刊書簡三通がこのたび公刊された。一通目の書簡は、方法としての直観をめぐって、ベルクソンがドゥルーズの解釈を称え、最後には、自らに固有の哲学を「貴兄の固有の名前で、洗練させて展開すること」へ誘い、その哲学は「差異、もっと言えば純粋差異の哲学になるでしょう」と予言した上で、会いに来ないかと誘い、追伸では、ベルクソン著作抜粋集 Mémoire et vie へのお礼を述べて閉じられる。ベルクソン研究にとってもドゥルーズ研究にとってもこれほどまでに貴重な資料がこれまで刊行されなかったのは不思議なことである。
というのは、勿論半ば冗談で――ベルクソンが逝去したのは1941年――、今をときめく Elie During によって「想像された」三通の書簡が公刊された(Critique, Mai 2008, 732)。二通目は、1967年12月に博士論文『差異と反復』の最初のヴァージョンをもとに交わされた会話を受けての、ベルクソンによる『差異と反復』に対する感想を述べたもの。三つ目は、『アンチ・オイディプス』(?、もしかしたら『千のプラトー』?)に関する感想を述べている。こんな書簡があったら、研究史も様々な意味でひっくり返るであろうと思わせる、刺激に満ちた楽しい企画である。
『差異と反復』について論じる二通目の書簡においては、問題としての理念と微分に関する議論にとりわけ関心をもったこと、「思考のイメージ」をめぐる第三章が成功していると思われる、といったことが述べられる。三つ目の書簡においては、『アンチ・オイディプス』(もしくは『千のプラトー』)のパッチワークのような叙述の仕方とウイリアム・ジェイムズの「地図製作」とを関係づけた上で、「構築主義」を示唆し、また書簡での議論をもとに「リゾーム」概念を肯定的に評価し――どうも、著作としての『リゾーム』の刊行を勧めたのはベルクソンらしいのだ――、自らの場合と同様に、著作を読みもしない者どもによって誤解されることの危険性を老ベルクソンが示唆する。そして、最後には、哲学の方法をめぐる著作の執筆を勧め、また、映画論執筆の企画を喜んでいる。
というわけで、1966年から1970年代(もしくは80年初頭)という時期にわたるベルクソンとドゥルーズ交友関係が捏造され、『リゾーム』も『哲学とは何か』もベルクソンの強い勧めのもと執筆されたことになった。単なる遊びといえばそれまでだし、ベルクソンの文体のパステイシュが成功しているかどうかは私には評価できない。また、『差異と反復』第四章におけるベルクソンの潜在性概念に対する批判にベルクソン=During がどのように応接するのか、ということも知りたいとは思う。だが、この遊びを通して、ベルクソン/ドゥルーズ関係の広がりが興味深い仕方で示されたのも事実である。(とてもよく考えられた遊びで、冒頭の「忠実な」という措辞は、抹消されているとのことらしい。)
なお、この「未公刊」書簡は、「戦場の[斜交いの?]ベルクソン」という小特集の一つで、他には、 シャルル・モーラスに関する書物と François Azouvi によるベルクソン受容に関する書物への書評(Antoine Compagon)、先日来日した Pascal Engel によるジュリアン・バンダ/ベルクソンに関する論考、そして、昨年京都でベルクソンの哲学史関係講義録に関して情報量の多い発表を行った Camille Riquier による、 « Bergson (d')après Deleuze »という題名の最近のベルクソン研究とその意義を俯瞰するような見事な書評が掲載されている。
ベルクソンがドゥルーズに宛てて送った未公刊書簡の冒頭である。年老いたベルクソンが、Le Begsonisme を送られたことに対してドゥルーズにお礼を述べている。この書簡を含むベルクソンのドゥルーズ宛未公刊書簡三通がこのたび公刊された。一通目の書簡は、方法としての直観をめぐって、ベルクソンがドゥルーズの解釈を称え、最後には、自らに固有の哲学を「貴兄の固有の名前で、洗練させて展開すること」へ誘い、その哲学は「差異、もっと言えば純粋差異の哲学になるでしょう」と予言した上で、会いに来ないかと誘い、追伸では、ベルクソン著作抜粋集 Mémoire et vie へのお礼を述べて閉じられる。ベルクソン研究にとってもドゥルーズ研究にとってもこれほどまでに貴重な資料がこれまで刊行されなかったのは不思議なことである。
というのは、勿論半ば冗談で――ベルクソンが逝去したのは1941年――、今をときめく Elie During によって「想像された」三通の書簡が公刊された(Critique, Mai 2008, 732)。二通目は、1967年12月に博士論文『差異と反復』の最初のヴァージョンをもとに交わされた会話を受けての、ベルクソンによる『差異と反復』に対する感想を述べたもの。三つ目は、『アンチ・オイディプス』(?、もしかしたら『千のプラトー』?)に関する感想を述べている。こんな書簡があったら、研究史も様々な意味でひっくり返るであろうと思わせる、刺激に満ちた楽しい企画である。
『差異と反復』について論じる二通目の書簡においては、問題としての理念と微分に関する議論にとりわけ関心をもったこと、「思考のイメージ」をめぐる第三章が成功していると思われる、といったことが述べられる。三つ目の書簡においては、『アンチ・オイディプス』(もしくは『千のプラトー』)のパッチワークのような叙述の仕方とウイリアム・ジェイムズの「地図製作」とを関係づけた上で、「構築主義」を示唆し、また書簡での議論をもとに「リゾーム」概念を肯定的に評価し――どうも、著作としての『リゾーム』の刊行を勧めたのはベルクソンらしいのだ――、自らの場合と同様に、著作を読みもしない者どもによって誤解されることの危険性を老ベルクソンが示唆する。そして、最後には、哲学の方法をめぐる著作の執筆を勧め、また、映画論執筆の企画を喜んでいる。
というわけで、1966年から1970年代(もしくは80年初頭)という時期にわたるベルクソンとドゥルーズ交友関係が捏造され、『リゾーム』も『哲学とは何か』もベルクソンの強い勧めのもと執筆されたことになった。単なる遊びといえばそれまでだし、ベルクソンの文体のパステイシュが成功しているかどうかは私には評価できない。また、『差異と反復』第四章におけるベルクソンの潜在性概念に対する批判にベルクソン=During がどのように応接するのか、ということも知りたいとは思う。だが、この遊びを通して、ベルクソン/ドゥルーズ関係の広がりが興味深い仕方で示されたのも事実である。(とてもよく考えられた遊びで、冒頭の「忠実な」という措辞は、抹消されているとのことらしい。)
なお、この「未公刊」書簡は、「戦場の[斜交いの?]ベルクソン」という小特集の一つで、他には、 シャルル・モーラスに関する書物と François Azouvi によるベルクソン受容に関する書物への書評(Antoine Compagon)、先日来日した Pascal Engel によるジュリアン・バンダ/ベルクソンに関する論考、そして、昨年京都でベルクソンの哲学史関係講義録に関して情報量の多い発表を行った Camille Riquier による、 « Bergson (d')après Deleuze »という題名の最近のベルクソン研究とその意義を俯瞰するような見事な書評が掲載されている。
2008/5/1 20:34
訂正 哲学
先頃刊行された拙稿「ドゥルーズ」(『哲学の歴史 第12巻 実存・構造・他者 【20世紀III】』責任編集 鷲田清一、中央公論新社、2008年、所収)に思わぬ誤りがあったので、この場を借りて訂正する。(二刷りの際に、正式に訂正したい。)
662頁の最後から三行目から二行目において、私は「冒頭に引用したフーコーの言葉は、条件法で記されていた。」と記したが、これは、とても恥ずかしいことだが、「冒頭に引用したフーコーの言葉は、未来形で記されていた。」の誤りである。したがって、三行目から一行目にかけて、正しくは次のように訂正したい。
「冒頭に引用したフーコーの言葉は、未来形で記されていた。この世紀の思考をドゥルーズ哲学によってさらに活性化させることは、私たちそれぞれの手に委ねられている。」
未来形で書かれていると覚えていたが、この稿を執筆中に、条件法で書かれているということに、どういうわけか誤って気づいた、というか妄想してしまった。原文にもあたったはずなのに、生じてしまった妄想である。読者の方々には謝った情報を伝えてしまったことを深くお詫びしたい。
また、こちらは単なるケアレスミスだが、768頁中頃、『カントの批判哲学』に関する説明中にも誤りがあった。「最大の敵ニーチェ」とあるが、もちろん、これは「最大の敵カント」の誤りである。こちらも訂正したい。
662頁の最後から三行目から二行目において、私は「冒頭に引用したフーコーの言葉は、条件法で記されていた。」と記したが、これは、とても恥ずかしいことだが、「冒頭に引用したフーコーの言葉は、未来形で記されていた。」の誤りである。したがって、三行目から一行目にかけて、正しくは次のように訂正したい。
「冒頭に引用したフーコーの言葉は、未来形で記されていた。この世紀の思考をドゥルーズ哲学によってさらに活性化させることは、私たちそれぞれの手に委ねられている。」
未来形で書かれていると覚えていたが、この稿を執筆中に、条件法で書かれているということに、どういうわけか誤って気づいた、というか妄想してしまった。原文にもあたったはずなのに、生じてしまった妄想である。読者の方々には謝った情報を伝えてしまったことを深くお詫びしたい。
また、こちらは単なるケアレスミスだが、768頁中頃、『カントの批判哲学』に関する説明中にも誤りがあった。「最大の敵ニーチェ」とあるが、もちろん、これは「最大の敵カント」の誤りである。こちらも訂正したい。
2008/5/1 0:04
中原昌也『ニートピア2010』 文学
これまたひょんなことから中原昌也『ニートピア2010』の書評を、本日発売の『論座』2008年6月号に書いたので、関心のある向きは(ご購入の上)読んで下されば幸いである。
同じ号には、笙野頼子に関する充実した特集もあり、お買い得であることも言い添えておきたい(大西巨人も寄稿している)。
同じ号には、笙野頼子に関する充実した特集もあり、お買い得であることも言い添えておきたい(大西巨人も寄稿している)。
2008/4/28 10:15
Friction at ARABAKI ROCK FES. 08 音楽
Frictionを聞きに、宮城県の ARABAKI ROCK FES. 08 にやってきた(2008年4月27日)。
35分という短い時間ではあったが、圧巻という以外にない。いや、むしろ35分という短い時間だったからこそ、レックと中村達也の緊張感に満ちたインタープレイ=軋轢が最初から最後まで持続し、かっこいいなあと思っているうちに終わってしまった、と言うべきだろう。
中村達也のドラムのサウンド・チェックが緊張感に満ちたステージを実質的には一人で初め、レック登場、重いリフの新曲(?), 風が吹き抜ける中高速で駆け抜ける Missing Kissing, 強さで迫ってくる The Heavy Cut, ハウリングを利用した前奏から始まり、一気に加速する Cycle Dance, ギターの切れ味よくリズムにダイナミズムの加わる Big-S, そして、かっこよさの極致 Head Out Head Start。夕闇が迫り、風が吹き遅咲きの桜が舞い散る中の35分だった。
広島・大阪・名古屋と珍しく続いた連日のライヴのおかげか、二人のインタープレイ=軋轢の緊張感は、昨年以来のライヴの中でも群を抜いて素晴らしかった。一月ほど空くが、来月の東京での長尺のライヴが本当に楽しみ。今のフリクションを見ないと後悔することになると思う。
(FRICTION のライヴが素晴らしかったので、それなりに楽しかったゆらゆら帝国の記憶はかすんでしまったし、一曲だけ聞いてその迫力のなさのためにその場を立ち去ってしまったオリジナル・ラヴについて触れる必要はないだろう。)
35分という短い時間ではあったが、圧巻という以外にない。いや、むしろ35分という短い時間だったからこそ、レックと中村達也の緊張感に満ちたインタープレイ=軋轢が最初から最後まで持続し、かっこいいなあと思っているうちに終わってしまった、と言うべきだろう。
中村達也のドラムのサウンド・チェックが緊張感に満ちたステージを実質的には一人で初め、レック登場、重いリフの新曲(?), 風が吹き抜ける中高速で駆け抜ける Missing Kissing, 強さで迫ってくる The Heavy Cut, ハウリングを利用した前奏から始まり、一気に加速する Cycle Dance, ギターの切れ味よくリズムにダイナミズムの加わる Big-S, そして、かっこよさの極致 Head Out Head Start。夕闇が迫り、風が吹き遅咲きの桜が舞い散る中の35分だった。
広島・大阪・名古屋と珍しく続いた連日のライヴのおかげか、二人のインタープレイ=軋轢の緊張感は、昨年以来のライヴの中でも群を抜いて素晴らしかった。一月ほど空くが、来月の東京での長尺のライヴが本当に楽しみ。今のフリクションを見ないと後悔することになると思う。
(FRICTION のライヴが素晴らしかったので、それなりに楽しかったゆらゆら帝国の記憶はかすんでしまったし、一曲だけ聞いてその迫力のなさのためにその場を立ち去ってしまったオリジナル・ラヴについて触れる必要はないだろう。)
2008/4/27 8:32
新刊紹介 哲学
気持ちを入れ替えて、いつもの如く新刊紹介。
まずは、私もドゥルーズについて寄稿した『哲学の歴史 第12巻 実存・構造・他者 【20世紀III】』(責任編集 鷲田清一、中央公論新社)。ソーカル問題などもあったせいか、単なる言葉遊びや鬼面人を驚かすような物言いに注目が集まることが多い現代フランス哲学だが、私個人は、少しだけマッチ・ポンプの趣を有するかも知れないものの、まさしく「ドイツ観念論に匹敵するような哲学運動」であったと思う。但し、その真価は、あくまでも醒めた素面の眼差しでもって、彼らの作り上げた諸概念の意義を測定することによって初めて明らかになるものである。その点、――拙稿がそれに成功しているかどうかは別にして――主に40代の執筆者からなる本書を通読して、例外的に意味あるものになっているように思った。オーヴァードーズには、「慎重さのテクニック」をもって対処する必要がある、というドゥルーズ&ガタリの言葉が改めて想起されねばならない。(この場を借りて、削除してしまったエントリーに的確なコメントをいち早く寄せて下さったcharisさんに御礼とお詫びを申し上げたい。)
さて、残りはいつもの如く、ドゥルーズとスピノザ関連。
廣瀬純さんも寄稿している、Gilles Deleuze et les images, sous la direction de François Dosse et Jean-Michel Frondon, Paris, Cahiers du cinéma/Institut National de l'audiovisuel, 2008 は、主にドゥルーズの映画論をめぐる貴重な論文集。今や映画監督になった Pascal Bonitzer と André Téchiné との対談の他、Dominique Païni, Alain Bergala, Jean-Louis Leutrat, Christian Buci-Glucksmann, Raymond Bellourを初めとして、フランスの主立った映画評論家・批評家総出演の趣き。ドゥルーズと映画をめぐる私的な関わりに関する論考も含みつつ、ドゥルーズの映画論を引き延ばす作業が数多く示されていて刺激的。
この書の刊行を契機に « Deleuze et le cinéma » というエッセイが、Les inrockuptibles 誌(Du 15 au 21 avril 2008, N° 646)に掲載されているが、ドゥルーズの娘にして映画監督であるエミリー・ドゥルーズへのインタヴューが併載されている。それによると、彼女には、父ドゥルーズをめぐる映画を撮る計画があり、三人の役者にジルを演じさせることになっていて、何とその一人はロバート・ミッチャム。ロバート・ミッチャムは、この企画に応じていて、その役はドゥルーズの家族と愛情に関わる側面であった、とのこと。『狩人の夜』の役者とドゥルーズとが、このようにして交差する可能性があったとは、ちょっと楽しいではないか。
次は、ドゥルーズの<超越論的経験論>をめぐる研究書。この主題に関しては、私たちは江川隆男の怪物的な書物を有しているが、それに比べればずっとおとなしいものの、丁寧な仕事である。Levi R. Bryant, Difference and Giveness. Deleuze's Transcendental Empiricism and the Ontology of Immanence, Evanston, Northwestern University Press, 2008.
こちらは通読していないが、スピノザ関係では、Interpreting Spinoza. Critical Essays, edited by Charlie Huememann, Cambridge, Cambridge University Press, 2008 に幾つか興味深い論考がある。例えば、Michael V. Griffin, « Necessitarianisim in Spinoza and Leibniz » などはしっかりとした研究。
これから、老母の様子伺いがてら帰郷し、ARABAKI ROCK FES. 08 に行くので、今日はここまで。勿論、主な目的は FRICTION である。野外ロックフェスだから、どうせ時間は短いだろうが、これまでのツアーでは、新曲も披露されたということであるから、期待は高まる。(ついでに、ゆらゆら帝国を野外で聞くことが出来るのも楽しみ。)
[Les inrockuptibles 誌関係の段落を追加。5月1日記]
まずは、私もドゥルーズについて寄稿した『哲学の歴史 第12巻 実存・構造・他者 【20世紀III】』(責任編集 鷲田清一、中央公論新社)。ソーカル問題などもあったせいか、単なる言葉遊びや鬼面人を驚かすような物言いに注目が集まることが多い現代フランス哲学だが、私個人は、少しだけマッチ・ポンプの趣を有するかも知れないものの、まさしく「ドイツ観念論に匹敵するような哲学運動」であったと思う。但し、その真価は、あくまでも醒めた素面の眼差しでもって、彼らの作り上げた諸概念の意義を測定することによって初めて明らかになるものである。その点、――拙稿がそれに成功しているかどうかは別にして――主に40代の執筆者からなる本書を通読して、例外的に意味あるものになっているように思った。オーヴァードーズには、「慎重さのテクニック」をもって対処する必要がある、というドゥルーズ&ガタリの言葉が改めて想起されねばならない。(この場を借りて、削除してしまったエントリーに的確なコメントをいち早く寄せて下さったcharisさんに御礼とお詫びを申し上げたい。)
さて、残りはいつもの如く、ドゥルーズとスピノザ関連。
廣瀬純さんも寄稿している、Gilles Deleuze et les images, sous la direction de François Dosse et Jean-Michel Frondon, Paris, Cahiers du cinéma/Institut National de l'audiovisuel, 2008 は、主にドゥルーズの映画論をめぐる貴重な論文集。今や映画監督になった Pascal Bonitzer と André Téchiné との対談の他、Dominique Païni, Alain Bergala, Jean-Louis Leutrat, Christian Buci-Glucksmann, Raymond Bellourを初めとして、フランスの主立った映画評論家・批評家総出演の趣き。ドゥルーズと映画をめぐる私的な関わりに関する論考も含みつつ、ドゥルーズの映画論を引き延ばす作業が数多く示されていて刺激的。
この書の刊行を契機に « Deleuze et le cinéma » というエッセイが、Les inrockuptibles 誌(Du 15 au 21 avril 2008, N° 646)に掲載されているが、ドゥルーズの娘にして映画監督であるエミリー・ドゥルーズへのインタヴューが併載されている。それによると、彼女には、父ドゥルーズをめぐる映画を撮る計画があり、三人の役者にジルを演じさせることになっていて、何とその一人はロバート・ミッチャム。ロバート・ミッチャムは、この企画に応じていて、その役はドゥルーズの家族と愛情に関わる側面であった、とのこと。『狩人の夜』の役者とドゥルーズとが、このようにして交差する可能性があったとは、ちょっと楽しいではないか。
次は、ドゥルーズの<超越論的経験論>をめぐる研究書。この主題に関しては、私たちは江川隆男の怪物的な書物を有しているが、それに比べればずっとおとなしいものの、丁寧な仕事である。Levi R. Bryant, Difference and Giveness. Deleuze's Transcendental Empiricism and the Ontology of Immanence, Evanston, Northwestern University Press, 2008.
こちらは通読していないが、スピノザ関係では、Interpreting Spinoza. Critical Essays, edited by Charlie Huememann, Cambridge, Cambridge University Press, 2008 に幾つか興味深い論考がある。例えば、Michael V. Griffin, « Necessitarianisim in Spinoza and Leibniz » などはしっかりとした研究。
これから、老母の様子伺いがてら帰郷し、ARABAKI ROCK FES. 08 に行くので、今日はここまで。勿論、主な目的は FRICTION である。野外ロックフェスだから、どうせ時間は短いだろうが、これまでのツアーでは、新曲も披露されたということであるから、期待は高まる。(ついでに、ゆらゆら帝国を野外で聞くことが出来るのも楽しみ。)
[Les inrockuptibles 誌関係の段落を追加。5月1日記]
2008/4/21 5:05
ブログ開設二周年の雑感 分類なし
先ほど気づいたが、このブログ、開設してちょうど二年が経った。ほんの思いつきで、但し本当におずおずと始めたのだが、このブログを通して(のみ)知り合うことの出来た貴重な友人が少なからずいることを考えると、ブログにもそこそこの効用があるものだとつくづく思う。初めはいいもの・いいこと紹介に徹していて、その点、大枠では変化はないものの、それでも少しずつ利用の仕方を拡大しつつあることは、ときどき眼を通して下さる方々はお気づきだろう。筆の遅い私は、公刊すべき文章をこのブログとは異なる場所に提示することで基本的には精一杯だから、今後もそれほどの拡大はないが、公刊のあてのない文章がどういうわけか書き上がった場合には、あれこれの紹介記事と共に提示していきたいとは思う。
この四月から、勤務先では(極めて良識的な仕方ではあるが)特定の喫煙場所を除いて禁煙が制度化されたし、神奈川県ではとても不穏な動きが喫煙をめぐって生じつつあるらしい(パチンコ屋まで分煙ではなく全面禁煙にしてしまう必要があるのか、というか、パチンコ屋が潰れるのではないか?いや、むしろ、某都知事と共に神奈川県知事ももしかしたら民族差別主義者で、それが一因となって、それを望んでいるのか、とまで邪推してしまいそうだ)ので、生権力と喫煙・禁煙問題に関しては、少し本格的に研究プロジェクトを(個人的に)立ち上げることにする。研究成果はこのブログで報告することにしたい。
パティ・スミスの翻訳、「ファンシー・ヤンキー・ベイビー問題」あるいは「偽装ロック問題」――B's問題・Love Psychedelico問題等は、先日都内で開催された研究会においてこのように命名された――を初めとして、積み残しも無数にあるが、ブログにまで縛られると何をしているのかわからなくなるので、それらに関しては長い目で見て下さると幸いである。
(一旦公開したエントリーは、削除すべきではないというのが方針であったが、戯言に類するものは投稿しないというのが本来の・上位に立つ方針なので、肯定的でない戯言を書いた4月22日付けのエントリーは削除することにした。)[括弧内、4月22日午後記]
この四月から、勤務先では(極めて良識的な仕方ではあるが)特定の喫煙場所を除いて禁煙が制度化されたし、神奈川県ではとても不穏な動きが喫煙をめぐって生じつつあるらしい(パチンコ屋まで分煙ではなく全面禁煙にしてしまう必要があるのか、というか、パチンコ屋が潰れるのではないか?いや、むしろ、某都知事と共に神奈川県知事ももしかしたら民族差別主義者で、それが一因となって、それを望んでいるのか、とまで邪推してしまいそうだ)ので、生権力と喫煙・禁煙問題に関しては、少し本格的に研究プロジェクトを(個人的に)立ち上げることにする。研究成果はこのブログで報告することにしたい。
パティ・スミスの翻訳、「ファンシー・ヤンキー・ベイビー問題」あるいは「偽装ロック問題」――B's問題・Love Psychedelico問題等は、先日都内で開催された研究会においてこのように命名された――を初めとして、積み残しも無数にあるが、ブログにまで縛られると何をしているのかわからなくなるので、それらに関しては長い目で見て下さると幸いである。
(一旦公開したエントリーは、削除すべきではないというのが方針であったが、戯言に類するものは投稿しないというのが本来の・上位に立つ方針なので、肯定的でない戯言を書いた4月22日付けのエントリーは削除することにした。)[括弧内、4月22日午後記]
2008/4/21 2:12
PANTA〜響『2U〜olive tour final〜』 音楽
2007年11月22日付けのエントリーで触れた PANTA〜響のライヴ(10月5日・6日、於赤坂GRAFFITI)が早々と二枚組のCDとして発売された(販売は通販・ライヴ会場のみ。http://www.fly-p.com/)。そこで書いたことに付け加えることはない。あの素晴らしいライヴがほぼそのまま蘇る。(但し、二日間のセットリストとはかなり異なる曲順になっており、この点には関しては分析が必要かも知れない。「オリオン頌歌」から始まり「オリオン頌歌第2章」で終わるなど、自然な構成になっている。)また、「<青春の香り>」、「埃っぽい街」、「渇いた風景」という言葉でこのライヴ・アルバムと重信房子との共作の特質を見事に浮かび上がらせる須田諭一による解説も必読。そして、6月1日には、このアルバムにも収められている、寺山修司の詩に曲をつけた「時代はサーカスの象にのって」がシングルとして発売とのこと。チベットも揺れているし、ネグリは来ないし、とすると今年は PANTA がさらに暴れる年か。
2008/4/21 1:43
四人囃子 at 後楽園JCBホール 音楽
四人囃子のライヴに6年ぶりに行ってきた(『ROCK LEGENDS』、CREATION とのジョイント、4月19日、於後楽園JCBホール)。四人囃子と頭脳警察とのジョイント、および、頭脳・囃子を新宿厚生年金会館で見て以来である。今回は前回よりもやや長めのライブで、新曲2曲とピンク・フロイドのカヴァー曲のアンコールを含む11曲。唯一無比の四人囃子の世界を存分に堪能出来た。

外国人のロック好きの友人に「日本にもロックなんてあるの」などという素朴な質問をされたときに黙って手渡すのは、四人囃子の『一触即発』か『ゴールデン・ピクニックス』とフリクションの『軋轢』か『ZONE TRIPPER』である。フリクションについては、ここでは改めて触れる必要もないが、(少なくとも森園勝敏期の)四人囃子はその圧倒的なオリジナリティでもっていつも私を魅了してきた。それも、「おまつり」、「カーニバルがやってくるぞ」といった曲名や『ゴールデン・ピクニックス』というアルバム・タイトル、さらにはグループ名が示すように、祭りとの関係を保ちつつも、おまつりそのものというよりは、おまつりの後、ないしはそのさなかにすら感じ取られる空虚な感覚をもち、また、楽曲が進むうちに危機を喚起する混沌へと連れ去っていく、その特異な世界に惹かれ続けている。ジャン・ルノワールの『ピクニック』やジャック・タチの映画がルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』に変転する世界、或いはゴダールの『ウイークエンド』の世界、とでも言ったらいいか。
さらに、これはかなり深読みだが、歌詞の不思議な魅力。湯浅学は「おまつり」の主人公を犬であると指摘した後で、「人によってはこの曲に全共闘の内ゲバを読み取るかもしれない」と述べているが、私は連合赤軍事件の残照を感じる(「なにもすることがなくて/なにもすることがなくて/おろしたてのバラ色のシャツきて/おまつりのある街へ/その街にはいつもおまつりがあるのさ みんな輪になっておどる/みんな輪になっておどる/おれもおどろうとしたけど/誰かの足をふんづけて/しょうがなしにみんなの匂いを/かいでまわったのさ みんなで一つづつ歌を唄うことになって/みんなはもちろん彼女のことを歌ったのさ/おれの番がやってきて/あのこのことを唄おうとしたけど/文句を忘れてフシだけで唄ったのさ/そしたらみんなはおこって/おれの頭をなぐりつけたのさ なにもすることがなくて/なにもすることがなくて/おろしたてのバラ色のシャツも/もうやぶれそう/やっぱりおまつりのある街へいくと/泣いてしまう」)。さらには、こちらはもちろん意図されたわけではないのだが、「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」は、拉致事件を予知しているかのようである。
後半の CREATION のライブは、私には正直言ってかなり辛いものであった。中学生時代に何曲かコピーしたことを途中で思い出したが、そのときから竹田和夫のギターはちょっと苦手だったという記憶も蘇ってきた。ロック・ミュージックをこの国で消化していく際の試行錯誤の一つの形態・サンプルとしては理解できるものの、それ以上の感興はない。まあ、リフ研究の一環として座っていたとも言えるが、それなりに魅力的なリフもそれだけでは力をもつものではない、ということを改めて確認したことが成果といえば成果か。アンコールは、予想通り「Spinning Toe Hold」。もしかして、森園閣下とのダブルギターか、とそれだけを期待していたが、それもなく、こちらはちょっと残念。
聞きに行くつもりはまったくないが、フラワー・トラヴェリン・バンドが再結成したらしいし、5月18日には日比谷の野音で、ブルース・クリエイション、紫、めんたんぴんと共に、再武装した頭脳警察のライヴがある(こちらは義務である)。現在50代後半から60代のミュージシャン、つまりは70年代に活躍したミュージシャンの全てを手放しに称揚するつもりはないし、実際、正直言って聞くに堪えるものは限られている。だが、その中には、とてつもなく変わらずに魅力的なものが多いのも事実である。ノスタルジーはまったくないが、少なくとも、彼らのライブを見る機会は、寂しいことに次第に減っていくことも事実であるから、出来るだけそれを逃さないようにしたい。
昨日(20日)からは、我がアイドルと実は同い年のЯ eck率いるFrictionのツアーが始まったばかりである。4月27日は宮城県での ARABAKI ROCK FES. 08、そして5月21日には渋谷クアトロ。この調子で行くと、今年は二桁の数のライヴだろうか、期待は高まるばかりである(二桁は99まである!)。結成30周年(そして、前身が3/3なの)だから、三枚組のニューアルバム発売などという夢のような事件が生じるといいが。
外国人のロック好きの友人に「日本にもロックなんてあるの」などという素朴な質問をされたときに黙って手渡すのは、四人囃子の『一触即発』か『ゴールデン・ピクニックス』とフリクションの『軋轢』か『ZONE TRIPPER』である。フリクションについては、ここでは改めて触れる必要もないが、(少なくとも森園勝敏期の)四人囃子はその圧倒的なオリジナリティでもっていつも私を魅了してきた。それも、「おまつり」、「カーニバルがやってくるぞ」といった曲名や『ゴールデン・ピクニックス』というアルバム・タイトル、さらにはグループ名が示すように、祭りとの関係を保ちつつも、おまつりそのものというよりは、おまつりの後、ないしはそのさなかにすら感じ取られる空虚な感覚をもち、また、楽曲が進むうちに危機を喚起する混沌へと連れ去っていく、その特異な世界に惹かれ続けている。ジャン・ルノワールの『ピクニック』やジャック・タチの映画がルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』に変転する世界、或いはゴダールの『ウイークエンド』の世界、とでも言ったらいいか。
さらに、これはかなり深読みだが、歌詞の不思議な魅力。湯浅学は「おまつり」の主人公を犬であると指摘した後で、「人によってはこの曲に全共闘の内ゲバを読み取るかもしれない」と述べているが、私は連合赤軍事件の残照を感じる(「なにもすることがなくて/なにもすることがなくて/おろしたてのバラ色のシャツきて/おまつりのある街へ/その街にはいつもおまつりがあるのさ みんな輪になっておどる/みんな輪になっておどる/おれもおどろうとしたけど/誰かの足をふんづけて/しょうがなしにみんなの匂いを/かいでまわったのさ みんなで一つづつ歌を唄うことになって/みんなはもちろん彼女のことを歌ったのさ/おれの番がやってきて/あのこのことを唄おうとしたけど/文句を忘れてフシだけで唄ったのさ/そしたらみんなはおこって/おれの頭をなぐりつけたのさ なにもすることがなくて/なにもすることがなくて/おろしたてのバラ色のシャツも/もうやぶれそう/やっぱりおまつりのある街へいくと/泣いてしまう」)。さらには、こちらはもちろん意図されたわけではないのだが、「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」は、拉致事件を予知しているかのようである。
後半の CREATION のライブは、私には正直言ってかなり辛いものであった。中学生時代に何曲かコピーしたことを途中で思い出したが、そのときから竹田和夫のギターはちょっと苦手だったという記憶も蘇ってきた。ロック・ミュージックをこの国で消化していく際の試行錯誤の一つの形態・サンプルとしては理解できるものの、それ以上の感興はない。まあ、リフ研究の一環として座っていたとも言えるが、それなりに魅力的なリフもそれだけでは力をもつものではない、ということを改めて確認したことが成果といえば成果か。アンコールは、予想通り「Spinning Toe Hold」。もしかして、森園閣下とのダブルギターか、とそれだけを期待していたが、それもなく、こちらはちょっと残念。
聞きに行くつもりはまったくないが、フラワー・トラヴェリン・バンドが再結成したらしいし、5月18日には日比谷の野音で、ブルース・クリエイション、紫、めんたんぴんと共に、再武装した頭脳警察のライヴがある(こちらは義務である)。現在50代後半から60代のミュージシャン、つまりは70年代に活躍したミュージシャンの全てを手放しに称揚するつもりはないし、実際、正直言って聞くに堪えるものは限られている。だが、その中には、とてつもなく変わらずに魅力的なものが多いのも事実である。ノスタルジーはまったくないが、少なくとも、彼らのライブを見る機会は、寂しいことに次第に減っていくことも事実であるから、出来るだけそれを逃さないようにしたい。
昨日(20日)からは、我がアイドルと実は同い年のЯ eck率いるFrictionのツアーが始まったばかりである。4月27日は宮城県での ARABAKI ROCK FES. 08、そして5月21日には渋谷クアトロ。この調子で行くと、今年は二桁の数のライヴだろうか、期待は高まるばかりである(二桁は99まである!)。結成30周年(そして、前身が3/3なの)だから、三枚組のニューアルバム発売などという夢のような事件が生じるといいが。
