2008/4/5  13:55

喫煙について  心と体
 パリの余りに様変わりした喫煙事情を受けて、煙草について幾つか。
 喫煙・禁煙・嫌煙をめぐる議論は、現在かなり興味深い主題を提供するのではないかと思う。個人の嗜好と生権力の機能との結節点に位置すると思われるからだ。喫煙者こそ、生権力の問題を肌で理解するのではないか。
 さて、伝統的な愚行権の議論すら理解していないような極めて強いパターナリズムを疑うことのない医師の発言を聞くにつけ唖然とする以外にないが、今や弱い位置に立ってしまった喫煙者の一人として、これを一つのモデルケースとして色々と考えてみたいと思う。とは言え、この件について、まだまだ理論武装をしているわけではないので(煙草は崇高であると居直ってもしょうがないし、車の排気ガスも悪いし、と言っても煙草について語ったことにはならない)、今現在の立場についてだけ、個人的なことも含めてまずは簡単に示しておこう。
 1.嫌煙ファシストとまで言うつもりはないが、嫌煙を強く主張する人とは、基本的に気が合わないと思う。そのような人とどのように共存していくか、ということは結構シビアな問題である。討議的理性なるものと哲学とは無関係であると強く思う私ではあるが、このような場面でこそ、登場を願いたい。
 2. 私は、20代後半から30代にかけての或る時期に、極めて意識的に煙草を吸うことを選択した。だから、喫煙に関してはまだまだひよっこではあるが、筋金入りでもある。
 3. 煙草が何らかの意味で身体に悪いであろう事は十分に理解している。そして、私の知る限りで、疫学的な研究の成果からして、煙草が癌などの、実効的原因とまでは言えないにしても、マルブランシュの言葉を用いるなら第二原因・機会原因になるであろうことも意識している。さらに副流煙に関する一連の議論が本当に正しいのかということにもやや疑問があるが、それでも、それを正しいと考えている人がいるのも事実だから、そのような人の前では吸わないし、幼児や子供の前では吸わないなど、いわゆるマナーもそれほど悪くはないはずだ。(一度見かけたことがあるが、確かに誰かに迷惑をかけているわけではないものの、これ見よがしに煙草の煙を空高く爽快に撒き散らしていた小谷野敦のように、嫌煙論者を逆撫でするほどの度胸もない。)
 4. そして、癌の発病に関しては、遺伝的な要因が大きく、煙草がその要因をもとに発病への機会を作ることが多いだろうと想像する。私に関して言えば、喫煙者であった父が肺癌で70のときに亡くなっているから、と言うよりも、70までは生きていたから、私も上手くいけばその位までは生きられるといいと思っているし、それで十分である。我がドゥルーズも70で亡くなっていることだし、一つでも自分なりの哲学の概念を作れればそれだけで十分と心から考えている私としては、まあ、60位まで生きられれば恩の字である。後15年もあれば十分ではないか。
 5.生権力に対する考えがあるので、もはや健康診断等を受診することは一生ないだろう。肺癌などがわかったときには、既に末期だろうから、それほどに迷惑をかけずに、数ヶ月で存在しなくなると思う。そんな意味では、医療費に関しても迷惑はかけないだろう。(手術をするにしろ、抗ガン剤を施すにしろ、良心的医師の宣伝的・希望的観測に関わらず、何も治療をしないときの存命年数と変わらないだろう。大して何もしないままそれほど苦しまずにあっと言う間に死んでいった父は、その限りで幸福だった。)
 というわけで、基本的に誰にも迷惑をかけないで煙草を吸っているはずなのに、そして、日本では他の国に比べたらそれほど高くないとは言え、毎月かなりの税金を払っているのに、どうして苦しい禁煙を強いられねばならないのか疑問だ。今、それこそ、成田行きの飛行機の中で辛いのだが、週に一便でいいから、そして、少し割高でいいから、喫煙便を出すなどの知恵はないのか。煙草嫌いの潔癖主義者のための清掃費がかかるから経済的に無理であるということなのだろうが。
 煙草から離れられないのは不自由だと思った時期もあった。でも水や空気のように煙草を必要としている者から、それを奪う権利がどこにあるのか、と今では思う。まずは、このような素朴な断言から始めよう。[この項、いずれ続く。]

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