2008/5/11 2:57
おかしな二人組、大江健三郎/蓮實重彦 文学
『新潮』連載時に読んだ大江健三郎の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』を、遅まきながら単行本版で再読した。それをきっかけにして、共に『新潮』2008年1月号に掲載されていた、大江健三郎のエッセイ「星々と海底の潮の流れ」と蓮實重彦の評論「去年の暮れ、突然に――大江健三郎『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』」を読んだ。
前者においては、次作となるかも知れない「短かめの長編」が『荒地』の有名な詩行に喚起にされてのものであることが示唆されていて、心躍らされた。(矢作俊彦にも『舵をとり 風上に向く者』という題名の短編連作集があるが、大江健三郎は、もちろん深瀬基寛の訳から該当部分を引用している。前作と同様にその詩行から題名を取るとしたら、どの部分が選ばれるのだろうか。)
さて、一読してさらに興奮したのは、蓮實重彦の評論である。2007年9月2日付けのエントリーにおいて私は、「第四章 「アナベル・リイ映画」無削除版」はちょっと凄い。「「赤」の誘惑」どころの話ではない。」と書き、その感想には今でも変わりはないのだが、あたかも『「赤」の誘惑』に対抗して書かれたかのような小説に対して、正面からの読解を試み、この人にしか出来ない批評を提示している。私の力量では、いわゆるネタバレをしないようにして、それを紹介することは出来ないので、現物を読んで欲しいと思う。
四半世紀も前に蓮實重彦の『大江健三郎論』を驚きと戸惑いとを感じながら読んだことを今でもよく覚えているが、その後書きに書かれていたように、大江健三郎と蓮實重彦の関係はとても不思議なものである。ノーベル賞受賞後に柄谷行人と大江健三郎とは対談を行っているが、蓮實重彦/大江健三郎間にはそのようなものはあっただろうか。だが、そのような世俗的・文壇的な交わりとは別に、この二人の間には、それこそ<おかしな二人組>の関係が成立しているように思われてならない。
前者においては、次作となるかも知れない「短かめの長編」が『荒地』の有名な詩行に喚起にされてのものであることが示唆されていて、心躍らされた。(矢作俊彦にも『舵をとり 風上に向く者』という題名の短編連作集があるが、大江健三郎は、もちろん深瀬基寛の訳から該当部分を引用している。前作と同様にその詩行から題名を取るとしたら、どの部分が選ばれるのだろうか。)
さて、一読してさらに興奮したのは、蓮實重彦の評論である。2007年9月2日付けのエントリーにおいて私は、「第四章 「アナベル・リイ映画」無削除版」はちょっと凄い。「「赤」の誘惑」どころの話ではない。」と書き、その感想には今でも変わりはないのだが、あたかも『「赤」の誘惑』に対抗して書かれたかのような小説に対して、正面からの読解を試み、この人にしか出来ない批評を提示している。私の力量では、いわゆるネタバレをしないようにして、それを紹介することは出来ないので、現物を読んで欲しいと思う。
四半世紀も前に蓮實重彦の『大江健三郎論』を驚きと戸惑いとを感じながら読んだことを今でもよく覚えているが、その後書きに書かれていたように、大江健三郎と蓮實重彦の関係はとても不思議なものである。ノーベル賞受賞後に柄谷行人と大江健三郎とは対談を行っているが、蓮實重彦/大江健三郎間にはそのようなものはあっただろうか。だが、そのような世俗的・文壇的な交わりとは別に、この二人の間には、それこそ<おかしな二人組>の関係が成立しているように思われてならない。
