2005/7/3  13:57

夏休みの自由研究:ガザに見る人類の足跡  分類なし

アフリカとアジアをつなぐ位置にあるガザ地区は、有史以前から通行路・戦場として重要な位置を占めていました。

現在有力な「出アフリカ」説に従えば、現生人類(新人)の起源はアフリカにあり、そこからユーラシアに広がったと考えられます。そして、アフリカ以外の最も古い新人の化石はイスラエルのカフゼー洞窟から見つかっています。それは約10万年前のものです。アフリカを出た最初の人類が、地形の平坦なシナイ半島の北側からガザを通ってそこに辿り着いたというのは十分ありそうです。しかし、このカフゼーの人々がそのままユーラシアの人間の祖先となったわけではなさそうです。彼らはそこで足止めを食って遠くに拡がることはありませんでした。イスラエルやシリアの遺跡では約4万年前まで旧人であるネアンデルタール人の化石が見つかっており、新人の足跡はそこで途絶えています。

現在アフリカ以外の場所に住む人々の遺伝子がとても均質なので、ある時アフリカを出た共通のごくわずかな数の祖先から枝分かれしたというのが「出アフリカ」説の基本的な考えです。我々の祖先はガザを通過したのかもしれませんが、氷河期当時はもっと狭かった紅海の入り口をエチオピアからアラビア半島に渡ったのかもしれません。いずれにせよ、その彼らはユーラシア大陸の南岸に沿って拡がり、環境に適応しながら再び地中沿岸まで戻ってきました。

ガザに人が住み着いたのが分っているのは紀元前6千年頃で、前3千年頃にはカナン文明の都市の中心となりました。ワジ・ガザの北の岸にあるテル・アル・アジュールの遺跡からははたくさんの陶器、アラバスター、青銅器が発見されており、東エルサレムのロックフェラー博物館に展示されています。また、エジプトがこの地域を支配するようになるとガザはエジプト王朝の行政的な首都となりました。

紀元前12世紀頃に入ると「海の民」の呼ばれる武装難民集団が地中海に登場し、ミケーネ文明を衰退させます。ペリシテ人はこの海の民の一部で、エジプトと海の民がガザで激しい戦いを繰り広げたことがメディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿の壁画に描かれています。このペリシテ人の名がパレスチナという言葉の元となりました。「海の民」の正体は世界史の謎ですが、その前の時代のクレタ文明の崩壊、気候変動など様々な要因で玉突き式に多くの民族が移動を始めたのではないかと思われます。

鉄器時代初期にはガザ港の役割は重要なものとなりました。旧約聖書のサミュエル前書には、ペリシテ人が鉄器を紹介しそれを独占していたとあります。カルタゴ人の陶磁器がテル・ルキッシュ(デリ・バラの近く)の共同墓地で発見されています。

その後もガザはエジプトとアッシリア帝国やバビロニアとの戦いに巻き込まれるなどし、紀元前332年に町はアレキサンダー大王に攻略されガザは2ヶ月もの間抵抗しましたが、最終的に陥落し住民は虐殺されたか奴隷として売り飛ばされました。前64年にはローマに占領され、前34年にはローマ属領ユダヤ王国のヘロデ大王に引き継がれましたが、その後ローマ直轄領になります。初期キリスト教時代、ガザは哲学と修辞学の学校で有名でした。この時代の大きな集落後がジャバリア難民キャンプのそばから発掘されていて、モザイクの床や舗装された道路跡、装身具などが見つかっています。また、ビーチ難民キャンプの北西には当時の港湾都市アテンドン(ギリシャ語で花々の場所)の遺跡があり、その南のマウイマスの遺跡は4〜6世紀の都市の跡で、教会跡が見つかり、中にいろいろな動物が描かれている円形のモザイクや、竪琴を弾くオルフェウスの姿がありました。これらのモザイクはエルサレムのイスラエル博物館に移され、現在は幾何学模様の枠だけが残っています。

ビザンチン帝国時代は季節ごとにバザールで有名で、それはアラブ部族クライシュ族によって運営されていて、第二代カリフのオマル・ブン・ハッターブはガザにおける交易で利益を得ました。637年にはイスラム帝国による支配が始まり、十字軍の支配を除いて、12世紀までアラブの支配下にありました。マムルーク朝のもとでガザは大きく発展し、モスクや学校、病院、浴場などが建設され、彼らの時代はパレスチナにおける黄金時代と考えられています。スルタンの副官であったアミール・ユニス・イブン・アブダラー・アル・ナウルージは1387年にガザ地区南部にハン(キャラバン・サライ)を建てて通行する旅行者、巡礼者、キャラバンに安全な場所を提供しました。その建物は今でも見ることがで、それがハン・ユニスの町の語源になりました。

ガザ市で最も有名なサイード・ハシム・モスクは後のオスマン時代の建物ですが、ここには預言者ムハンマドの曾祖父ハシムが埋葬されているという言い伝えがあります。ハシムはアラビアとダマスカスを往復する商人で、毎年ガザで夏を過ごしていましたが、滞在中に亡くなり、市の城壁に近い洞窟に葬られたといいます。ガザの人々はこの周辺を好んで墓所とするようになりました。

ガザは1516年にマムルーク朝からオスマン帝国の手に渡り、ガザは400年間トルコの支配下にありました。エジプト遠征の帰途のナポレオンが一時占領し、そのとき彼が司令部に使ったガザ市内の建物は現在は女子校になっていて、放課後であれば管理人に頼んで中を覗かせてもらうことができます。

ガザ地区の地下にはまだまだ多くの人類の宝が眠っているに違いありませんが、組織的な発掘は始まっておらず、政治的な混乱や戦闘で文化財はむしろ失われ続けています。平和は、ガザの人々の現在の暮らしはもちろんのこと、人類の過去と未来を守るためにも必要なことです。



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