2005/7/9  23:48

ガザ地区の町と村  分類なし

ガザ地区は、海岸に沿って首都圏で言えば東京-横浜の京浜地区、関西で言えば阪神間ほどの広がりのある地域です。しかし、ガザ市以外の町には訪れる外国人も少なく情報はわずかしか入ってきません。今日は、ガザ地区の町を紹介します。

ベイト・ハヌーン
 ガザ地区の北の端にある町です。イスラエル側の呼び名はエレツで、パレスチナ人がガザ地区からイスラエル側に行き来できる唯一のチェックポイント、エレツ検問所はこの町の名から来ています。この町はガザ市から近く、実質的にはガザ市の衛星都市のようになっていて、多くの人がガザ市に通勤していますが、ガザ地区の中では水資源に恵まれた土地で、農業も大変盛んです。水道水(地下水を汲み上げている)が塩辛いガザの人はベイト・ハヌーンに水を買いに行くというそういう土地です。
 ベイト・ハヌーンはイスラエルとの境界線に近いため、パレスチナの武装組織がロケット弾をここからイスラエルの村に向けて発射して、イスラエル軍が報復のために侵攻するということが繰り返されました。特に昨年は衝突が激しく、多くの家屋が破壊されてしまい、子どもたちを含む大勢が死亡しました。

デリ・バラ
この古いパレスチナの町はガザ地区の中央にあり、ガザ市の13キロ南西の海岸に位置しています。他のガザ地区の町と同様に、古くからの町と難民キャンプが同居しています。オスロ合意が進展していた時期には、ここには貿易港の建設が進められていました。デリ・バラ村はナツメヤシの木が豊富で、おいしいナツメヤシの生産で有名です。村としての歴史は古く紀元前14世紀ごろには人が住んでいて、人型に似た石棺が数多く見つかっています。

ハン・ユニス
 ガザ市の25キロ南、タクシーで30分から40分程度の、ガザ地区第2の都市で、近隣の村から農作物を売りにくる市場となっています。ここも、隣接してハン・ユニス難民キャンプがあり、合わせて約12万4千人が住んでいます(1999年の統計)。
 ハン・ユニスなどガザの南部地域はガザ市と比べて貧しく生活が厳しいし、医療や福祉もより遅れています。また、援助も投資もガザ市に集中しがちです。また、ガザ全体で問題になっている水質は、ハン・ユニスが最悪の状態と言われています。
 前回書いたように、ここには町には中心あるアミール・ユニスのキャラバン・サライ(隊商宿、アラビア語でハン)があります。このハンはこの地域ではアル・カーラ(要塞)とよばれていますが、それはオスマン時代の間、地中海沿岸の主要道路を支配する軍事基地として用いられていました。このハンは輸入されてきた石灰岩と地元の砂岩で作られていて、建物の中にはいくつかの大理石の床板を見ることができます。ハンの大部分は壊れてしまっていますが、ファサードの南側は現在でも幅60メートル、高さ10メートルにわたって立っています。この町はハンの周辺で発展してきました。ドイツの旅行者シューマッハーは1866年にハン・ユニスにやってきてこの町を次のように記述しました。「ここには良いマーケットがあり、多くの乾燥した食べ物や多くの豆を供給していて町の南側を占めている。この町は非常に注意深く正確にレイアウトされていて、通りは直角に交わっていて、清潔で広い。」
 ハン・ユニスのそばにはイスラエルの入植地ネーブ・デカリムがあり、ここはガザ地区でもっとも大きな入植地の入り口となっています。パレスチナ人の街と入植地がこれほど近接している例はガザ地区でもめずらしく、第二次インティファーダが始まった後は数え切れないほどの侵攻と衝突で多くの人命が失われました。

ラファ
ラファ市はガザの38キロ南にあって、難民キャンプとあわせると人口は約9万2千人の町です(1999年の統計)。
この町は、エジプトとパレスチナの間に国境が引かれた1916年以来、国境の町となっていて、古くはクレオパトラの結婚式が行われたところとして有名です。現在もアルテミスとアポロンの神殿跡を見ることができます。ガザ国際空港が町の南東に作られましたが、現在は滑走路が破壊されて使用できません。しかし、今でも空港職員は毎日出勤して空港が再び使える日のために備えているそうです。
 ラファの難民キャンプは1978年にエジプトとイスラエルで結ばれたキャンプ・デービット合意でシナイ半島がエジプトへ返還されたときに、新しい国境によって二つに分断されました。その時、新しい国境は家族や家そのものを文字通り分割してしまいました。この状況が国際的に非難されたにもかかわらず、これまで何も行われていません。かつては、毎日パレスチナ人の子どもや老人や女性たちが、会うことができない家族とフェンス越しに語り合う姿が訪れる人の胸をうちました。ここはかつてベルリンがそうであったように、分断された町なのです。
 第二次インティファーダが始まった後、ラファのエジプト国境沿いの難民キャンプは、エジプトからの武器密輸トンネルを破壊するという理由で繰り返し攻撃を受け、国境沿いの地区の家々はすべて破壊されてしまいました。国境には高い(そして地下にも深く埋まった)金属の壁が立てられ、監視塔から狙撃兵が市民を狙い撃つガザ地区で最も死と隣り合わせの町になってしまいました。アメリカ人の平和活動家レイチェル・コリーさんがイスラエル軍のブルドーザーにひき殺されたのもこの町です。
 ガザの入植地の撤収はラファの人々にとって朗報ですが、イスラエル側はエジプトとラファの間にあるフィラデルフィ回廊の管理を続けると明言しているので、ラファの人々が安心して眠れる夜がいつ来るのかはわかりません。



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