2008/9/2 5:06
不毛の地での石油採掘 映画
『R246STORY』に触発されて日本のヒップホップを何枚か聴いてみたが、残念ながらどれもピンと来なかった。昔のキングギドラといまのブルー・ハーブだけはなかなか悪くなかったけど。てゆうか、ONE DAY AS A LIONみたいのを聴いてしまったあとではしかたない。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を前にした(拙作を含む)日本映画全般のようなことだ。しかしその意味でもCKBのクオリティ維持の力にはつくづくおそろしいものを感じる。
そんなわけでいち早くDVDをGETした『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』再見。学者さんとかはもうちょっと真剣にこのダニエル・プレインビューという存在を分析すればいいのに、などと余計なことを懸念しつつ、まあそもそも心理などどうでもいいのでもっぱら語りの構造に耳目を集中させると、やはり年号の提示が邪魔であり、音響の先行が深すぎて後半になると尺を短くするための方便というか苦肉の策としか思えなくなっていく。音楽も、試写の直後にジムくんが「全然ダメ!」と苦言を呈していたように、全然ダメだった。そのときはただただ画面に釘付けになっていてそこまで気が回っていなかったけれど。それだけ画面の強靭さは、やはり圧倒的。一方、この映画のおそろしさは、当然のごとく、ありえたかもしれない自己に負けまいとして結局叩き潰されるという合衆国の二大政党制のナンセンスを、その双方を同じ俳優によって演じさせる肉体への還元(どうやら急場しのぎ的な事情だったらしいが)にあって、実際、誰であろうと他者を容認しない原−アメリカとしての石油=血=ダニエルにその勝敗をジャッジされ、さらにそれを目の当たりにする観客に対して「終わり」が告げられることによってこそ各人の孤立の恐怖がいや増すのであり、このやり方がアルトマンやアルドリッチを正統に踏襲していることは説明を要すまい。その前提として、養子の息子HWの聴覚が失われることをサイレント映画の暗喩として置き換えることはいかにも安易だが、原−アメリカは、本当は喋れるんだろう、とその欺瞞さえ容赦なく告発する。このような厳しい映画を見つつも、今年の日本映画は豊作、などと微笑んでいられる暢気な人々は幸いである。某所で語りあった某氏が、あれもダメ、これもダメ、日本はどうしようもない、とこちらは未見の話題作をしらみつぶしに血祭りにあげたその場では思わず戦慄したが、本作を再見してその苛立ちをあらためて共有できた。そのダメさ加減は福田を辞任させてしまう与党の無策とあまりに酷似している、と「ひとごとのように」呟かざるをえない立場に私はいるのだけれど。ただしこのダメさ加減は「映画はまだ生きている」という妄想のうえに成り立っているのであり、だからおそらく唯一そこから覚醒し、日本映画の墓の上でダンスを踊る『トウキョウソナタ』だけに空疎な豊穣を祝う権利が許されているのだろうし、未見だけど雌の半魚人の母性が人間界をどうにかする大儲けアニメのみが、現在のアメリカ映画と比肩する実験の自由を獲得するのだろうことは、かろうじて理解できる。
さて……この不毛のさなかでどんな櫓を立てられるのか?
いずれにせよ、血は流される。
そんなわけでいち早くDVDをGETした『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』再見。学者さんとかはもうちょっと真剣にこのダニエル・プレインビューという存在を分析すればいいのに、などと余計なことを懸念しつつ、まあそもそも心理などどうでもいいのでもっぱら語りの構造に耳目を集中させると、やはり年号の提示が邪魔であり、音響の先行が深すぎて後半になると尺を短くするための方便というか苦肉の策としか思えなくなっていく。音楽も、試写の直後にジムくんが「全然ダメ!」と苦言を呈していたように、全然ダメだった。そのときはただただ画面に釘付けになっていてそこまで気が回っていなかったけれど。それだけ画面の強靭さは、やはり圧倒的。一方、この映画のおそろしさは、当然のごとく、ありえたかもしれない自己に負けまいとして結局叩き潰されるという合衆国の二大政党制のナンセンスを、その双方を同じ俳優によって演じさせる肉体への還元(どうやら急場しのぎ的な事情だったらしいが)にあって、実際、誰であろうと他者を容認しない原−アメリカとしての石油=血=ダニエルにその勝敗をジャッジされ、さらにそれを目の当たりにする観客に対して「終わり」が告げられることによってこそ各人の孤立の恐怖がいや増すのであり、このやり方がアルトマンやアルドリッチを正統に踏襲していることは説明を要すまい。その前提として、養子の息子HWの聴覚が失われることをサイレント映画の暗喩として置き換えることはいかにも安易だが、原−アメリカは、本当は喋れるんだろう、とその欺瞞さえ容赦なく告発する。このような厳しい映画を見つつも、今年の日本映画は豊作、などと微笑んでいられる暢気な人々は幸いである。某所で語りあった某氏が、あれもダメ、これもダメ、日本はどうしようもない、とこちらは未見の話題作をしらみつぶしに血祭りにあげたその場では思わず戦慄したが、本作を再見してその苛立ちをあらためて共有できた。そのダメさ加減は福田を辞任させてしまう与党の無策とあまりに酷似している、と「ひとごとのように」呟かざるをえない立場に私はいるのだけれど。ただしこのダメさ加減は「映画はまだ生きている」という妄想のうえに成り立っているのであり、だからおそらく唯一そこから覚醒し、日本映画の墓の上でダンスを踊る『トウキョウソナタ』だけに空疎な豊穣を祝う権利が許されているのだろうし、未見だけど雌の半魚人の母性が人間界をどうにかする大儲けアニメのみが、現在のアメリカ映画と比肩する実験の自由を獲得するのだろうことは、かろうじて理解できる。
さて……この不毛のさなかでどんな櫓を立てられるのか?
いずれにせよ、血は流される。
